(3)
「治せねぇってのは、どういうことだ!」
雷のごとき怒声が屋敷を震わせたのは、まだ日も明けきらぬ早朝のことだった。
何事かと目を覚ます依代と祥之助。
「だから、もう掛け軸はないんだよ!」
「何がないだ! 昨日も何か治しに来てもらった奴らが泊まり込んでいるだろうが!」
「だからそれは誤解だって言ってるだろ!」
「ええい、知るか! 俺の親父はまたあの痣が出て苦しんでるんだよ! 足を腐り落とせって言うのか?! それとも、お前を村八分にしろって命じたのが親父だったから苦しみ抜いて死ねって言ってんのか?!」
「そういうんじゃねえって、言ってんだろうが!」
「同じだろうが!」
互いに罵り合う声と、どしどしと床板を踏み抜かんばかりの音がする。
「何やらただ事ではないようですね」
「腐り落ちるとかって言ってますよ」
即座に夜具を畳んで依代が呟けば、顔を顰めて祥之助が応じたとき、
「てめぇがやらねぇなら、俺が自分でやってやる!」
スパンと、障子戸が引きあけられた。
勢いよく障子戸が滑り、背後に追いすがる誠二郎に宣戦布告をした体格のいい青年が、座敷に足を踏み入れながら顔を戻したときだった。
「おはようございます」
手櫛で髪を整えながら依代が出迎えれば、
「なっ?!」
驚きの声を上げて目を見張り、ぎくりと青年は体を強張らせた。
無理もない、誰もいないと思っていた矢先に、見目美しい少女が寝起きだと解かる状態で待ち構えていたのだから。青年でなくとも驚き戸惑い動きを止めるだろう。
ましてやその少女の眼が、これまで一度としてみたことのない銀色をしているのだ。浮世離れし過ぎて声を失うのも当然。
「な、な、な」
青年の視線が、依代と祥之助と、背後の誠二郎へと向けられて、再び依代へと戻ったところで、
「お初にお目にかかります。私は依代と申します。ここへは光を失った目を治してもらうために参りました」
三つ指を付いて、深々と頭を下げた後に小首を傾げて説明されれば、
「お、おおう。それは、大変、だったな」
しどろもどろになって返す青年。
「で。目は治してもらえたのか?」
「いいえ。菩薩様がいらっしゃらないということなのでまだ……」
と、形の良い眉を八の字にすれば、
「お前! 金持ち連中のところにはさっさと出張るくせに、わざわざ出向いて来た娘さんの眼も治さねぇのか!」
「だから、もう治せないって言ってんだろうが!」
途端に再開する言い争い。
「何が治せないだ! 出し惜しみしてるだけだろうが!」
「そんなんじゃねぇって言ってるだろうが! もう菩薩がいねぇんだよ!」
「何がいねぇだ! 人を馬鹿にするのも大概にしろ!」
怒髪天を衝く勢いで怒りを露わにする青年。
「あんなに堂々と立派に描かれた菩薩を目にして、どうすりゃお前の言葉を信じられるってんだ!」
「「「え?」」」
青年以外の三人の声がものの見事に揃った瞬間だった。
思わず。という風に、祥之助と誠二郎が掛け軸を見る。
だが、そこには何も描かれていない。だというのに、
「何が『え?』だ。白々しい。お前の気持ちはよくわかったよ。そんなにやりたくねぇならやらなくたっていい。俺がやる。そいつを貸せ!」
と、怒り心頭に眉毛を吊り上げて、畳を踏み抜くような勢いで足を進めるのを、
「いや、ちょっと待て! そこには何もいない! 何も描かれてなんかいないんだ!」
「嘘を吐くならもっとましな嘘を吐け!」
体格さは歴然としたものがあった。
後ろから着物を引っ張ったところで、青年は誠二郎を引きずってでも座敷を横切り手を伸ばし、その手が掛け軸に触れたかどうか――と言う瞬間だった。
どたん! と誠二郎がひっくり返り、「え?」と驚きの声を上げたのは祥之助だけ。
「今、何が起きたのですか?」
と、目の見えぬ依代が疑問を口にすれば、祥之助は答えた。
どこか呆然と、呆気にとられた口調で、
「消えました」――と。
「消えた?」
依代が訝しげに問い返す。
「はい。あの怒鳴り込んで来た男が消えました」
「どこへですか?」
「解りません」
掠れた声で答えれば、
「だからよせと言ったんだ」
蚊の鳴くような怯えた声が、やけにはっきりと依代に届いた瞬間だった。
「うわっ!」
驚きの声を突然祥之助が上げた。
どうしたのかとすかさず依代が訊ねれば、祥之助は震える指を掛け軸に向け、
「か、掛け軸の中に、消えたはずの男の顔が……」
「顔が?」
事実、何も描かれていないはずの掛け軸の額面には、恐怖に引き攣り、助けを求める青年の顔が浮かび上がり――そして、
「消えた?」
再び何も描かれていない額面に戻り、祥之助が呆然と呟いた。
室内に、重苦しい沈黙が下りていた。
耳が痛くなるほどの沈黙だった。
それを打ち破ったのは依代。
「さて、説明をしてもらいましょうか――と言いたいところではありますが、先に消えた方のご家族の元へ参りましょうか」
スッとその場に立ち上がり、無様にも尻もちをついて見上げる誠二郎を見下ろす。
「何を呆けているのですか?」
見えていないはずなのに、見えているかのように叱咤する。
「早くしないとあの病があの方のお父上の足を腐り落としてしまうのでしょ?」
「だ、だとしても、鬼すらいなくなった掛け軸なんか持って行ったところで、一体何になるって言うんだ?」
すっかり怯え切っている誠二郎に、
「そんなものはいりません」
ぴしゃりと依代は言い切った。
「祥之助がいればおそらく何とかなります」
「なんとかって……」
「詳しい話はゆくゆくお話しますし、お聞きします。故に今はお立ち下さい。あの方の家はどこですか?」
有無を言わせぬ依代の、凛とした佇まいに見下ろされ、誠二郎は『否』とは言えなかった。
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