第二章 『奇跡の掛け軸が起こす悲劇』

(1)


「な、んで?」


 目が見えないんだから鬼を見たいも何もないだろ!

 と、悲鳴染みた声を上げた誠二郎に、

どうしても視たいんです。見えなくても視たいんです!

 と、瞳を潤ませた依代が詰め寄って、押しに押されて根負けした誠二郎が掛け軸の間となっている客室のうちの一つに案内し、障子戸を開けたときだった。

 何一つ家具の置かれていない六畳間。唯一あるのは、開ければ左手の壁に飾られている《奇跡の掛け軸》。今となっては《鬼の掛け軸》に意を決して目を向けてみれば、飛び込んで来た光景に掠れた声を上げていた。

「どうされたのですか?」

 背後で依代の不思議がる声が上がるが、誠二郎は動揺して答えるより先に慌てて掛け軸に駆け寄っていた。

「な、んで?」

 再び同じ言葉を呟く。

 ある意味無理もなかっただろう。

 掛けられていた掛け軸の中に、何も描かれてなどいなかったのだから。

「なんで? なんで? なんでだ? どこに行った?」

 掛け軸をめくり、裏を見る。周囲を見る。掛け軸から鬼が抜け出し、どこか別なところへ宿ったのではないのかと、冷や汗を流しながら辺りを見回す。

「なんで何も描かれていない?!」

 意味が分からなかった。一体鬼はどこへ行ったのか。

 心の臓がバクバクと激しく胸を内側から叩いていた。

 訳の分からない焦燥感が誠二郎を襲い、

「消えたのですか?」

 緊張感のない声が掛けられた時、誠二郎は弾かれたように背後を振り返り、依代と向き合った。

 依代は、小首を傾げてまっすぐに誠二郎の喉元を見ていた。

 視線は全く合っていない。見えていないのだから当然だ。

 それでも誠二郎は動揺した。

 別に依代は誠二郎を睨み付けているわけではない。不信感を露わにしていたわけでもない。

 ただ、事実確認をされただけだ。だというのに、

「違うんだ!」

 誠二郎は否定していた。

「何がですか?」

「嘘は吐いていない。本当に菩薩が鬼になってたんだ」

「今はいないようですけどね」

 と、不信感全開で口を挟んだのは、依代の背後から部屋を覗き込んだ祥之助。

「どこに行かれたのでしょう?」

 と、頬に手を当て小首を傾げる依代に、

「いなくなってしまったのであれば仕方がありません。残念ですが。非常ぉぉぉおおおおおおおっに、残念ですが、帰りましょう」

 力いっぱい祥之助が提案した。が、

「何を言っているのですか祥之助。帰るわけがありません」

 にっこりと微笑んで依代は断言した。

 途端に『依代様~』と情けない顔になり声を上げる祥之助に、依代は力説する。

「初めは人々の病を治してくれた菩薩様。ですが、気が付くと鬼に姿を変えてお坊様を脅し、扱われぬまま放置されたらその姿を消してしまった。一体どこへ行ってしまわれたのでしょうか? 人淋しくなって、誰か話し相手を捜しに行ったのでしょうか? それって、なんか可愛らしくないですか?」

「は?」

 誠二郎は本格的に依代の頭を心配しだした。

 一体何をどう捉えれば、「可愛い」などという意味不明な発言に繋がるのか。

 思わず依代の頭越しに祥之助の顔を見れば、祥之助はすっかり困り果てた顔で目を伏せると軽く左右に頭を振った。

 誠二郎は、何故か見えない鈍器で頭を殴られたような衝撃を受け、堪らず頭を押さえて背後に数歩よろめいた。

 ついて行けなかったのだ。これまで出会った人間たちとまるで違う反応だった。

 意味が分からなかった。解らなさ過ぎて、むしろ恐ろしく思えて来た。

 だが、依代はそんな誠二郎の状態を知らぬままに、声を弾ませて楽しそうに続ける。

「だって、寂しくて掛け軸から抜け出してしまうんですよ? どこで時を潰しているのでしょうか? 鬼が出たという話はないのですか? それとも、鬼の姿を取っていないのでしょうか? ある意味この掛け軸は鬼の家になっているのですから、それほど長く抜け出していられるとは思えないのですが……あ。もしかしたらもっと奥へ潜っているのかもしれませんね」

「奥へ?」

「はい。だって今はお日様がありますからね。たとえ障子を閉め切っていたとしても、日の光はこの座敷の中にも入り込みます。鬼は妖ですし、日の光を好みません。昔々、ずっと昔には日の光も気にせず跋扈できるほどに強い鬼や妖もいたそうですが、今は多分それほど強い力を持った鬼や妖はいない……とまでは言いませんが、おそらく少ないはず。だとすれば、日の光があるうちは、奥に引っ込んでじっと息を潜めて寝ているのかもしれません」

「でも、菩薩の時は日中に力を使えたぞ?」

「だって、菩薩様ですもの」

 にっこり微笑んで清々しいほどに断言された。

 そこに一片の疑いも存在していなかった。

 だからだろうか。うっかり誠二郎もそういうものかと納得しかけたとき、火筒のごとき発言が依代の口から解き放たれた。

「だとすれば、夜まで待てば出て来てくれるのでしょうか?」

「は?」

 何を言われたのか刹那理解が出来なかった。

「日の光が苦手で奥へ潜っているのであれば、夜になれば出て来てくれるかもしれませんよね?」

「な、にを言ってるんだ、あんた?」

「駄目ですよ、依代様!」

 理解不能に陥っている誠二郎と、察して顔色を変える祥之助。

 二人の男から挟まれる形で視線を向けられた依代は、ふふふと楽しそうに微笑んで、

「今夜はここにお泊りですね」

「はあ?!」

 悲鳴のような声を誠二郎は上げていた。

「あんた、本気か?」

「はい。御迷惑でなければ是非お願いしたいのですが……」

「迷惑だ!」

「そうですよ!」

 依代が言い切る前に断言すれば、すかさず祥之助が追い打ちをかける。

「こちらの都合というものもあるのですから、いきなりやって来て泊めてくださいなんて、そんな失礼なことしてはなりません! ましてや、鬼が出てくるかもしれないんですよ!」

「楽しみですね!」

「怖いですよ!」

 ニコニコと心底楽しそうな様子の依代に対し、顔を蒼褪めさせて当たり前のことを叫ぶ祥之助。誠二郎にしてみれば、祥之助の反応こそが当然のもの。

 だが、依代には欠片も怯える様子はなく、

「何も恐れることはありません。言葉を話せるのであればきっと話も通じます」

「同じ言語を用いる人間同士ですら話が通じなくて悲惨な末路を辿るというのに、どうして鬼なんかとまともに話ができると思えるんですか!」

「あら? 祥之助がまともな反論をして来るなんて」

「いつもでしょうが!」

「確かに。いつもですね」

「いつもこうなのか?」

「いつもこうなんですよ!」

 恐ろしいものを見る目で依代を見ながら引いて見せれば、泣き出さんばかりの顔で祥之助が力の限り肯定した。

「あなたからも言ってやってください! 泊めるなんて無理だと!」

「さっき言ったはずだが?!」

「確かに」

「大丈夫か?」

「大丈夫に見えますか?!」

「み、見えないな」

「見えますよ?」

「見えないだろ、どう見ても……」

「そうでした。見えていませんでしたね、私」

「「…………」」

 ふふふと楽しそうに笑って発せられた言葉に、咄嗟に何も返せなくなる男二人。

 それでも依代は気にした素振りを欠片も見せずに、穏やかな口調で告げた。

「心配しなくても、私には《彼》がいますから」

「彼?」

 と言われたものが誰を指し示すのか分からず眉を寄せる誠二郎。

 咄嗟に祥之助のことかと視線を上げると、祥之助はどこか苛立たしげな顔をして視線を逸らせ、依代は不釣り合いな腰の刀の柄に手を添えていた。

 お陰で誠二郎は改めて依代に対して違和感を覚えた。

 それこそ、

「あんたがソレを使うのか?」

 思わず話をぶった切るような問い掛けをしてしまう程度に。

 依代は答えた。何故かとても嬉しそうに『はい』と。

「これは私にとっての護神刀(ごしんとう)なのです」

「護身刀……」

「…………その目は何ですか。生憎とワタシにはそんな物騒なものを振り回す趣味はありませんよ」

 物言わず視線を向けた先で、祥之助が機嫌も悪く吐き捨てる。

 これまでに何度も向けられたのだろう。

『あんたは一体何のために一緒にいるのだ?』と。

 その、無言で問い掛けて来る存在意義に、何度このお付きの男は不快な思いをしたのだろう。

 別に誠二郎は同情めいた感情を覚えたわけではなかった。

 ただ単純に、これまでの人々と同様に、何のためにいるのだろうという純粋な、当たり前な疑問を口にしただけだ。

 それで不快になられても逆に困ると誠二郎が顔を顰めると、

「これは祥之助には使えないものですから」

「は?」

「相性が合わないと使えない特別な刀なんですよ」

「そんな話聞いたことがないぞ」

 胡散臭げな視線を向ければ、依代は不思議そうな顔をして返した。

「あなたが聞いたことがないだけで、そんな刀がない。という証明にはなりませんよね?」

「そ、れは」

「なりませんよね? だって、あなたはあなたの知っていることしか知らないのですから。あなたが知らなくても、他の人は知っていることというのは恐ろしいほどにあります。その中に『相性が合わないと使えない特別な刀』があったとして、何の不思議がありますか? たまたま私がそれを知っていて持ち歩き、あなたが知らずに出会ったとして、刀の存在を否定することは出来ないと思うのですが、どうでしょう?」

「…………」

 口調穏やかに柔らかく紡がれた言葉ではあったが、誠二郎は妙な威圧感を感じていた。

 顔が引きつっている自覚はあった。思わず生唾をごくりと飲んでいた。

「ですから、何の問題もないのですよ」

 何が? と咄嗟に問うことが出来なかった。

「私がこの《掛け軸の間》に泊まることが、ですよ」

 それはそれはニッコリと微笑まれる。

「たとえ鬼が問答無用で襲ってきたところで、この刀と祥之助がいる限り私が命を落とすことはありませんから。ですから、大丈夫なんです。むしろ。そうなった方があなたのためにもなるのではないですか? だって、私が退治して差し上げられますから」

「た、しかに。なるにはなるんだろうが……」

「では、何の問題もないですね!」

 ぽんと両手を合わせて嬉しそうに目を細められる。

 まったくもって、誠二郎の理解が及ばなかった。

 馬鹿にされているのだろうかと思った。

 初めからおちょくるために来たのだろうかと思った。

 目が見えないのも嘘で、誰かが嫌がらせのためだけに差し向けて来たのだろうかとも思った。

 そう思った方がしっくりくるほどに、依代の言動は誠二郎の理解の外だった。

 依代が、目の見えない小娘が、よりにもよって鬼を退治するとのたまった。

掛け軸からは鬼が出て来るのだ。

 人を呪うことのできる鬼が。

 あの時はっきりと誠二郎は見た。坊主が呪われる様を見た。呪いを解かれる様を見た。

 あんなものを見るまでは、鬼などいるわけがないと思っていた。大方の人間は『鬼が来る』と口にはしても、本気で鬼が来るとは思っていない。

 だが、目の当たりにしてしまったものは信じざるを得ない。

 あの耳障りなざらざらとした声が、魂を震え上がらせるあの声が、今でも鮮明に思い出される中で、何の危機感もなく嬉しそうに鬼に会いたいと口走る依代が、何よりも誠二郎は不愉快だった。

「鬼は、本当にいるんだぞ」

 自然と声が低くなり、怒りと忠告が入り混じったものとなった。

 だが、依代には暖簾に腕押し。糠に釘。

「ええ。存じておりますよ。とても恐ろしいものですよね。でも、大丈夫です」

「これまでが大丈夫だからと言って、今回も大丈夫だとは言えないんじゃないのか?!」

 自分が恐れたものを、まるで恐れない依代の発言に、誠二郎はムキになる。

「確かに、あなたの言い分にも一理ありますが……」

「だったら! 少しは怖がれよ!」

「…………」

「喰われるかもしれないんだぞ! 死ぬかもしれないんだ! それなのになんであんたは!」

 ひたり。と依代と目が合った。

 別に睨まれているわけではない。責められているわけではない。

 ただ、これまで一度として見たことのない銀色の瞳と目が合った。

 怯えを隠し切れない自分の顔が写り込んでいた。

 言葉は消えて、息を飲む。

 目を、逸らすことは出来なかった。

 顔も体も動かなかった。口は開かず言葉も出ない。

 知らず知らずのうちに息すら止めて。

「私は、《眼》を、取り戻したいのです」

 うっすらと微笑みを浮かべて発せられた願いを聞いた。

「もう一度、自分の《眼》でこの世を見たいのです。見たいものが溢れているのです。それを私は取り戻したい。だから私はここまで来ました。試してダメなら諦めもつきます。ですが、試すことも出来ずに戻らなければならないという事態だけはどうしても受け入れることが出来ません。菩薩が鬼に成り代わられたというのならば、鬼を退治して菩薩を取り戻します。その鬼が隠れ潜んで出て来られないというのであれば、出て来るまで待たせてもらいます。それでも出て来ないのであれば――」

 皆まで言わずに依代は眼を細めた。

 出て来なければどうするのだろうと誠二郎は思った。

 背筋を一筋の汗が流れ落ちて行くのを感じていた。

 生唾をゴクリと飲み込めたことが奇跡のように感じられた。


――何人たりとも己の目的の邪魔はさせない。


 顔には微笑み。声音は柔らかく穏やかなモノ。

 だが、言外に誠二郎は聞き取っていた。依代の強い強い誰にも譲らない想いを。

 完全に誠二郎は気圧されていた。

 無理だと悟っていた。

 自分にこの娘を追い返すことは出来ないと。

 だからと言って、依代が鬼を退治できるとは頭から信じてはいなかった。

 相手は鬼なのだ。この世ならざるものなのだ。

 どれだけ腕に自身があるかは知らないが、化け物退治を生業にしているとは到底見えない依代が勝てるとは思えない。

 しかし、それを納得させるだけの言葉も意思も誠二郎にはなかった。

 依代は実際に鬼を見ていないからそんなことが言えるのだ! という反論ですら飲み込まれた。

 言えなかった。言えるわけがなかった。強い信念を持っている依代の前で、そんな常識的な発言は己の弱さを力説しているのと変わりがなかったからだ。

 だとしても、何の力もない人間であれば、当然の感情のはずだった。

 それでも、誠二郎は言えなかった。代わりに、

「お、俺は忠告したからな。最悪の事態が起きたとしても、俺は一切責任なんて取らないからな」

「はい」

「夜具だって自分で使ってるものしかないし、村の連中が貸してくれるとも限らない。飯も出すつもりはない。それでもいいなら勝手にしろ」

「はい!」

 と、季節外れの満開の桜のごとく柔らかな笑みを浮かべて嬉しそうに頷く依代の脇を抜け、誠二郎は足早に《掛け軸の間》を後にした。

 ただひたすら、自分は絶対に悪くないと言い聞かせながら。

 忠告を聞かなかったあの娘が悪いんだと、言い聞かせながら。

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