(3)

「なんで、そんなことしなくちゃいけねぇんだよ」

 青年――誠二郎は、何かとてつもない後ろめたさを覚えながら反論を試みたが、依代は実にあっさりと言ってのけた。

「知りたいからです」

「は?」

「ただ、知りたいからです。どうしてそんな嘘をつくのか。その理由を」

「知ってどうする……?」

「知った上でどうするか考えます。それとも、噂自体が嘘なのですか?」

「それは違う! あっ」

 咄嗟に否定して、誠二郎は渋面を作った。

 嘘だったと言えば、誤解されただけだと言えば、勘違いされて迷惑していたと言えば、余計なことを話さなくても良かったかもしれないと気が付いたから。

 だが、口に出してしまえばどうにもならなかった。

「噂は本当だったのですね」

「あ、ああ」

 嬉しそうに目を細められ、誠二郎は視線を逸らせて頷いた。

「では、何故、もうそんなものはないなどと嘘を吐かれたのですか?」

「別に……本当に、嘘だってわけじゃ、ない」

「と言うと?」

「ないんだよ」

 とても投げやりな答えだった。

「何がないのですか?」

「……」

「何が、ないのですか?」

「…………掛け軸」

「あの、病を治してくれる掛け軸ですか?」

「ああ」

「何故ですか?」

「何故って」

 問われた誠二郎は、それこそ今にも泣きだしそうな顔を依代へ向けて、唇を噛んだ。

「どなたかに盗られたのですか?」

「……ち、がう」

「捨てられたのですか?」

「……ち、がう」

「では、譲られた?」

「……ち、がう」

「だとすると――消えた――のでしょうか?」

「っ」

 否定する前に息を飲んだ。

 それだけで何が伝わったものか、依代は小さく何度も頷いて、

「そうですか。消えたのですか」

 当然のごとく納得していた。

「確か、掛け軸に描かれていたのは菩薩様だと聞きました」

「あ、ああ。何菩薩かは俺には全く解からねぇがな」

「その菩薩様を一撫でした手で、病に罹った部分を撫でると治るとか」

「あ、ああ」

「では、その菩薩様がどういう理由か分かりませんが、掛け軸の中から消えてしまったということでしょうか?」

「はっ?!」

 いきなり確信を突かれた誠二郎は驚きの声を上げていた。

「な、何でそんな風に話が飛ぶんだよ」

「別に飛んではいないと思いますよ? あなたは初めに『そんなものはもうない』と言いました。ですがその後に、私が嘘だと言うと完全に嘘だというわけではないと言いました。その上で噂は本当だとお認めになったので、噂の掛け軸自体はあるけれど、何か効力が消えてしまう問題が起きたと考えた結果、描かれている菩薩様がいなくなったのだと可能性を口にしただけですよ?」

「だけ……って」

 事も無げに告げられて言葉を失う。その上さらに、

「ですが、解からないことがあります。菩薩様の姿が消えたことも気になると言えば気にはなるのですが、菩薩様が消えただけではあなたがそこまで怯える理由が思いつかないんです。一体何にそれほど怯えられているのですか?」

「?!」

 驚愕に言葉もなかった。

 むしろ、恐ろしくもあった。

 未だかつて、この短いやり取りで誠二郎の置かれている状況を見破った者はいない。

「な、んで、そんなことが」

「ああ。光を失ってからというもの、他の感覚が研ぎ澄まされまして、人の感情には敏感になりました。ある意味一つの利点ではありますね」

 口元に小さな握り拳を当ててクスクスと笑う。楽しげに笑う。

 視力を失えば不安しかないはずなのに、これまでも何人かが視力を取り戻したいと訪ねて来て治したことがある。皆、一様に泣いて喜んでいた。ただの一人も、光を失ったことで得られたものがあったと口にした者はいなかった。あまつさえ、利点だと口にする者などいるはずがないと思っていた。

 その、光を失って何も見えなくなったという銀色の瞳が、楽しげに細められた眼が、誠二郎に向けられる。

「私は百発百中ではないにしても、九割方は相手が嘘を言っているか真実を言っているか見抜くことが出来ます。ですが、嘘を吐いていると解かっても、隠し事をしていると解かっても、その理由まで見通す力はありません。ですから、教えて欲しいのです。一体何を隠しているのかを」

「だ、から。そんなものを知ってどうするんだ」

「先ほども言いましたが、知りたいのです。理解したいのです。解らないものを解からないままにしておくのは気持ち悪くありませんか? 私は知って、理解して、そしてすっきりしたいのです」

「そんなの、俺には関係ない!」

「そうでしょうか?」

「なに?」

「私は貴方に、私の眼を治してもらいたくて遠路はるばるこちらまで参りました。勝手に来たんだろうがと言われてしまえばそれまでですが、来た以上は治して欲しいと思うのが人の心。それをただ、もう無理だと言われても気持ちが納得できません。どうしてそんな状態になってしまったのか、納得のできる説明をしていただかないことには、帰れと言われても帰ることなどできません」

「なんでだよ!」

「性分だからです」

 泣きたい気持ちで叫ぶ誠二郎に対し、困ったような笑みを浮かべて言い切る依代。

「おい、あんた、こいつ何とかしろよ」

 と、どうにもならないと悟った誠二郎が祥之助に矛先を変えるが、

「残念ですが、こうなると無理です。悪いことは言いません。さっさと事実だけを述べた方が解放されるのが早まりますよ」

 と、心からの同情を含めた諦め顔で告げられれば、誠二郎は『ああああっ』と苛立たしげな声を上げて自らの頭を掻き回し、

「鬼になっちまったんだよ!」

 破れかぶれのように叫んだ。

 刹那、

『鬼?!』と、歓喜の混じった声を上げたのは依代。

『げっ』と、心底嫌そうに呻いたのは祥之助だった。

 その、両者異なる反応に誠二郎が眉を顰めるが早いか。

「是非! 是非! そのお話を詳しくお聞かせください」

 何も見えないはずの銀色の瞳を爛々と輝かせて誠二郎に詰め寄ろうとする依代の後ろ帯を捕まえて、「落ち着いてください、依代様!」と悲鳴染みた声を上げる祥之助。

 誠二郎は、これまで出会ったことのない反応の二人に、完全に己を乱されていた。


   ◆◇◆◇◆


「正直、俺にも何が起きたのかなんてわからない」

 と、前置きして誠二郎は話し出した。

 何かがもう色々とどうでもよくなった結果だった。

 破れかぶれだと言わんばかりにその場にどかりと胡坐をかいた。

 この状況を歓迎しているわけじゃないという証拠に、依代と祥之助に円座の一つも出さなければ、座るように促したりもしない。

 祥之助の方はその行動に少しムッとしたものの、何一つ気にすることなく依代がその場に座ったため、渋々祥之助も従った。

「春先に、この村で手足が腐り落ちる病が起きた」

「まぁ」

「酷い有様だったよ。ぶつけたわけでもねぇのに、気が付くと痣が出来ててよ。それが気が付くと広範囲に広がって、その日の夜中には熱を持って痛みを持って腐り落ちるんだ。村中色んな所から悲鳴が上がって、次の日には悪夢のような惨状が待ち構えていたよ。一晩でいきなり十人死んだ。その五日後にはまた同じことが起きた。誰も彼もが戦々恐々として。それが、俺の腕にも出来たんだ。我が目を疑うってああいう時のことを言うんだろうな」

 頬を引きつらせながら誠二郎は自分の左腕を掴んだ。

「自分の腕も腐り落ちるのだと思ったら生きた心地なんてするわけがねぇだろ? 俺は祈ったよ。あの掛け軸にな。心の底から何でもするからと、心を入れ替えるからと。でも、俺の腕にはいきなり痣が広がった。痛みと熱が腕に宿ってな。半狂乱になって俺は掛け軸に縋った。あんたが菩薩様なら助けてくれって。そしたらな」

「そしたら?」

 ぐっと依代が期待に目を輝かせて身を乗り出す。

 対して誠二郎は渋面を作って続けた。

「声が聞こえた」

「なんと言っていたのですか?」

「治してやるってな」

「掛け軸の菩薩様ですね?!」

「そうなんだろうな。そいつは言ったよ。『ワタシの力を信じてくださるのであれば、この力を揮いましょう』ってな。信じる信じるって俺は言った。何でもいいから助けて欲しかったからな。だから従った。治し方に従って、言われるがままに菩薩の姿を撫でた後に自分の痣を撫でた。するとどうだ。痣が綺麗さっぱり消えたんだ。痛みも焼けるような熱さも綺麗さっぱりな」

「素晴らしいですね!」

「ああ。素晴らしかったよ。俺は泣いて喜んだからな。だから素直に従ったんだ。『同じ症状に苦しむ人々を救いなさい。そして、ワタシの力に感謝してください。その心がワタシの力となり、感謝してくれる限り、ワタシはあなたたちを守りましょう』ってな」

「それが《奇跡の掛け軸》の始まりなのですね!」

「そうだよ」

 両手をぽんと打ち合わせて声を弾ませる依代とは裏腹に、誠二郎は苦々しく吐き捨てる。

「村の連中は、それこそ俺を仏様みたいに崇めたよ。それまで村八分にして見向きもしてこなかったくせに。でもな、その時の俺は皆に感謝されたことが嬉しくてな。望まれるがままに病を治して行った。症状が出ればすぐに駆け付けた。『菩薩に対して毎日感謝しろ』って忠告して治してやった。初夏の頃にはすっかり痣が出ることはなくなった。その代わり、腰痛や肩こりや関節痛や他愛のないものまで治すようになった。で、夏の盛りに入ると今度は、見ず知らずの連中が来るようになった」

 どこかうんざりとした口調で吐き捨てる。

「噂が噂を呼んでいたらしい」

「それはそうですよ。私ですらこうしてやって来たのですから」

「ああ。俺は有頂天になっていた。皆が俺を頼って来る。食い物も金も着物も、絵を一撫でしてやるだけで手に入った。そうして建ったのがこの屋敷さ。そのうち、輿まで迎えに来て出かけるまでになった。俺の時代が来たのだと思った。俺に治せねぇ病なんてない! そう思ってたある日だよ。それが起きたのは」

 一度ぶるりと身を震わせて、自身を抱きしめながら誠二郎は告げた。

「あるお屋敷に連れて行かれたときだよ。目隠しされてたから、そこがどこかなんて知らねぇが、医者もお手上げの娘さんの病を治せと言われて、治せたらいくらでも褒美を出すなんて言われてな。俺はいつも通り、毎日この菩薩に対して感謝することは出来るかと念を押して、必ずすると約束したのちに掛け軸を開いたんだ。そしたらそこに、菩薩はいなかった。居たのは《鬼》だった。憎しみに彩られた禍々しい面構えの鬼がいたんだよ」

「まぁ」

「…………なんでここで、そんな嬉しそうな声出すんだよ」

 恨みがましい目を依代に向ける。

「俺は驚いて思わず掛け軸を放り投げちまったよ。周りも驚いたから、慌てて拾って、掛け軸の中身を周りに見えないようにしていつも通りにやってみた」

「鬼を撫でられたのですか?」

「ああ」

「噛み付かれるとは思わなかったのですか?」

「思ったさ! 思ったけどな! そこで出来ないなんて言えるわけがないだろ?! そんなことを口に出そうもんならこっちの首が飛ぶような状況だってことは解かってたんだ。だから、やるしかなかったんだよ!」

「ということは、無事に成功なさったわけですよね?」

「ああ。成功はした。成功はしたが、生きた心地なんて欠片もなかったよ。その後俺はここにまたすぐ送り返されたからな。すぐさま俺はこの村の寺に駆け込んで、自分の手にした掛け軸のことを話して、鬼を見せたよ。そしたら……」

 つーっと、誠二郎のこめかみに一筋の汗が浮かんで流れた。

 血の気が引いていた。カタカタと体が小刻みに震えていた。

「中から鬼が飛び出して来てな。坊主の体をすり抜けたと思ったら、坊主の顔や手があの痣に覆われて、坊主が絶叫したんだよ。痛さに顔に指を立てたら、その指がずぶりと顔にめり込んだんだ。絶叫だし、吐き気するような臭いが立ち込めるし、お陰で今もあの声は俺の耳に残ってるし、臭いも鼻の奥にも残ってる。俺は腰を抜かした。そんな俺に、鬼は振り返って言ったんだ。『オレを消そうなどと思うな。オレを崇める限り、貴様の地位は確立している』――だから俺は、頷いた。首が取れると思えるほどに何度も頷いたよ」

 口元に引き攣った笑みが浮かんでいた。

「すると鬼は引っ込んだ。脅しだったんだろう。鬼が引っ込んだと同時に坊主は元に戻ってた。だから俺は、このことは一切口外しないことを坊主に頼み込んで、掛け軸持ってここに帰って来た」

「それからどうしたのですか?」

「どうも」

「どうも?」

「掛け軸の間に掛け軸を掛けたまま、そこは開かずの間にしてる」

「どうしてですか?」

「どうして……って」

 誠二郎は恐ろしいものを見るような目で依代を見た。

「鬼を携えてどうしろって言うんだ!」

「それでこの有様なのですか?」

「そうだよ。俺は辞めたんだ。もうあの掛け軸は使わないとな。そのせいで恨まれた。元の木阿弥さ。稼ぐだけ稼いだから後は知らぬ存ぜぬかと、村の連中は俺を恨んだ。こっちの気もしらないで。だから俺は絶対にもうあの掛け軸は使わないと決めたんだ。俺は怖いんだ! あの鬼の顔を見るのが! あの力を使うのが! だからもう、帰ってくれ! 粘られたところで俺は、あの掛け軸と相対することすら嫌なんだよ!」

 泣き出さんばかりの顔で胸の内をぶちまける。

 実際、誠二郎は今の今まで胸の内をぶちまけることが出来なかった。

 頼まれ縋られ恨まれ罵られ。誠二郎の置かれた状況など誰もかんがみてはくれなかった苛立ちの全てを。

 だからこそ、

「ということは、今も掛け軸の間にその掛け軸はあるということですね?」

「だったら何だ!」

「是非拝見しとうございます!」

「はあぁ?!」

 どこまでもどこまでも、依代は誠二郎の想像の上を行っていた。


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