(2)

「ごめんくださ~い。ごめんくださ~い」

 噂の村に辿り着き、教えられた屋敷の玄関口で依代が屋敷の主に呼びかける。

 屋敷と言っても、一般的な家屋よりは広いというだけで、部屋数が四部屋ほどあると見当づけられる程度の広さのもの。庄屋や豪農や地主の屋敷の半分にも満たず、庭と呼べる庭もないが、それでも遠目からでも間違えることはなかった。

「主様はご在宅ではありませんか~?」

 どこか陰りを帯びた玄関口で呼びかけるも、返って来るのは沈黙ばかり。

 漂っているのはどこかピリピリと張り詰めた空気だけ。

 よくよく見れば上がり框には薄っすら埃が溜まり、天井付近の柱などには蜘蛛の巣が張っているのが見て取れた。

 依代と祥之助は互いに顔を見合わせた。

 何かが明らかにおかしかった。

 先月も先々月も村を訪れた人々がいたと茶屋の娘は言っていた。

 どんな病でもたちどころに治してしまう掛け軸があると知れば、それが実際に効果のあるものだと知れば、誰もが藁にも縋る思いでやって来るのも頷ける。

 だとすれば、もっと人の気配があってしかるべきだというのに、屋敷の空気は恐ろしく淀んでいた。

「何か、おかしいですね」

 祥之助が訝しげに眉を寄せて、再び屋敷の中を見渡した。

 土間には水瓶があり、竈があり、薪が積まれていたが、どうにも使っている形跡は見られず、玄関に面した座敷に囲炉裏はあるものの火は入っておらず、自在鉤に鉄瓶は掛かっているものの何の意味もなしていないことは一目瞭然。

「どちらかに出掛けられているのでしょうか?」

 依代がコクリと小首を傾げて口にすれば、

「だとすれば、初めから村の人たちがそう教えてくれてもいいようなものではありませんか」

 祥之助は素直に不満を口にした。

「そもそも、初めからおかしかったんですよ」

 腕を組み、苦虫を噛み潰したような渋面になる。

「村で起きた疫病をたちどころに治してしまったって話だったのに、ここの村人たちは皆、ここのことを訊ねると嫌そうな顔していたじゃないですか」

「そうですねぇ」

「普通は誇りに思ってもいいものじゃないですか? そうじゃなければ感謝してる空気感があってしかるべきです。ですがあれは――」

「恨んでいる――ですか?」

「そうです!」

「辟易していたのかもしれませんよ? また噂を頼りに来たのか――と」

「いいえ。アレは間違いなくここの主に向けられていたものです!」

「言い切りますねぇ」

「言い切りもしますよ。あの目、見ましたか? 見ましたよね?」

「見えませんけどね?」

「あっ」

 クスリと笑みをこぼされた言葉に、興奮気味だった祥之助は冷水を頭から被ったかのように息を飲む。その顔がみるみる蒼褪め、

「も、申し訳ありません、依代様! よりにもよってなんてことを」

「構いませんよ。見えてはいませんが、『視えて』はいますから。彼女たちの怒りと憎しみの矛先は私たちには向いてはいませんでしたからね。まっすぐこの屋敷に向かっていましたから、あなたの言い分に間違いはありませんよ」

「はい」

 と、すっかり項垂れて返事をする祥之助。

 それに困ったものだと小さく笑い、

「ですが、事実だからこそ気になりますね。どうしてここの主は恨まれているのでしょうか?

 聞けばいろんなところから治してほしいと訪れているらしいですし、当然ただで治療しているわけではないでしょうから、報酬もそれなりにいただいているとは思いますが……僻み……なのでしょうか? それにしてはそういう方向の感情は視えませんでしたが……」

「依代様?」

「なんですか?」

「帰りませんか?」

「帰りませんよ?」

「いつ帰ってくるかもしれないというのに、ここで待つつもりですか?」

「そうですねぇ。何なら勝手に上がって待っていましょうか」

「は?」

 ぽんと両手を打ち合わせて、名案を思い付いたとばかりに依代が声を弾ませれば、祥之助は頬を引きつらせて間の抜けた声を上げた。

「むしろ、勝手にお掃除もしてしまいましょう。そうすれば、見違えた屋敷を見て感動した主様が、快く私の眼を治してくれるかもしれませんよ?」

「そんなわけありません!」

「ないですか?」

「ないです!」

「そうですか」

「そうですよ」

「ですが、物は試しです。上がらせてもらいましょう」

「はあっ?!」

 話の流れをぶった切り、おもむろに上がり框に腰を下ろして草履を脱ぎ出す依代に慌てだす祥之助。

 本来であれば、何をやっているのだと腕の一つも掴んで引っ立てるところだろう。だが、祥之助にはそんなことは出来なかった。その身に触れるなどとてもではないが恐れ多くて出来なかった。

 だからこそ、何の抵抗も受けずに依代は草履を脱ぎ、当然のように座敷へと上がり込んだのだが、

「何をやってるんだ、あんたたち!」

 怒りよりも焦りを滲ませて、一人の青年が慌てて閉められていた襖を開けて飛び出して来た。

対して依代は。

「あら? どちら様でしょうか?」

 どちらが主か分かったものではない問い掛けを当然のように口にして、

「どちらも何もあるか! それはこっちの台詞だ! せっかくこっちが居留守使っているって言うのに、何を考えて上がり込んでるんだ!」

 極々当たり前の反論を喰らった。

 だが、正直祥之助は、『お前こそ誰だ』と問い掛けずにはいられなかった。

 屋敷の構えからして、出て来た青年はあまりにも似つかわしくなかった。

 継ぎ接ぎだらけの煤けた青い着流しに、ざんばら髪を首元で一つにまとめた、どこか暗く卑屈な顔立ちの青年だった。年は祥之助よりは下だろう。行っても二十代の半ば。七、八ではないと見当付ける。

 手に刃物などの凶器を持っていないことを瞬時に見て取って、祥之助は草履のまま座敷に上がり込み、依代を背に庇って誰何した。

「そういうお前こそ誰ですか!」

「この屋敷の主だよ!」

「嘘おっしゃい!」

「なんで嘘なんだよ! つか、履物脱げよ!」

「どうせ汚れているんですから大差ないでしょ!」

「掃除すらしたくねぇんだから汚すなよ!」

「そんな後ろ向きなこと堂々と宣言しないでください」

「つーか、出てけよ!」

「出来ることならそうしたいですよ! でも」

「帰りませよ?」

「な?」

「なんでだよ!」

 地団太を踏む勢いで怒りを爆発させた次の瞬間。

「この眼を治して欲しくてここまで来たからです」

「「なっ」」

 という驚きの声は青年と祥之助、二人の口から同時に上がった。

 無理もない。祥之助の背に守られていたはずの依代が、気が付けば青年の手を取り両手で包み込み、下から見上げるようにして小首を傾げて見せたのだから。

 さらりと髪の流れる音が聞こえて来るようだった。包まれた手は暖かくて柔らかく、甘い香りが青年の鼻腔をくすぐった。見上げて来る顔は恐ろしく整っており、何よりも見たことのない銀色の瞳と優しげな微笑みを至近距離で見下ろして、青年は首筋と言わず耳と言わず、顔が瞬時に朱に染まるのを嫌でも感じた。

 時が止まった瞬間だった。それを動かしたのは祥之助の一言。

「依代様!」

「なんですか? 祥之助」

「なんですかではありません! そのように不用意に異性に触れてはいけないと何度も何度もご忠告申し上げているはずです!」

 と、今度は祥之助が地団太を踏む勢いで、怒りに顔を赤く染めて声を張り上げる。

「ですが、お願い事をするのであれば、これが一番だとすみれさんが……」

「聞かなくてよろしい」

 皆まで言わせずにぴしゃりと言い切る。

「とりあえず、今すぐその手を放して一歩下がってください」

 断固譲れませんとばかりに断言されれば、仕方がないとばかりに依代は従った。

 その上で、胸の前で両手を組み合わせて青年を見上げる。

 青年は、たじろいだ。

 村の娘にはない輝きが依代にはあったから。

 だが、青年は心を鬼にして突き放す。

「悪いが、そんな顔されても期待には応えられない」

「何故ですか?」

「……」

 小首を傾げられる。それがどれだけの破壊力を有しているのか解っていてやっているのか、無意識なのか知らないが、青年は顔を背けながら答えた。

「もう…………そんなもんは……ないからだ」

 しん――と、屋敷の空気が凪いだ瞬間だった。

 息を飲む音すらしなかった。

 故に青年は戸惑った。

 いつもならば、この時点で言い争いに発展する。

 何故そんなウソを言うのかと。何故救ってくれないのかと。一体どれだけ出せばやってくれるのかと。足元見やがってと掴み掛って来る者もいないわけではなかった。あるかなしかの希望が打ち砕かれて、泣き崩れる者も少なくはない。

 だからこそ、もう煩わしい思いをしなくてもいいようにと、生活感をなくして居留守を使い続けて来た。生活自体は奥の部屋で取っていればいい。食い物は裏から出て買って食っていればいい。故に履物も玄関先から裏へと回していた。埃が積もり、蜘蛛の巣が張り、生活感が垣間見えなければ、ほどほどにして諦める。どこかへ行っているのかと諦める。諦めきれずに村の連中に訊ねたところで、恨まれている青年のことを懇切丁寧に教える奴はいない。

ましてや、自分たちが恩恵に預かれないというのに、どこの馬の骨とも知れない奴が恩恵に預かるなど冗談じゃないと思っている連中が、実は青年は居留守を使っているのだ――などと真実を教えるわけがないということを青年は知っていた。

 だから安堵していた。黙って息を潜めていれば大人しく帰るだろうと。

 それがまさか、勝手に上がり込んで掃除をしようと言い出す常識知らずがやって来るなど想像の外だった。

 そこまでして治して欲しいのかと思いつつ、そりゃァ、治して欲しいよな。と少しばかり良心を痛めながら、それでも、もっと厄介なことが起きることを知ってしまった青年にしてみれば追い返すしかなかった。

 だとしても、あまりにも静かすぎた。希望が打ち砕かれた衝撃で、言葉を失っているのかと、恐る恐る視線を依代に戻してみれば、依代は、笑っていた。ニッコリと、穏やかに。

「な、んで?」

 思わず訊ねれば、

「嘘だということが解っているからです」

 絶対的な確信の元に、穏やかな口調で断言されて、青年は思い切り言葉に詰まった。

「何故そのような嘘を口になさるのか。出来ればご説明いただけないでしょうか?」

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