第19話 チタム
この状況で、ムートバラム若王を取り戻し、ワシャクムート神聖王を倒すには。
皆が、ただ一人、小柄な少年をゆっくりと、ゆっくりと、振り向いた。
「チタムに賭ける!!」
一つの巨大な傘でこそなくなったが、数百数千に砕かれて三次元に振りまかれた翡翠の影響。その間隙を縫って敵兵を倒し、廃神聖王と若王とを無傷に済ますなど、あり得ない投擲。神でも無理だ。
それでも叫んで、チタムの背中を押す仲間たち。
「チタム!!」
「チタム!!」
遠い距離を隔てて、しかし神聖王もまた、チタムに呼びかけた。
「ウル」
と。
たったひとこと、呼びかけられたそれだけで、チタムは血潮が沸騰した。
未だ葛藤していたが、心が温かく、いや熱くなり、いま、仲間の全てを裏切って神聖王側につくのが心の平安なのだと直感する。
あの方に切望されている。
それ以外に誇りになることが、自己実現に、自分探しの解答になることが一体、あるだろうか?
その緩んで満ち足りた表情を見ただけで、アカバも他の将兵もカーンもジャガイモもニンジンも、皆、悟った。
戦場という極限の緊張状態は、錯誤をも生むが、恐るべき直感をも冴え渡らせる。
「お、お前……、神聖王の
愕然のあとに嵐のように渦巻いたのは、チタムへの非難。そして罵声。
チタムは、あれほど自分を信頼していた仲間がやはり手のひらを返した様を見て、本当に、神聖王の元へ行くのが平安だという衝動をもはやどうしようもできなくなった。
「はは……。ははは……」
さあ、バーツは? バーツもどうせ、オレを信じないのだろう、と皮肉に見つめた。
バーツの反応も、
「やはりな。だから、凄腕だったのでござるな」
低い低い、喉につかえた声だった。
チタムに向いていたのは、鋭いまなざし。
純粋に磨きあげられ、突きつけられる、彼の冷刃そっくりの澄み渡りきった瞳。
カクパスが、何かをバーツに言おうとしたが、ぐっと飲み込んだ。
チタムは、バーツにかけていた望みも断たれて絶望し、今は唯一自分を信頼してくれる存在となったワシャクムート神聖王のために、ムートバラム若王の軍、つまりバーツたちの軍を殲滅するべく、カーンに体当たり。激しい音をたてて砕けた瓶の残骸に手をたたきつけて、水の刃を頭上へ何百発も展開、撃ち放つ態勢に入った。
「終わりだ。終わらせたかったんだ、オレだって!!」
血を吐くような、裏腹な叫び。
そのときバーツは、綴り紐の擦り切れた竜舌蘭の小さな書物のページを、パラパラパラ……と全て空へと振りまいた。
舞い散るページにびっしり並んだ細かな絵文字は全て、チタムの善行だけを語っていた。
バーツの祖父を救ったときすら、報いを求めてのことではなかった。情けからだった。
兵に温かな嘘をついた。
コンゴウインコに餌もやってくれた。
弟ポポルを慈しむ目に嘘はなかった。
服を乾かしてくれた。
しかしそれらの美しい思い出を引き裂いた。
水刃で、すべてのページを千々に引き裂き、反故にしてしまう。
はらはら舞い降る欠片を通して、チタムが見るのは、怒りに染まったバーツの顔だった。
カクパスが言うことばが、意味不明ながらチタムの耳を刺した。
「ああ、やっと、一行に」
茫然とするチタム。
バーツは悔しげに、チタムをなじった。
「〈存知〉で人を見抜く目には、自信があったのに、すっかり失っちゃったでござる。チタムのせいで。……けど、長い時間をかけて人を判断する力が、ついちゃったみたいでござる。チタムのお陰でござる」
え、と、チタムが聞き返すよりも先のことばが、真っ白な頭にしみこんできた。
お主は信頼できる人物でござる。吾はそう判断した、と、バーツの瞳が告げていた。
「他の誰が信頼しなくとも、吾は吾の眼を信じるでござる。吾はお主を信じている。お主は仲間。ともにヤシュチラン王国の未来のために戦う、信頼するに値する男なのでござる。廃神聖王のためには、もう二度と、戦わない男でござる」
そのときチタムは、バーツに神聖王のような愛を感じて魅了されたのではない。
バーツを信頼し、故に自分を信頼した。自分を信じた。自信を持った。
チタムの感極まった絶叫とともに、頭上に展開された水の刃は高々と舞い上がり、全てピラミッドの頂上へ、その麓へ、鮮やかな軌道をそれぞれに描いて猛然と飛翔。航跡が大きな傘のように蒼空へ馳せ広がっていく。
何百何千人もが一様に顎を天へとつきだして見ていた。
直後にチタムは背中の投槍をスラリと引き抜き、かつ撃ち放つ。
眼にもとまらぬ高速の乱れ打ちと見えて、各所の翡翠を正確無比にも割り砕く。
七七七もの水の刃それぞれに個別の華麗な舞踏を躍らせて、慌てて放たれた防御刃などなきものに、ひと息に廃神聖王の軍勢を撃ち散らした。
戦場のすべては、人の子も木の葉も石も風も、鬼神の真の威力にまみえて息を飲み、沈黙した。
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