自由の刑#2
現在の地上は神秘汚染によって多くの人類の生存には適さない場所になっている。その為長距離の移動は地下鉄道のトンネルを使用する事となる。
羽海野有数の最初の事件以降に設立された厄対(災厄対策委員会)が、新警視庁に第二の災厄を想定した都市計画を提案した事で建造されたのが羽海野有数と犯人に対抗するための都市であり、その計画は〈幻想神経都市・
しゅこーしゅこー、と背後から響く呼吸音を聞きながら梁人はコンクリートの床に革靴を鳴らす。トンネル内は乾いた空気が循環している。精製された酸素が持つ独特の匂いは、少し煙草の臭いにも似ていた。
「…………」
無言で歩いている梁人の後ろで、スミレが何かを察して声を発した。
「言っておきますけど、このトンネル火気厳禁ですからね」
ヘルメットの内側でスミレがじぃと怪訝な視線を送っているのに気付いて、梁人はいつの間にか手に持っていた物を懐へと仕舞う。
「はぁ」
もし、私が同行していなかったらここで爆死していたに違いない。その想像が安易に現実になりかねない瞬間を見た、とスミレは大きなため息を吐いた。
「ほんと命がいくつあっても足りませんよ?」
スミレの苦言に梁人は反応を示さないまま、黙々と前へと進んでいった。
トンネルを歩いて一時間が経過した頃、不意に梁人が立ち止まりスミレもぴたりと足を止める。梁人が静かに前方の白く霞んだトンネルの奥に視線を固定する。その視線を辿ってスミレも目の前にある物を凝視し、息を呑んだ。
「あれは……なんでしょう?」
漠然とした疑問をスミレは梁人へと向ける。梁人は思考を挟むことなく返答した。
「見たままだ。“羽の生えた人間”にしか見えないな」
梁人からはなんの畏怖も戸惑いも感じさせない言動が放たれる。
「それは分かりますけど、あんな存在が実在してる事には何も思わないんですか? 羽にしたって天使とかの純白なヤツじゃなくて、昆虫のソレですよ!?」
スミレが梁人の背後で喚くが、当の梁人は聞いた様子もなく遠くで佇む虫人間を注視している。
「やる。お前は下がってろ」
「やる、って……!?」
焦るスミレを無視して、梁人は右の掌を腰のあたりで開く。すると、掌の内に黒色の棒状物体が形成され始め次第にそれは長く伸展し、全長2メートルの長い棒になるとその変化を止める。
見ていたスミレが驚きの色を顕著にして、名称を口にする。
「これが──幻想兵装?」
単なる黒い鉄棍にしか見えないが、ソレから放たれる威圧感の様なものが、スミレの内に畏怖の感情を起こさせた。
サイコフィジターであるスミレにとって、梁人の戦いの舞台であったL.O.W内部については知らない事が多い。
「何というか……不気味な感じがします」
梁人の持つ幻想兵装をスミレは忌避する様に歪めた表情で視線を送っていた。
「死神の鎌、その柄の部分だからな。多少なりとも不吉を纏っているのは間違いない」
些細な事だ、と梁人は淡々と告げてトンネルの先にいる羽人間に向かって歩き出す。
「ち、ちょっと最上さん!? まさか本当に戦うつもりなんですか?」
先刻、スミレが梁人に忠告した戦う術が無い事について、梁人は重々承知している。
「戦うなんて一言も言っていない」
「じゃあどうするんですか?」
梁人の後について歩きながらスミレが問う。正面に佇んでいた羽人間も二人に気付き、『ぎゅろ』と首を回転させて漆黒の瞳孔を向ける。距離が近づくにつれ、羽人間の詳細な外見が鮮明になっていき、スミレに生理的嫌悪感を抱かせる。
羽人間は昆虫の頭部に人間の体、背中には茶黒い薄羽をはためかせ、キチキチと擦れる様な音を喉から発していた。歪に発達した四肢の筋肉には青い血管の筋が浮かび、今にも爆発しそうな程に脈動している。
──これは人間じゃない。
スミレがようやくその考えに至ると同時、羽人間は敵意を剥き出しに、跳躍した。
「ききききかかきかききかき」
空中で奇怪な音を発する羽人間の声を聞いて、スミレの脳内に恐怖の感情がぶわっと広がる。それは理解できない存在や、見ただけで正気を失ってしまう、と言った現象に近い恐怖と対峙した時に起こる感覚にスミレの脳は揺さぶられる。脳から神経へ、頭だけではなく全身が記憶してしまう、そんな恐怖だ。
「あ、うぁ……」
鮮烈な恐怖を叩き込まれ、震えるスミレの前方で梁人は平然と羽人間の前に黒い鉄棍を構えて待ち受けていた。
「正気を削られたか──」
梁人の意識がスミレへと向く。その刹那を突いて羽人間は急降下し、鋭利なノコギリに似た腕部を梁人の首へと振り下ろす。
「──ちっ!」
一瞬反応が遅れたが、咄嗟に羽人間の腕をぎりぎりの所で黒鉄棍で受け止める。僅かに首元に届きかけたノコギリ腕の刃で梁人の首筋を少量の血が流れていった。更に羽人間は首を抉ろうと腕を押し込もうとする。しかし、それは梁人が羽人間の腹を蹴り出した事で防がれた。
「きかかきき」
昆虫の中でもカナブンに似た頭部を持つ羽人間が顎を鳴らす。まるで笑っているかの振る舞いに、梁人が苛立ちを覚える。
「不快だな」
棍の柄を握り直して、梁人が前へと踏み出しながら、背中を弓の様にしならせる。梁人の背の向こう側に隠れる程に棍が振り上げられ、羽人間は好機とばかりに梁人へと接近した。
両者が腕一本分の距離まで接敵する。この距離では羽人間の方が最小の動作で梁人への攻撃が可能だった。だが、それは梁人がこの時点で攻撃に転ずるのであればの話。
直後、羽人間が動作するよりも速く、羽人間の頭上に黒い筋が奔り、その昆虫の甲殻に覆われた頭蓋を砕いた。
「か……きき……」
己が身に起きた事を理解する間もなく、羽人間は青紫の体液を撒き散らしながらふらふらと後ずさる。そこへ、梁人が黒鉄棍で胸部を打ち抜いた。
「──死はお前を忘れないだろう」
警句を呟いて、梁人は倒れた羽人間の骸を見下ろした。
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