forget me not
はっと目が覚める。
ここはどこだろうと思いながら、私は目の前に広がる青空を見る。薄い雲が、ゆっくりと流れている。
ああ、そうだ。思い出した。
そして自分が寝ていたことに気づき、おかしくなって私は笑う。屋上で寝れる人って本当にいるんだなと思いながら、私はヘリに丁寧に揃えられた靴を履き、街を見渡した。
繁華街からは白い煙が上がっていて賑やかで、住宅街の間の公園には子どもが遊んでいるのが見える。家々の間には桃色の花があって、私はいまの季節を知る。
ふいに風が吹いて、私の髪を揺らした。
その中に甘い香りを感じて、なんだかもう今日はそういう気分じゃなくなっていた。出直そうと思った。
階段を下り、地上に向かう間、私は何かを思い出した。
そうだ。
私は、夢を見ていた。
霞んでいく夢の記憶を逃がさないように掴んでいると、階段から転けそうになって、一瞬恐怖がやってきた。そこをなんとか耐えて、私は地上に降りる。
すれ違う人と目が合うのを避けるために、俯いたまま私は歩く。
なんだったけな。
私は夢のなかの記憶を掴めそうで掴めないもどかしさに駆られながら、途中人にぶつかりそうになって怒られながらも考える
どうしても思い出したい。忘れてはいけないような気がする。
考えたまま歩いていると、白い風景を思い出した。どこを見ても白い箱に、夢のなかの私はいた。でも、そこまでしか思い出せなかった。
途中、コロッケ屋を通り過ぎたところで引き返し、私はいつもは買わないコロッケを買った。
いつもは誰とも話したくなくて、食べたくても買わなかった。私は店の人からコロッケとお釣りの五円をもらって、また歩いた。手に渡されたそれが、生き物みたいに温かかった。
食べずに持ったまま、私は歩く。
途中、色々な人とすれ違う。俯いているから顔は分からないけど、靴やズボンだけを見ても、まったく同じ人はいない。過ぎ去って、私との接点は完全になくなる。
近道をするために路地裏に入る。すると、しばらくして、地面の隅っこに青い花を見つける。私はその花を名前を知らないけれど、なんだか嬉しくなった。自分だけがここに咲いていることを知ってるみたいで、にやっとしてしまう。
コロッケを家で食べるのもあれだし、どこかの公園に行こうと私は思う。
どうせなら桜の咲いている所がいい。
歩きながら、桜を探す。そのために顔を上げて、辺りを見渡す。人が周りにいることも気にせず、私はここでもないと街を歩きまわる。
久々にたくさん歩いたせいか、足が震えている。それでも、桜を見つけることができたので、自分を誉めたい。
公園というよりはただ桜とベンチがあるだけの所だったけれど、それでよかった。桜の下に座って、温かいコロッケを袋から出す。
正面には今まで歩いてきた一本道があって、その奥には山が見える。青空と山、そして桜吹雪。まるで子どもが塗った塗り絵みたいに、原色的なグラデーション。でも、それが妙にきれいで見入ってしまった。
少し冷めた、でも少し温かいコロッケを齧り、当分の間は延期だなと思った。まだ世界には体験したことのない美しい景色とおいしい食べものがたくさんある。生きる理由なんてそれだけでいいのかもしれないと私は思う。
辛いことも、寂しいことも、苦しいことも、自分嫌悪も、恐ろしい他人も、臆病な心も、想像するだけで怖い未来も、きっといつまでもなくならないんだと思う。
でも、それでも、この世界にはこれだけ美しい桜と、これだけおいしいコロッケがあることを私は知っている。だから、もう少しだけ──
私は立ち上がり、歩き出す。
屋上で見た夢のなかのことは、もう随分曖昧になっている。
それでも、確かに幸福そうにしていた夢のなかの私を、私は覚えている。
そのことを、私はきっと、忘れない。
ふいに後ろ髪を引かれて、遠ざかる桜を振り返る。
そこには花を散らしながら咲く、美しい桜がある。
がんばろうと私は思う。
やりたいことを、やってやろう。
死ぬまでに、やってやろう。
私は泣きながら笑って、一本道に向き直る。
──震える足を踏み出して、私は歩き出す。
闘病日記(仮) 綿貫 ソウ @shibakin
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