赤いタヌキ

旧星 零

きつね色に染まる

 あっ、大丈夫ですか。ヤケドをしていませんか。ふう、良かったです。

 そういえば……はじめまして。なんて、言うのは変ですよね。でもこの状態で会うのは初めてでしょう。

 だから、はじめまして。ふふ、とがった鼻が素敵ですね。

 さあ、その赤いきつねをちゃぶ台に置いてくださいな。ああ、昔ながらの匂いが、冷えた体にしみます。


 ところで、あなたには想い出ってあるのでしょうか。……いえ、悪い意味で聞いたのではないんです。ただ、このたそがれ時という時間は、人を郷愁に誘うのだと、よく言われていますから。


 このカップのなかには、私の思い出がつまっていると言えるのです。とはいっても、これは買い立ての赤いきつねですけれど。

 

 ただ私は、じつを言うと郷愁というものがよく分かりません。私のまわりにはいつだって、家族がいて、友がいて、仲間がいましたから。

 懐かしむより先に、会いたいと想えば会えた。進む先が違っていても、帰る道は同じだった。

 こうしてひとり暮らしをしてからも、故郷への想いがとくべつ強くなることはなかったのです。駆けつけられずとも、情報を得ることはできますから。赤いきつねを見て、いつも食べていたなあとは思っても、故郷に帰りたいとは思わなかった。

 あなたがウォールウォッチャーばかり観て、旅行したいとは思えないと感じることに似ていますね。


 近ごろ、祖母が写真を撮ることに熱心になりました。昔から若者の間で流行っていましたが、まさか祖母の趣味となるなんて、考えてもいませんでした。

 祖父の使い古したものを、きちんと残していたんですね。旧型の道具ですが、太陽が力強く輝いた、良い写真でした。


 祖母は空を撮るのが好きだと言いました。私は、祖母の撮る夕陽が大好きなのです。祖母の夕陽の写真は、私の宝物です。


 写真をひとめ見たとき、不思議でした。故郷を想う気持ちと、いまを生きるまぶしさで、胸がいっぱいになったのです。夕方、たそがれ時というものは。だいだい色が、瞳を閉じていくように、眠りが深くなっていくように、濃く厚く変わっていくのです。それは、故郷でもこの町でもそうなのです。

 首を上下にふってうなずくとき、擬音ではコクコクと表しますよね。あれは、漢字では濃く濃く……濃いという字を当てるそうです。どうしてだと思いますか。それは、まさにいま。夕陽に染まるこの瞬間が由来となっているのです。深海とは異なる、けれど重みのある色に、私たちは染まっていく。

 壁なんて見ていないで。窓を見てくださいな。ウォールウォッチャーでは味わえないものを、空は教えてくれるんですよ。

 いえ、この街全体が教えてくれるんです。きっとこの一室だって、あの場所からは夕陽に染まって輝いているのでしょう。

 ウォールウォッチャーでは、砂漠をのぞくことも、水中をのぞくこともできるでしょう。

 だけど、あなたと私がこうして小さくて広い世界を見る一瞬は、あなたと私がいなくてはだめなんです。


 ああ、ちょうどコマーシャルがはじまりましたね。赤いきつねと緑のたぬき、あなたはどちらがお好みでしょうか。


 この二つの商品は、ほんとうに古くからありますね。時の流れははやい、と実感できるほど長い年月を過ごしてはいませんが、母や父は口癖のようにそれを語ります。

 我が家では、いつも赤いきつねを選んでいました。理由は……たしか、赤は縁起が良いと言われてきたからです。

 いつも赤いきつねばかりにお湯を注いできたので、私は今日こそ緑のたぬきを食べたかったのです。

 

 そうそう、私が幼かった頃は、こんな仕掛けがあるなんて知らなかったんですよ。まさか、きつねやたぬきに変身できるだなんて。

 とはいっても、気分だけです。うどんを食べるまでの数分だけ味わえる、とくべつな時間です。


 さあ、ウォールウォッチャーを止めてくださいな。でないと、おいしさが半減してしまいますよ。きっと。もう、三分経ちましたからね。ちょっと過ぎてしまったような。

 そろそろ、良いでしょう。のびてしまっていたら、西洋風にしていただきましょう。ペペロンチーノ風味か、カルボナーラか。ミートソースも良いですね。

 中華風に、卵をとじても良いかもしれません。


 めくれば、ほら。湯気が逃げ出す代わりに、つゆに浸かったきつねがこちらをうかがっています。


 あぶらあげ。昔より、味が薄くなった気がします。どうしてでしょう。


 ほら、たぬきをくださいな。私は緑が良いといったけれど、きつねは、やっぱりとくべつなのです。あなたが居て良かった。半分こするのは初めてですね。たぬきのあなたと、きつねの私、はじめましてですね。


 濃い、といったとき。あなたの耳たぶが火照ったのは夕陽のせいでしょうか。たぬきの耳の方ではなくて、福耳の、あなたのチャーミングな耳がですよ。

 濃い。こい。故意。そう、わざとです。私はたぬきが好きです。だけどきつねも好きです。

 だから、赤いたぬきがあったって、不思議じゃあないと思ったんです。

 ねえ、写真を撮りませんか。夕陽が終わってしまう前に。ほら、こっちを向いてください。

 撮りますよ……と言えば、すぐに撮れてしまう。味気ないと感じつつも、うどんがのびる前に、その姿がとけてしまう前に、あなたとの想い出を写せたから、ほっとしています。

 

 赤いのは、たぬきだけじゃないんですよ。きつねだって赤いんです。湯気にあたったからでしょうか。それとも、夕陽のせいでしょうか。

 

 泡のような天かすが、つゆのうま味をたくわえ、光っています。私は、たぬきも好きですよ。

 


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