恋はいつだってmeans business.

 ところで。


 わたしがサント=ヴィクトワールに行きたかった本当の理由、何だと思う?


 ひどくつまらない、しようのない、くだらないことなんだ。


 もしかしたら……あそこに行ったら、セザンヌの好きだった父さんのことだから、ひょっこりその辺で菓子屋でも開いてるんじゃないかって。そんな気がしてたからさ。それだけなんだ。


 もちろん、現実的には、パスポートを家に置き去りにしたまま失踪した父が海外にいる可能性は非常に低いし、そんなことあるわけないとは分かってはいるんだけど。でも、なんていうかさ、人間って、夢を見ちゃう生き物じゃない?


 ところで今日は退院祝いということで、にーちゃんがアップルパイを焼いてお祝いしてくれた。ヨークシャー・アップルパイ。父のスペシャリテだった、わがEARTHBOUNDの看板と言うべきメニュー。ちなみに父と母の出会いのきっかけも、このヨークシャー・アップルパイだったんだそうだ。故郷ヨークシャーのどこかのカフェで働いていた母に、旅行者としてそこを訪れた父が「これはとても美味しい。これは何という種類のアップルパイなのですか」と尋ねたというのが、二人の馴れ初め。それがなければ私がこの世に生まれてくることもなかった。


 ちなみに、EARTHBOUNDの本店でレジの脇に置いてある名刺サイズのカードには、こう書いてある。『An apple pie without cheese is like a kiss without squeeze.』ヨークシャー地方の古いことわざ。その出会いのとき、母が、父に教えた。


「チーズなしのアップルパイなんて、抱きしめずにするキスのようなもの、か」

「せやな」

「にーちゃんはそれがどういうものか知ってるの?」

「……実は知らん」

「だよねー」


 にーちゃんは彼女いない歴が年齢と同じである。もう長いことほとんど家族であるので、その事実は把握している。


「あたしも、キスなしでするハグの味しか知らないな」


 その相手と言うのは父と母だが。にーちゃんも私の三人目の肉親で、家族同然だが、女であるわたしにべたべたとスキンシップしてくるようなタイプでは全然ないので。だがもちろん、ファーストキスも、その他の初めても、わたしは全部にーちゃんに捧げるために大事に守っている。まあ、どっちにしたってわたしは所詮まだ中学生なんだけれども。


「ねー。あたしの16歳の誕生日のプレゼントなんだけど、あたしはにーちゃんにファーストキスを奪ってもらいたいな」

「それ、逆やないか? 誕生日なのにおれがもらうんは変やろ」

「せやね」


 誕生日のプレゼントにキスを捧げてほしい、と言うのは簡単だが、そう言ってしまうとこうツッコミをしてもらうことができなくなるので、あえてこう言うのである。いつも。こういう微妙な距離感のもとに、わたしと聖さんの関係は維持されている。


 にーちゃん。


 気付いているか気付いていないか知らないけど。


 I always mean business.


 わたしはいつだって真剣なんだよ。


 ずっと、ずっとあなたに。

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サント=ヴィクトワール山は遥か遠く きょうじゅ @Fake_Proffesor

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