この何でもない素敵な夜に

橘 永佳

第1話

 最後にQRコードを張り付けて――


「よしっ」


 高木和哉は一人小さく呟いた。

 来週頭、月曜の朝一に唐突にねじ込まれたプレゼンの資料作成が終わり、大きく一度背を伸ばす。

 その拍子に目に入った壁掛け時計は夜7時半過ぎ。

 部屋には自身以外の気配を感じられない。さすがに今日は早くに帰る人が多かったようだ。

 年も暮れに暮れて年末間近、窓の外はとっくに夜の帳が下りている。

 そして、予定外の作業で、まだ手付かずの仕事が積み上がっている。

 

 ……まだ8時にもなってない。


 無造作に積まれた書類の束に目を通そうとしたところで、後ろから声が飛んできた。


「高木、まだ残ってんのか?」


 和哉が頭だけ向けると、課の先輩の冬月亮が立っている、らしかった。真後ろ過ぎて、視界の端にしかとらえられなかったのだ。


「あー、ちょっとまだ終わりそうにないんスよ、先輩」


 振り返るのも途中で止めて戻りながら応え、和哉は書類をめくり始めた。後ろからため息が聞こえてくる。


「根詰めすぎじゃないか?」


「とにかくやらないと、いつまでも終わんないっスからね」


「まだまだ終わりそうにない、か。じゃあどっちか食え」


「はぁ?」


 脈絡の無い言葉に面食らって振り返ると、冬月は両手にカップ麺を持って見下ろしていた。


「赤いきつねか、緑のたぬきか。どっちだ?」


 再度「はぁ?」と聞き返すと、即座に「熱いし早く取れって」と冬月に急かされて、とっさに「じ、じゃあたぬきで」と和哉は口走った。

 ほれ、と渡しながら笑う冬月。


「おごりだ。ありがたく食えよ?」


「いや、おごりって。カップ麺じゃないっスか」


 和哉もつられて笑い、軽く言い返す。


「おいおい、早い安い旨いの三拍子がこんなにハイレベルにまとまる飯が他にあるか? 夜食と言えばこれだろ」


「そこに異論はないっスけどねぇ。それに、夜食って時間じゃないでしょ」


 苦笑しながら和哉は緑のフタを剥がす。


 立ち上る湯気が温もりと出汁の香りを一斉に持ち上げてくる。室内はそれなりに暖房も効いているとはいえ、冬に温かいそばはやっぱり似合う。

 急に胃の中が空になったような気がした。そういえば昼もかなり適当だったから、元より何も入ってない状態だったのかもしれない。


 明確に、急速に、和哉は空腹を自覚した。


 割りばしを咥えながら割って、ざっとそばを挟んで口の中へ一気に運ぶ。出来立ての熱気が口の中で弾けて、はふはふと慌てて冷ましつつも、懲りずに二口、三口と、続けざまにそばを啜ってしまう。

 出汁の風味に軽く被さる油っ気のコクがたまらない。食欲を刺激する絶妙のハーモニーだ。

 一心不乱にそばを口へと運び、汁を啜って、胃が落ち着く頃合いに丁度食べ終わった。

 名残惜しそうに漂うそばの香りと、じんわりと身体に広がる温もりに、何気なく気分もゆったりとする。


「ん、ちょっとは落ち着いたな」


 様子を見ていた冬月が、和哉に声をかけた。

 言われてから、自身の肩の力が抜けていることに気付く。


「あー……。はい、あざっす」


 気を遣われたのを理解して、和哉は素直に頭を下げた。傍から見て、かなりピリピリしていたのだろう。


「じゃあ、改めて聞くぞ? 残ってる仕事は何だ?」


 問われて手持ちの仕事を振り返ろうとした和哉に、「今日中に片付けなきゃならんやつな」と、冬月がぴしゃりと追い打ちを放った。


「今日中、っスか……○○物産さんの季刊誌の原稿チェックして制作へ――」


「どうせ原稿は半分もそろってないんだろ? いつも通り仮ページ挿して回しとけ」


「えと、後は、△△食品さんに頼まれてるオンラインアンケートの叩き台――」


「叩き台だろうが。去年のやつを使え」


「あ、えっと、ならウチの忘年会――」


「だーかーらー、今日中の仕事っつってんだろうが」


 ことごとく切り替えされて、和哉は目を白黒させた。

 冬月が何を言いたいのかが分からない。しかし、手持ちの仕事を改めて思い返してみると、確かに今日中でなくても大体は何とかなる。

 何なら、作業を大幅に省略できそうなものまであった。


 これでは仕事にのめり込もうとしているようにしか見えない。

 だが、これは違う。


「……□□商事さんとこの研究所経由の、役所からの孫請けの市場調査アンケートの集計っスね」


 冬月が眉をしかめながら天を仰ぐ。


「アレか……ブレにブレた挙げ句にオンラインフォームとメール添付と郵送で設問項目が一致してなかった、アレか……」


「おまけにメール添付と郵送は選択肢じゃなく自由記入になってたという、アレっスよ」


 悪意を持って集計の邪魔をしようとしたとしか思えないレベルの、すれ違いやら単純ミスやらが奇跡的に重なり続けた案件。

 しかし、出来ませんでしたでは済まない。□□商事の顔を潰すわけにもいかないし、そもそも□□商事はお得意様だ。

 期限は実は本日17時。つまり、もう過ぎている。


「先方が確認するのは明日の朝一でしょうから、それまでにメールででも送れれば……」


「そりゃそうだけどな。高木、どっちにしても間に合わなくないか?」


「う……」


 言葉がない和哉。その様子を見て、冬月が腕を組んで天を仰ぐ。


「……□□商事なら、営業の平石さんに一つ貸しがあるな」


 そう言いながら、冬月はスマホ片手に席を外す。そこそこかかるかと思いきや、思いの外早くに戻ってきた。


「おし、締め切り来週月曜の17時までにしてもらったぞ」


「マジっスか!?」


 あっさりと言われて唖然とする和哉。

 冬月が不敵に笑った。


「デキる先輩に感謝したまえ」


「あざっす!!」


 和哉がスパッと最敬礼、正直本当に助かったのだ。

 しかし、それでも作業量的に間に合うかどうか。月曜の午前中にプレゼンがねじ込まれたので、月曜で作業できるのは午後からだ。

 

 ……やっぱり、やっとかないとダメじゃ――


 和哉が頭の中を察してか、冬月が続けて口を開く。


「とりあえず月曜の朝、プレゼンに入る前に志乃森をつかまえて集計シートを組ませよう。そうすりゃ午後からでもギリ間に合うだろ」


「出来るんスか!?」


 和哉が驚いた理由は3つある。


 第1に、設問項目も一致してないわ自由記入になっちゃってるわ、グダグダ感全開のこのアンケート結果を集計できる集計シートが、果たして組めるというのか?


 第2に、冬月の同期の志乃森美香も大きいプロジェクトを抱えていたはずで、朝一に言われて請ける余裕が彼女にあるのか?


 第3、これが最難だと和哉は思うのだが、社内でデキる女性の代名詞、かつ“塩盛り”と揶揄されるほどに辛口で名を馳せている彼女が手伝ってくれるだろうか?


「あいつなら出来るだろうさ、何でも出来るウチのエース様だしな。あいつにも交渉材料はある。で、だな」


 腰に手を当てて、冬月が少し前のめりになった。


「今日中で残ってる仕事は、後は?」


「……ないっス」


 心の中で両手を挙げつつ答える。

 同時に、心の中で和哉は首を傾げていた。


 どうしてここまで?


「なら高木、お前は暇になったな。よな? よし、そんなお前にプレゼントだ」


 有無を言わせず、冬月はチケットを2枚取り出した。


「まず、こっちが駅前のデパートに入ってる花屋のギフト券だ。んで、こっちがこの間オープンした水族館の株主優待チケット、2名様までOKな」


「はぁ?」


「閉店前にデパートに滑り込んで花束でも買って、桜庭ちゃんとこ行ってこい。水族館には明日にでも行っとけ」


「えっ……と、何――」


「そーゆーのいいから。モロばれだからな? お前等が職場でやってるの、アイコンタクトじゃなくて見つめ合いだからな?」


 和哉の顔がギシギシと音を立てるように斜め下へと回っていく。


 ……恥っずうぅあああっ!


 心中では悲鳴を上げつつ、表面では押し殺して声を絞り出す。


「……先輩、ご存じで?」


「夏の終わりからだろ? 秋頃は大層仲がよろしかったが、ここ1ヶ月程はケンカ中だな。2人とも相手がいないときは世界が終わったみたいな空気出しといて、そろったら意地張り合いやがって。面倒くさいったらねぇわ」


 ふあああぁあぁあぁあ!


 プルプル震える和哉。


 ふと、冬月の言葉に気づいた。

 和哉が顔を上げる。


「2人とも?」


「おう。お前も、桜庭ちゃんも、な」


「……俺――」


「デパート閉まるぞ、早く行けって」


「あざっす!!」


 飛び出していく和哉を見送る冬月。

 一人残った彼に、声がかかる。


「私、何でも出来るわけじゃないんだけれど?」


 和哉が飛び出していった後に姿を現した志乃森は不服そうだ。

 一瞬だけ目を丸くして、それから、冬月はニヤリと笑った。


「そうか?」


「私に教えた貴方に分からないわけないでしょうに……で、□□商事の平石さん、本当は何て?」


「いつから立ち聞きしてたんだか……。途中までで良いから送っとけとさ。『来週に完全版が届いたら、少し集計漏れがあったので差し替えますって誤魔化す』そうだ」


「なら、とりあえず多少はやらないとダメってことね」


 そう言いながら志乃森は歩み寄って手を差し出す。

 冬月が未処理データの一部をUSBメモリにコピーして渡す。

 冬月も、志乃森も、くすくすと笑った。


「クリスマスだからって、後輩に格好付けちゃって」


「うっせ、あの2人は俺たちみたいにならなくてもいいだろうが」


「私、貴方のことが嫌いになったわけじゃなかったのよ?」


「俺もな」


「若かったわね」


「全くだ」


 作業に取りかかろうとする2人。

 思い出したかのように志乃森が振り返った。


「で、私との交渉材料って何? 借りは無いと思うけれど?」


「あー、そうだなぁ……」


 何も考えていなかったらしく、冬月は天井を見ながら少し考え込む。

 そして、振り返って笑った。



「赤いきつねか、緑のたぬきか。どっちだ?」



(了)

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この何でもない素敵な夜に 橘 永佳 @yohjp88

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