第14話
仕事の方はというと、件の面談が一通り終わり、いじめ対策委員会は一段落。やはり本田母以外にも、処分をなくすことはできないかと願い出る者もいたが、私が参加したときほどの騒動になることはなかったらしい。
しかし一息ついてはいられない。二学期の期末テストが始まり、教職員室は生徒立ち入り禁止となり、教師側もその準備に追われ、ピリピリとしたムードを出してくる。
「毎回毎回、この時期は大変そうですよねえ」
牧野先生は、どこかのんきな様子でつぶやいた。音楽科の先生はテスト問題を作ったり、採点をしたりすることは少ないため、その辺りは気楽だという。
「そうねえ。声をかけるにしても、なんか皆さん話しかけづらい雰囲気で。……私もこの時期はちょっと苦手」
「本当に。あの三島先生まで、なんだか最近ガッチガチで」
牧野先生が、そう言って斜め前の席を顎でしゃくる。三島先生はそこには居ない。今は、どこかのクラスで試験監督をしているようだ。
三島先生は、確かに最近少し様子がおかしい気がする。なんというか、何を話していても上の空だし、普段は優秀な新人教師として皆に期待されているのに、最近ではしょうもない書類のミスを連発しているようで、この間は国語科の先輩教師にめちゃくちゃ怒鳴られていた。そんなに怒らなくても、と気の毒に思い、ランチを一緒に食べるかと声をかけたものの、断られてしまった。そもそも以前と比べて、ほんの少しだけ距離を感じるのだ。
「まあ、三島先生が変なのは今に限ったことじゃないですけどね」
「というのは?」
「中三のいじめ問題が始まった辺りから、既にちょっと様子がおかしいなって、竹下先生も言ってました。私、気になって話を聞いてみたんです。……彼、お姉さんが居るみたいなんですけど、そのお姉さんが中学生時代にエグいいじめを受けたらしくて。そのときの精神的なショックで、いまだに社会に出られないでいるみたいです」
そんなこと、知らなかった。彼の異変につい最近まで気づけないでいたのも不思議だった。私は、そういうことにとても敏感なタイプなのに。――それだけ、委員会の仕事に追われてしまっていたということなのかもしれない。
「だからね、三島先生、原田先生のことめちゃくちゃ尊敬してたんですよ。あんなに主体的になって動いて、ちゃんと解決してすごいって。彼のお姉さんの学校にも、そんな人がいてくれたら良かったのにって、そう言ってたんです」
「そう思ってくれたなら嬉しいけれど」
じゃあ、最近感じるこの距離は何? 温かい言葉をかけられたのを、素直に受け取らなかったのが悪かったのだろうか、それとも。
そして来る十二月二十四日。全てのテストが終了し、私たちは採点に追われていた。――あと一時間で学校を出なければ、智輝との約束に間に合わない。大半の採点は終えたものの、まだ多少残っており、普段の採点スピードで採点すれば、三十分ほど遅刻してしまいそうだ。
「原田先生、あがっていいわよ。あとは私たちがやるから」
「えっと、でももう少しで自分の担当分は終わりますよ」
「焦って採点ミスするくらいなら、こっちでやるわ。それにほら、委員会の仕事でかなり残業させられてたでしょう。こんなときくらい、早く帰ったらいいの」
「そうそう。あとは二十四日も残念ながら暇な俺らがやっとくよー」
竹下先生はともかく、どうして年配の数学科教員まで私がこのあと用事を抱えていることを知っているんだ、と思いながら、私はありがたく彼らの好意に甘えることとした。
「すみません。……それでは、もう少ししたらお先に失礼します」
こうして私は無事、智輝との約束の時間に遅れることなくレストランに到着したのだった。
智輝が予約したのは、夜景と水槽の美しい、高級フレンチの店だった。SNSで紹介されていて、私自身もなんとなく気になっていた場所であった。なんとなく、周囲を見渡す。わが校の生徒が家族で来ていたりしないかとひやひやしたものの、そのような様子は無かった。
「今日は来てくれてありがとねぇ」
「今日は、って。大体毎週会ってるでしょうが」
突っ込みを入れると、智輝はうふふと笑った。
「でも、美雨に会えて嬉しいよ」
「そりゃどうも」
「今日のファッションも素敵だよ。金ボタンのジャケット、可愛い」
「本当? 良かった、ちょっと地味すぎないかなって心配してた」
会話レベルが地に落ちているのは、単純に智輝が緊張しているからだと思う。
今回予約してもらったフレンチは、例年のクリスマスディナーと比べても格段にレベルが上。その事に加えて、普段の智輝の態度から予想はつく。今日、彼は私にプロポーズをするつもりでいる。サラダを食べようとして、ポロリと一枚、レタスが皿からはみ出る。智輝は恥ずかしそうな顔をして私のことを見、皿から飛び出したレタスをフォークですくって口の中に入れた。
「今日はお仕事どうだった?」
「今日はひたすら採点と、成績処理って感じ」
「……そっか。たしかに、この時期先生ってのは通知表に追われてるんだった。申し訳ないね、忙しいときに」
「いえいえ。年の瀬が忙しいのは、皆同じだから」
私は他の業種の事情を全く知らないわけだが、師走というのはそういうものだと思っている。そもそも司法修習生なんて、師走だろうとそうでなかろうと関係なく忙しない人種なのではないか。
「でも先週の方が忙しかったのかな?」
「そうね、他の学年のことでちょっといろいろあって」
あたかも仕事だけが原因のように言うのが、少々後ろめたく感じられた。智輝に隠し事をするのは今回が初めてだった。良くも悪くも、隠すべきことのない人生を送ってきたから。仲の良い男友達は居ない、飲み会でオールすることもない。
「……弁護士事務所に見学に行ったときに、そこに勤めるパートナー弁護士に話を聴いたんだけどさ」
普段、智輝の就活や勉強の話を聴かされることは少ない。非常に専門的な話題が多く、一般の人にはあまりウケが良くないことを分かっているのだろう。
「仕事ができる人になるためには、結局健康に働き続けられるかどうか、ってことが一番大事らしいよ。……普段、小難しいことしか言わない弁護士がそんな単純なことを言うんだから、びっくりした」
智輝は私の性格をよく分かっている。単純に「無理をするな」と言われるのは、自分の限界を見定められているような気がして、嫌な気持ちになるのだ。そういう私の可愛げのなさを分かっていて、わざとこういう言い方をしたのだと思う。
「たしかに、それは大事よね」
「うん。……まあ、その人は毎月残業百時間越えみたいな感じだと思うんだけどね」
彼はそう言って笑った。
余計な心配をかけていると思う。色鮮やかなサーモンのテリーヌを味わいながら、わずかばかり罪悪感を抱く。春子との同居が彼にばれたところで、特に不都合はないはずだ。しかし何らかの縁で、彼と春子が再会することになったら、と思うと気が進まなかったのだ。美しく、コミュニケーション能力もある彼女と平凡な私が並んだときに、私の方を好きで居続けられる人間は、そう居ない。智輝は義理堅い人間だから、私を裏切るようなことはしないというのは容易に想像がつく。――しかし、目の前で分かりやすく、最愛の人間が妥協の末私との結婚を選ぶことを想像すると、なんだかやりきれない気持ちになるのだ。
「……そろそろ、本題に入ってもいいかな」
幾分唐突だった。智輝が再び話し始めようとしたときに、ウェイトレスさんが二人の食べ終わった皿を片付けにやってきた。出鼻をくじかれた彼は、少し気まずそうに肩を竦めていた。彼のこういう姿を可愛らしいと感じてしまうようになってしまったのは、付き合い初めてから一年も経たない頃だったか。頭は良いはずなのに、どんくさいところがある彼のことを、格好いいと言う女性は見たことがない。それでいい。彼の魅力を知っているのは、私だけでいい。
「えっと、結婚してくれませんか」
ウェイトレスさんが姿を消すや否や、智輝は早口で申し出るのだった。
「もちろん。……ぜひ」
こういうときには勿体ぶらず、分かりやすく、前のめりに答えると決めている。
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