第13話


 日曜日は春子とジムに行った以外、特になんの変哲もない日で、明日からのつまらない平日を乗り切るのに、こんな一日を過ごしてしまって良かったのだろうかと頭を抱える。しかし、こんな日にショッピングなどしたら無駄遣いをしてしまいそう。心の隙間を満たすために衝動買いをしたり、暴飲暴食をしたりするのは、大人として残念な行為だ。

 春子がお風呂に入っている間、なんとなく部屋を片付けていると、彼女のハンドバッグが開いていることに気づいた。あまり人様の持ち物を覗いてはいけないと思ったが、不意に白い薬の袋のようなものが目に入る。

 一回二錠、朝と夜。薬の名前が書かれたラベルだけでは、なんの病気に効くものか判断がつかなかったけれど、もしかすると心療内科に行ったのかもな、と考えた。少なくとも、彼女は生きようとしている、と思ったりする。

 明日からの平日を乗り越えれば、クリスマスイブが待っている。智輝はクリスマスディナーを予約していると言った。春子がいようがいまいが、その日だけは彼の誘いを断らない、と決めている。


 春子がお風呂から上がる音がして、私は慌ててその場を離れた。ついでに、テレビをつける。深夜の音楽番組では、イマドキのJPOPではなく、著名な管弦楽団によるクラシックコンサートの様子が放映されていた。


「美雨って、クラシックとかに興味あったっけ」


 春子に背後から声をかけられ、振り返る。大きく猫がプリントされたもこもこの部屋着を着ており、とても暖かそうだった。


「興味があるってほどではないけど、まあ、小学校の頃はピアノも習ってたし」

「ふうん」


 春子はこちらを見ることもなく、ドライヤーの電源を入れる。ごお、という音に紛れて、管弦楽の音は聞こえなくなった。


「春子は学生時代、よく音楽聴いてたよね」


 私の問いは、やはりドライヤーの音に紛れてしまい、春子の耳に届くことはない。ドライヤーを終えた後も、わざわざもう一度訊くべき事でもないやと思い、同じ質問は繰り返さなかった。


「ねえ、番組変えても良い? この時間帯にクラシックだなんて、なんだか辛気臭い」

「良いよ、別にそんなに一生懸命見てたわけじゃないし」


 春子は私からリモコンを受けとると、順繰りにチャンネルを変える。彼女のお気に召すものはなかったらしく、結局春子はテレビの電源を落とす。


「寝る直前までテレビを観るのって、眠りが浅くなるらしいよ。肌にも悪いって」

「そう言うよね」


 春子が消したいというなら、そうすればいい。人間の興味対象は、ライフステージとともに変化するものだ。


「ねえ、春子。二十四日の夜だけど、私、夜ご飯いらないからね」


 何気ない風を装ったけれど、内心ドキドキだった。


「いいよ。――デートだよね」

「まあ」


 春子の顔がぱっと輝いた。彼女は、他人の恋愛話を聴くのが好物なのだ。その辺りは、学生時代から変化無し、か。


「もしかしてだけど、智輝くん?」

「まあ、そう」

「やっぱり、続いてたんだ」


 春子は嬉しそうな顔をしていた。どうして分かったのだろう。私と智輝がそんなにも相性がよく見えるのか、それともお互いに他に相手ができなさそうに見えるのか。

 わざわざ悪いように捉えるのはよそうと思い直す。


* * *


 私たちが智輝と知り合ったのは、高校一年生の文化祭。当時、豊桜学園の男子部に通っていたのが、智輝とその親友であった。智輝の親友に関してはもう名前を忘れてしまったのだが、大変なイケメンで、豊桜女子部でもとんでもなく人気があったため、ここでは仮に「イケメンくん」としておこう。

 文化祭の日、春子と私は一緒に校内を回る予定だったのだが、吹奏楽部のコンサートを観に行こうと講堂に向かう途中で、歩くのが速い春子に置いていかれてしまった。演奏を聴きに行くモチベーションが削がれてしまった私は、なんだか文化祭を楽しむ気力もなくなり、春子を追うのをやめ、休憩室へと足を運んだ。そこに居たのが、男子部に通う二人組だったのだ。


「ねえ、君、豊桜女子の生徒でしょ」


 唐突に話しかけてきたその学生に、私は身構えた。その学生こそが、件の「イケメンくん」である。


「そう、ですけど」

「一人で暇そうにしてたから。もしよろしければ、一緒に回りませんか」

「すみません、友だちが待っているんで」


 春子は私のことなんて待っていやしない。しかし、男子生徒二人組をいぶかしんだ私は、嘘をついて逃げようとした。


「……ねえ、こっちがちゃんと名乗らないからめちゃくちゃ警戒されちゃってるよ」


 そのときにイケメンくんと一緒にいたのが、後に同じ大学に通い、恋人となる智輝である。


「ごめんなさい、突然話しかけてしまって。……僕ら、豊桜の男子部の生徒です」


 智輝はパスケースの中から学生証を取り出した。イケメンくんもそれに続く。写りの悪い写真とともに豊桜学園の校章が印刷されており、真面目そうな雰囲気を持つ彼の名前が岡田智輝ということを確認すると、私は少々安心した。


「私は、原田と言います」

「ごめんなさい、突然お声をかけてしまって。……僕たち男子部の方では来週文化祭があるので、その宣伝も兼ねてここに来ているんです」


 あとで智輝に訊いたところ、これはあくまで口実であって、一人でいた私に声をかけた目的はただのナンパでしかなかったという。イケメンくんは大変チャラい人間で、そんな彼に智輝はしょっちゅう振り回されていた。もっとも、智輝自身、そういう破天荒な人間に振り回されること自体は嫌ではなかったらしい。


「そうですか」

「ええ。人脈づくりというか、女子部の方にも知り合いを増やしたいなーって」


 中学三年間という多感な時期を女子校で過ごした私は、男子という生き物がどんなものか分からなくなっていた。こんなときに、中学を共学で過ごした春子が居れば、と心の底から思った。


「……へえ」

「うん。……そういうこと」


 そして、会話が止まる。私は男性に慣れていなかった。イケメンくんはイケメンが故に、それまで初対面でもちやほやしてくれる女性にしか出会ったことがなかった。だから、反応の薄い私に困惑していたのだ。そして、智輝は単純に生真面目すぎた。誰一人、ナンパでの出会いに向いている人間が居なかったのだ。


「えっと、じゃあ校内を案内しましょうか……?」


 居たたまれなくなって私が休憩席を立ち上がったそのとき、声をかけられた。


「もう! 美雨ったらこんなところに居た」


 怒ったような声。大股で、私たちの元に歩み寄る美少女。


「せっかく並んでたのに、美雨がいないって気づいて抜け出してきたんだから。……この人たちは? 知り合い?」


 強気な眼差しを向ける春子に、イケメンくんは嬉々として挨拶をした。


「こんにちは。俺たち、豊桜男子部の一年生です。ちょうど今、原田さんに校内を案内してもらえるっていう話になったところで」

「あら、そうなんですか? ごめんなさい、急に割り込んでしまって。……どうせなら、私もご一緒しますよ!」

「本当に? それは嬉しい」


 こうして本当に自然に、スルリと会話に入ってきた春子はとても魅力的に映った。各クラスの出し物やチアリーディング、縁日などを一緒に回るうちに、春子とイケメンくんはとても仲良くなったようで、ああ、やっぱりこういう女の子が「モテる」子なんだよな、とそのとき初めて認識した。




 結局その日、私たち四人はなんとなく連絡先を交換しあって、翌週の男子部の文化祭への招待を受けた。春子は格好いい男子の友人ができたことにワクワクした様子だった。私は、春子と一緒に休日を外で遊べる口実ができたことを、純粋に喜んでいた。なお、この件については、春子に買ってもらったチークの話とともに、我が家でちょっぴり悲しい誤解を生むこととなる。


* * *


「そういうわけで、悪いんだけどその日は夜遅くなる」

「全然。……あ、その代わりといってはなんだけど」


 春子の頼みは、私の予想の範囲内のものだった。


「この間お会いした三島先生のこと、紹介してほしいな。年明けでいいけど」


 予想していたこととはいえ、かなり難しい頼み事だった。


「なんか、いいな」


 私は思わず呟いていた。


「何が?」

「恋愛のこと、気軽に人に相談できるの」


 私は親や友人に恋愛相談をしない。もちろん、両親は私の彼氏の名前を知っているし、根掘り葉掘り智輝について訊いてくるものの、それとなくかわすようにしている。友人も、彼氏の存在を知っている子はそれなりにいるが、詳細について語ったことはほとんどない。


「えー? 美雨だって、どんどん話しちゃえばいいのに。私だってウェルカムだよ!」


 そして残念ながら、目の前の相手には智輝の話なんて一番したくない。春子から見れば、智輝はイケメンくんの付属物でしかなくて、智輝やイケメンくんから見れば、きっと私は春子の付属物でしかなかったに違いない。なんというか、わざわざ高校時代のコンプレックスみたいな何かを掘り返すような真似はしたくないのだ。

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