第5話
そういえばさ、と春子は話題を変える。
「豊桜学園って、土曜休みになったわけ? 昨日美雨は、出社してなかったけど」
「ああ、そんなことないよ。普通に土曜も午前だけやってる。ただ私の『自己研鑽日』が土曜ってだけ」
「出た、『自己研鑽日』」
懐かしい、と言いながら春子は目を細めた。確かに自己研鑽日、なんていう言い回しは豊桜学園特有のものであり、懐かしいと感じるのも分かる。
自己研鑽日とは、教師が与えられる週休日のこと。一般的に、月曜から土曜の中から丸一日、または半休を二回、取得することができる。学校自体は週六で稼働しているわけだが、教師たちは完全週休二日制の労働契約であるため、そのような日が設けられている。土曜日をゆっくりできるのは、そのためだ。
しかし、自己研鑽日という名前には、なんとも言えない気遣いが見られる。あくまで自己研鑽をしております、遊んでいるわけではありません、というような名付け。おそらく、生徒やその親に配慮したものなのだろう。とはいえ、特に自己研鑽を義務付けられているわけではないし、「教師はこの日、自己研鑽のためにこのような研修を受けていますよ」だなんて、親御さんに対して宣言しているわけでもない。やはり純粋な週休日であることが、私たちが学生時代の頃からの暗黙の了解になっていた。
「中高のときさ。先生は週休二日なのにうちらはなんで週六日学校に行かなきゃいけないのって、ずっと思ってた」
「分かる。先生だけずるいってね。でも、そもそも学生だったうちらだって、休んじゃえば良かったんだよ。勤労の義務と、教育を受ける権利じゃあ、その責任レベルが全然違うんだよね。あくまで学生時代の私たちは親のお金で権利を享受していただけで、『私たち自身が望んで学校に行っています』っていう体。今だから思うことだけれど、別に学校に行きたくなければ、行かない日が有ったっていい、単位さえちゃんととれるなら」
「それ、現役の教師が言うこと?」
「もちろん、表立っては言わないよ。真面目に頑張っている子が虚無感持っちゃうでしょ」
しかし、最近本当に心の底からそう思う。学生時代の私たちは真面目すぎた――私たち、というより、周りの大人が真面目すぎたのだ。学校にはちゃんと通いなさい。微熱ごときで学校を休むなんて、サボり癖がつくでしょう。だから、どんなに受験勉強で夜遅くまで起きてたって、無理に早起きをして学校には通っていたし、例え意味のない授業しかない日であったとしても、春子のように友人からハブにされる日が続いていたとしても、私たちは三十八度以上の熱が出るまで学校に通い続けていた。
勉強のやる気を持てない生徒に対し、「そんなに嫌なら、やめてもいいよ。私は止めないよ、だって勉強は権利でしかないんだから」と言う先生や親はよく見るけれど、その誰もが、そう言うことであえて生徒側のやる気を引き出そうとしている。子どもは、常に見捨てられ不安を抱えている。そのことを利用した脅し文句のひとつだ。本当にどうでも良さそうに、そのような台詞を吐く人間に、私はかつて出会ったことがない。
一方で、私はそのような脅し文句を、絶対に口に出さないようにしている。たぶん、私が言ってしまったらガチになってしまうから。学校に通うことも、塾に通うことも、本人の権利であって、周りがどうこう言うことではない。本人が休みたきゃ休めばいいし、辞めたきゃ辞めればいいと思っている。出資している親がうるさくなる気持ちは分からないでもないが、あくまで教師でしかない私は、本当の意味でその子の将来を左右する権利はないと思っている。こんな人間が教師をする資格があるのかどうかは謎であるが、やる気のある生徒の将来を狭めないようにしたいと思って、一生懸命仕事をしているから許してほしい。
「少なくとも学生時代は、盲目的に、ただ周りから言われることを飲み込んで辛いことをする必要はなかったんだろうな、と思う今日この頃」
たぶん、春子は私の言葉に納得はしない。
「……それでは、今日はここまで。来週は問題集の一〇五ページから一一三ページまでを解いてきてください」
月曜日の一発目の授業は、中学三年生のA組。今年から担任を受け持つようになったのは中学二年生であり、それまでの副担任生活でも受け持ったことのないクラスなので、正直そんなに馴染みのない生徒ばかりである。とはいえ、授業後に質問に来てくれる生徒はいないではない。
ただその日、授業後に私の元へとやってきた生徒はどこか様子が違ったのだ。
「原田先生」
長い髪をおさげにした、メガネの女子生徒。制服のレトロさもあいまって、昭和を舞台にした映画の登場人物のように見える。
「どうしたの」
「ちょっと相談したいことがあって」
「いいですよ。何ページ?」
「あ、ごめんなさい……質問じゃなくて、相談なんですけど、なんていうか、全然数学のことじゃなくて」
「ああ……こっちは大丈夫だけど、逆に私で大丈夫?」
「先生がいいです」
そのように言われたことに、単純に喜ぶことができるような性格では決してない。危機管理能力といった点では、何ら間違ってはいないと思う。
「そうか。報告ありがとう。このこと、担任の
江本先生、というのは中三A組の担任。かつて私自身も英語の授業を受けたことがあり、かなりのベテラン教師である。
「いえ、話してないです」
「話せない理由が?」
「いや、別に話しても良かったんですけど……なんていうか、放置されてしまいそうで」
形式上訊いてみただけであって、正直私も彼女の意見に同意してしまう。江本先生は、基本的にことなかれ主義。自分の担当クラスにいじめなんてあったところで、そんなもの勘違いだ、ただのからかいにすぎない、と言ってのけそうだ。
「じゃあ、一応このことは担任の先生に共有してもいいのね」
「はい、別にいいです。私の名前を出したっていいですよ、きっといやがらせをするほどの胆力もないでしょうから、あの人。役に立つこともしない代わりに、悪いこともしない、なんもしない、って感じなんで、うちの担任」
めちゃくちゃ言うやん、と心の中で苦笑しつつ、生徒って本当に教師のことをよく観察しているな、と思ってしまう。江本先生だけではない、私だって、竹下先生だって、牧野先生も三島先生も、全員がその観察対象だ。髪型やファッションテイストを変える度に、「新しい彼氏ができた」「別れた」と陰口を叩かれるのは、本当にセンスがないな、とは思うが。ちなみに智輝とは大学の終わりから付き合いはじめて、今まで一度たりとも別れたことはない。少なくとも私のファッションテイストと恋愛事情は、一切関係がない。
それはさておき。
「じゃあとりあえず、江本先生に報告はさせていただくね。そうだ、一応あなたが相談しに来たってことを、他の生徒には伏せるように伝えておきます」
「ああ、別にそれもどうでも良いですよ。どうせ私だって皆分かると思うんで。それに私、そんなことじゃあいじめられませんよ、このとおり口軽いし、めちゃくちゃ毒舌だし」
達観しすぎてない?
「江本先生に報告して、もしかしたら、色々と指示が出るかもしれないから、そのときは基本的にそっちに従って――」
「江本先生がなにもしなかったら、原田先生に動いてもらいたいです。私、なんとなく原田先生と『見て見ぬふり』っていう言葉は、そこそこ相性悪いと思っているんですよ」
この子は私の何を知っているのだろう。いや、知っているのではない、おそらく直感でしかない。いやいや、私と「見て見ぬふり」は相当相性がいいぞ、と学生時代の自分を振り返る。人を見る目のないその女子生徒に、同情すらしてしまう。
しかし、今の私にはそこそこの力がある。教師という立場、目の前にいる生徒より十年ほど長い人生経験とそこから培った知恵、ある種の開き直り力、そして、教職を目指すようになって学んだ、いじめ対策の知識に、「いじめを許さない」という社会の風潮。十年前の自分にも、勇気を出して私に相談してくれた目の前の生徒にも、決して負けてはいられないのだ。
≪From: harada-m.××.com
To: emoto-k.××.com
CC: saeki-n.××.com tamaru-t.××.com
BCC: takeshita-y.××.com makino-s.××.com mishima-t.××.com
江本先生
(CC: 佐伯教頭、田丸学年主任)
お世話になっております。
お忙しい中恐縮ですが、以下の内容のいじめ報告を生徒から承りましたので、ご確認の上、ご対応をお願いいたします。
・貴クラスの藤井千嘉さんが、文化祭直後辺りから一部生徒による嫌がらせを受けている(相談者は本人ではありません)
・これまで、ペンを隠される、弁当の中身を捨てられる、悪口を言われる、授業中の発言を意図的な咳払いで茶化される(これは報告を受けたわけではなく、私が授業中に気づいたことです)等の被害を受けている
・メインで悪口等の嫌がらせを行っているのは、中條さん、上矢さん、本田さんであるが、物損の件に関しては不明
・藤井さん本人はまだ誰にも相談していない
以上、乱文、長文となり恐縮です。もしも足りない情報等ありましたらご教示いただけますと幸いです。
よろしくお願いいたします。
数学科 原田≫
勢いだけで書いたメールであるが、教頭と学年主任、そして担任に真っ先に報告するのは決して誤りではないだろう。BCCになんの関係もない若手教師組を入れたのは、もはや半分愚痴か八つ当たり。まあ、情報共有は、なるべく多くの人間にしておくべきだろう。
しかし、自分でも気持ちが悪いと感じることがある。省エネといえば原田、原田といえば省エネ。私はそうやって生きてきた。そんな人間が、どうしてもこうも積極的に動いているのか。それはおそらく、自身の学生時代を悔いているから。春子は仲の良い友人であったはずなのに、彼女のことを誹謗する友人に何も言えなかった自分が恥ずかしくて、今さらそんな自分を上書きしようとしている。今困っている春子を助けることで。そして、目の前にある問題を見過ごさない態度を取ることで。
※ ※ ※
高校二年生の頃、私と春子は同じクラスとなった。四月になったばかりの頃は、まだ普通に私と春子は仲の良い友人関係を結んでいたし、周囲の生徒とも上手くやっているようだった。しかし、五月の運動会で、応援歌を真面目に歌わないクラスメイトをなじったことをきっかけに、春子は周囲から煙たがられ始めた。六月に、豊桜高校男子部の
当時の私は、いじめを行っているクラスメイトに対して注意などはしなかったし、春子と言い合いになっている様子を見かけても応戦などはしなかった。
「美雨はどうして私の味方をしないの? 私のことが正しいって思うんだったら、そう言ってくれればいいのに」
度々そうやって、春子に責められた。
「そもそも私、春子のことが正しいって一言でも言った? 今日の学級会の件は、正直向こうの言い分の方が納得できる。完璧にしようったって、期限は決まっているし、全員が参加できるわけでもないし――」
「自分で当たり屋みたいに他人にぶつかっていくくせに、その責任の一端を私に押し付けられても」
「仮に春子の言い分が正しかったとしても、皆が皆、正しいことを推すわけでもない。味方されて当然だなんて思わないで」――
今考えると、どうしてこんなキツい言い方をしても春子が私の元を離れなかったのか謎ではあるが、私は往々にして、春子の要求をにべもなく蹴った。それは単純に、春子と私の価値観が合わず、彼女の意見に完全には同意しきれなかったこともあるが、それ以上に、私が春子に複雑な感情を懐いていたからだと思う。リーダーシップがあり、華やかで、自分の意見をまっすぐに伝えることのできる、そういう彼女の姿にある種の嫉妬心を懐いていた。倍率の高いと言われる高校入試を通ってきたのもそう、そして些細なきっかけではあったが、前年度の文化祭の日に、春子に置いていかれたこと――そしてその後インターネットで、歩くスピードの早い人間は長生きで、IQも高い傾向にあるという記事を読んだことで、その思いが加速した気がしている。本当にしょうもないことではあるが、思春期真っ只中で、常に自分と他者を比較していたあの頃の自分にとっては、春子の辛さに寄り添わない十分な言い訳になった。
今でも思う。どうして、春子の味方をしなかったのだろう。嫌なことがある度に死にたいと口走る春子のことを、どうして「イタイ子」だと決めつけていたのだろう。もし、取り返しのつかないことになったら、どうするつもりだったのだろう。――
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