第4話

「一週間、どう過ごしてた?」

「まあ、そこそこよ」


 これはいつものやり取りであって、智輝はここに特別な答えを求めているわけではない。ただ単純に、「仕事で辛いことはなかったか」「病気になったりはしていないか」といったことを大まかに確認しているだけだという理解でいる。


「そっかぁ」

「智輝は?」

「もう、ひたすら講義とグループワークと文書作成の無限ループって感じ。楽しいものではないけど、まあ頑張ってます」


 そうは言いながらも、決して元気のなさそうな様子ではないし、むしろ新しい環境を楽しんでいそうな態度であった。智輝はかなり、頭が良い。おそらく、周りの修習生がひいこら言いながら合格を目指す最終試験も、かなり余裕をこいてクリアしてしまうのだろう。


「じゃあ、追加でお昼も頼んじゃおうか。私、このパスタにする、ボンゴレね」

「俺はペスカトーレにする」


 魚介類のメニューを頼んだのは、当面家では食べられそうになかったからだ。――春子はたしか魚介類の一部と甲殻類のアレルギーがあったはずだ。


「そういえば、忘れないうちに言っておかないと! クリスマスイブの日、七時からこの店でディナーの予約をとったよ」


 智輝がそう言いながら、スマホの画面を私に向ける。


「え、この店なんかめちゃくちゃ高級そうじゃない? ……ディナーコース、めっちゃやばいじゃん」

「そうなんだよ。だから、当日はちょっとそれっぽい格好で、ということだけ伝えておきたくて」


 俺もうっかりジーンズとか履いてこないようにしなきゃなあと言いながら、智輝は楽しげにしていた。




 大体のデートって、文字に起こすと本当にくだらないことしかしていない。カフェでお昼を食べた。その後、近所のルミネでウィンドウショッピングをしてから映画を観る。1980年代のヨーロッパを舞台にした洋画で、おしゃれな雰囲気を味わうことはできたものの、主人公や登場人物の行動や思考にはあまり共感できるものではなかった。たぶん、一週間後には内容を忘れてしまっているだろう。今回の映画のチョイスは、智輝によるものだった。大体私たちが映画を観に行くときは、私と智輝が交互に観たい映画を提案する。私は主に、現代が舞台の日本の話を選びがちであるが、智輝は洋画が好き。私は比較的、ダイナミックなストーリー展開のミステリー等を好むが、智輝は落ち着いた雰囲気の恋愛や家族ものなど、おしゃれなストーリーを好みがちである。趣味が合うのか合わないのかというと、合わない、と言った方が正しいのかもしれない。しかし、それを居心地悪いと感じたことはない。私自身、好みや趣向はそれなりにあるものの、強いこだわりが有るわけではなく、基本的にその場に有るものをそれなりに楽しめてしまうタイプである。智輝自身が、決して私に自分の趣味を押し付けてくるような態度ではないことも、その一因となっていると思う。いつも不思議に思う。こんなにも趣味も性格も違うのに、どうして智輝といるとこんなにも楽しいのだろう。どうしてこんなにも落ち着くのだろう。




「しかし、最後のプロポーズシーン、ダイヤがクソデカ過ぎて笑っちゃった。当時、ダイヤ安かったのかな、だって主人公たちって一応、庶民だよね」

「うーん、さすがに映画上の演出だと思うけれどね」

「そうだよねえ。あれだと、普通に何百万もしそう」


 映画が終わると、再び私たちはカフェに入る。智輝はノンカフェインコーヒーを、私はちょっと甘めのカフェオレをすする。


「……美雨は、婚約指輪のダイヤはやっぱ大きい方がいい?」

「いや、デカすぎは困る。絶対、服とかに引っ掻けるじゃん」

「指輪、美雨は普段あんまりしないよね」

「確かに。ネックレスとかを優先しがちで、普段あんまり買わないのよね。もちろん、素敵なデザインのがあったらほしいけど」

「好きなデザインとかってある?」

「どうだろう? 特別にこれ! ってのはないかな」


 最近、智輝は度々この手の話題を出してくる。本当はサプライズでプロポーズをしたいという思いはありつつ、変なところで失敗はしたくないから事前リサーチをする。しかし、婉曲表現が苦手すぎて、こっちにはバレバレ。バレていることに智輝も気づいているのか、最近では「二人で住むアパートの間取りは何がいい」「婚約指輪のデザインは」みたいな、ド直球質問を繰り出すようになっていてちょっと可愛い。


「でもさ、あれだよね。一生に身に付けるものだし、指輪はやっぱりカップル二人で見に行くのが無難だよねって思うわぁ。高い買い物だからね」


 本当の本当は、自分一人で買ってきた指輪をケースに入れて、ぱかっと開けてプロポーズしたいのかもしれない。男性は――というか智輝は少なくとも、往々にしてロマンチストであることを知っていながら、そんな提案をしてしまうのは無神経だろうか。


「確かに二人で見に行ってわいわいやるのも楽しそうだ」


 しかし彼は私の提案に対して決して嫌な顔をしない。その辺、どうやって自分の気持ちに折り合いをつけているのか不思議に思うことがある。





「ただいまー」


 玄関先には、春子のダークグリーンのパンプスがすでに置いてあり、彼女が帰宅していたことを察する。返事はなかった。


「ただいま」


 私は部屋に入り、コートも脱がないまま、春子の目の前に立った。


「おかえり」


 自分の布団の上でスマートフォンをいじっていた春子は、目を上げた。


「シューカツ、どうだった」

「バイトの方は即採用。明日から駅ナカの本屋で働く。再就職の方は、とりあえずハローワークで何個か候補を挙げてもらって、今こっちでエントリーシートを書こうかなと思っているところ」

「パソコンとかあるの」

「パソコン? あるよ。――遺書PCが」

「遺書PCて言うのやめてー」


 数日前に書いたであろう遺書について、ブラックジョークを繰り出す春子の情緒はやはり訳が分からない。そもそも春子は学生時代、あまり冗談を言うタイプではなかった。

 死ぬ決心をした後で、スマホを解約し忘れていたことや、遺書を残すためのPCをとっておいたのは、結果としてとても勝手が良かったのではないかと思う。お陰で、生きることを決心した後の生活を、さっさと建て直すことができそうである。

 そもそも、そんなに早急に建て直すべきなのか、という問題は別途ある。


「――ところでさ、そんなに就職を焦る必要ってあるの? あんた、金ありそうじゃない。めちゃくちゃデパコスとか服とか買ってたし」


 ちょっと下品な言い方をしてしまったのは、本当の疑問から少し話題を逸らせるためである。決して本人から直接聞いたわけではないが、おそらく春子の自殺未遂の原因は、会社での人間関係とブラック労働だと思っている。春子の性格は、正直労働に向いていない。どんなに自分が正しかったとしても、自分が正しいと思ったことを押し付け、相手の意見に聞く耳を持たない行為は、社会生活でもっとも嫌われるのだ。学生時代から成績が良く、初対面での人当たりも良い春子は、きっとそれなりに仕事は任されていたと思う。しかし、他人と関わる度にぶつかり、冷たくされ、敵を増やして仲間が減っていく、そして一人で全ての仕事を抱え込まなければならない状況になれば、疲弊し心が壊れていくのは容易に想像ができる。

 ただひとつ、腑に落ちない点はある。彼女は会社をやめたと言っていた。それならそれで解決ではないか。会社をやめて、再就職なりなんなりすればいい。最悪、実家を頼ればいいのだ。あの責任感ばかりが突っ走る春子が、会社をやめる勇気を持つことができてもなお、どうして彼女は死ななければならなかったのか。しかも出来心なんかではない、しっかりと事前に遺書や練炭などの準備をした上でのものだ。それがよく分からない。そもそも私は春子のことはよく分からない。基本的に私と彼女の行動原理は違いすぎているため、彼女を本当の意味で理解できる日は永遠に来ないと思っている。


「確かに貯金はあるね。――前の会社はめちゃくちゃ忙しくて、遊びに行く暇もほとんどなかったし、でも給料は良かったから貯まるだけ貯まるってわけ」

「ふうん」

「でもそのお金だって、無限にあるわけではない。所詮は、社会人三年目が貯められる額よ。それにこれから当面、美雨の家にお世話になるのだったら、少なくともお金の面では迷惑かけたくないし、できれば早く引っ越しだってしたい」


 何となく忘れていたけれど、確かに、ずっとこのままの生活が続くわけではない。いつか春子は私の家を出ていく。


「美雨、次の再就職先が見つかって、新しい部屋も見つけたら私出ていくからね。申し訳ないけれど、それまでお世話になります」


 春子が頭を下げるのを見て、おそらく私が抱くべき感情は「安堵」なのだろう。この妙な共同生活――大好きな魚介スパゲティも、コーヒーも遠慮しなければならない窮屈な生活に、きちんと終わりがあることを確認できた。この生活に終わりがくれば、私は再び元の自由な生活に戻れる。――そうだ、春子がいると、智輝を家に呼べないではないか。そういう不自由さも、ちゃんと期限付きなんだ。

 しかし、なぜか私はそのような気持ちにはなれなかった。彼女のことは酔った勢いで助けてしまっただけなのに。本当は、春子のことなんてそんなに大切な友だちだなんて思っていなかったはずなのに、どうして私は今、寂しいと感じているのだろう。――寂しい、も違うか。そうだ。焦りだ。私は何かに焦っている。

 あの日、そもそも私はどうして、春子に声をかけてしまったのだろう。確かに酔ってはいた。しかし、完全に判断力に欠ける状態ではなかった。というのも、あの日私は切らしていた日用品をきちんと思い出し、しかもおつりの枚数が少なくなるように支払いを行っていた。やや複雑な計算ができるくらいには、しっかりと思考力を保った状態だったのだ。酔った勢いは借りたかもしれない。しかし、あの日春子に声をかけ、家に泊める決意をしたのは、間違いなく私自身の意思なのだ。「酔っていたから」というのは、言い訳。――二十五にもなって私は、春子との学生生活をやり直したかったのだ、たぶん。

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