第3話
デパートの化粧品売場はとても緊張する。まず、あの香り。外資系ブランド特有の強めの香りが、身震いさせる。それと同時に、気持ちが非常に高揚する。この日のために私は毎日働いてきたし、今日はお洒落だってしている。一年前のボーナスの日に買った、ブランドもののバレッタ。髪型は、ハーフアップ。いつもより念入りなメイク、そしてお気に入りのヒールつきのパンプス。仕上げは就職祝いにと、祖母が買ってくれた真っ白なバッグ。
悠々と歩きたいとは思いつつ、そういうわけにもいかない。春子は非常に歩くのが早いのだ。何をどうやったらこの人混みのなかをそんなにスイスイと進むことができるのか非常に謎なのだが、これは学生時代からそうであった。高校一年の頃、一緒に回った――というより、春子に置いて行かれた文化祭を思いだし、なんともいえない気持ちになる。
「いらっしゃいませ、何かお探しでしたらお手伝いいたします」
「あの、スキンケアのラインナップを拝見したいんですけど……」
こういうところでオーダーするのに馴れているのか、春子は微塵も戸惑いを見せずに店員さんと会話をする。
「これまでに当店の美容液等をお使いになられたことは?」
「えっと、普段から使っておりまして、ちょうど切れてしまったので……」
「ああ、そうなんですね! 誠にありがとうございます」
本当は身辺整理の際に捨ててしまったのかもしれない、と思った。しかし、こんなことでありがとうございますだなんて、端から聞いているだけでむず痒い気持ちになる。もちろん、そう返答することが接客のテンプレなのだろうけれど。
「何かお探しでしょうか?」
「あ、すみません。友人の付き添いで……お邪魔になりそうなので、外出ますね」
春子の対応をしている方とは別の
「いえ、そんな。もしよろしければ、お友だちのお隣の席が空いておりますし、おすすめの商品のタッチアップだけでもされてみては?」
こうなると、あまり断れない。目的のリップは別のブランドだけれど、自分に似合う色を見つけるためにも、いろんな種類のリップを試してみるのは良いのかもしれない。
「それでは、お願いいたします」
隣の席では春子が新作の美容液について何やら説明を受けている。――無数の小さな針が入っていて、肌の治癒効果を使った美容ケア。何それ分からん。ホンマかと疑いつつも、おもしろそうだと感じながら、春子たちの会話を盗み聞きしていた。
「ファンデーション、スキンケア、アイカラー、リップ。……どれが見たいとか、ありますか?」
「リップでお願いします」
私の担当のBAさんは、隣に比べて非常にソフトな声で話す。もちろん、聞こえないことはないし、どちらかというと耳馴染みの良い声だと感じてしまうのだが、きっとあとで先輩から「覇気がない」と叱られてしまうんだろうな。
「承知しました。お色味のご希望とかありますか? あ、色ではなくても、なりたいイメージとか、どこにつけていきたいとか、そういうのでも」
「そうですねえ。正直、自分に似合う色ならなんでも……どちらかというとキラキラ系のやつ……?」
かしこまりました、少々お待ちくださいと返事をしたBAさんは、しばらくの間私の顔面を鏡越しにガン見し、店のリップコーナーへと移動する。なにやら、色味をチェックしながら、複数のリップを選んでいる。
「お待たせしました。ラメ系、ツヤ系の中から、比較的明るめのお色をお持ちしました。正直、お客様くらいの肌の透明感があればどんなのでも似合ってしまうんですけど、柔らかい、女性らしい雰囲気だとか、ファッションテイストからは、こういったのがよくマッチするかなと」
ベルベットの生地の張られたトレイに並ぶ十本近くのリップ。
「こちらのシリーズはツヤがあって、どちらかというとリップグロスのような……」
説明を聴いているうちに、ワクワクしてきた。本当は別の店の商品を買いにきたはずなのに、いつの間にやらここで買いたいという気持ちにさせられている。これだからプロの営業テクニックは洒落にならん。――こういう、ふとした瞬間に感じるのは、私にはこういうテクニックは備わっていないよな、ということ。人の購買意欲を刺激し、自社ブランドに好感をもってもらえるように接客する。そんな経験、私にはない。もちろん、目の前の素敵なBAさんだって、私より数学を勉強しているとは思えないし、子どもに数学を教える方法を知っているわけではないだろう。理系就職がどのようなものであるか、学生に伝えるようなことだってしないだろう。人間の短い人生で全てを掌握することはできない。大人は皆何かを捨てて、何かのプロになりながら「社会」の役に立ち、お金をもらう。それでもなお、隣にいる誰かのことが羨ましくなるのが人間だ。
「わあ、やっぱりこの色お似合いですー! 良かった、間違ってなかった」
BAさんが少しはしゃいだ様子を見せながら、次々にリップを塗り、落とす。
「どうしましょうね、十本も持ってきちゃったから……トーナメント戦みたいな感じで選んでいきましょうか」
何かにおいて選択を迫られるのは、少し苦手だ。決して優柔不断なタイプではなく、どちらかというとレストランのメニューでも、服を選ぶときでも、私はさっさと決断を下す。決断すること自体が苦痛なのではない、どちらかというとその決断を他人に評価されるのが苦手なのだ。「へえ、あなたはそれを選ぶんだ」「そういう趣味なんだ」「そういう生き方なのね」……
「リップ選んでるんですか?」
唐突に、春子が割って入ってきた。そう、本来の春子はコミュ力お化けなのだ。初対面の人と話すことに抵抗感がないタイプ。だから時折、彼女の性格を底抜けに明るいと勘違いしてしまう人間がいる。
「うん、そう」
「ずいぶんたくさん試したんだね」
BAさんは微笑んだまま、私と春子を見つめていた。おそらく内心、どうしたらいいのかわかんねえよ、と思っているのだろう。
「どれにするの」
「迷い中。これとこれは、候補としてありだと思っている」
白味混じりの温かいコーラルピンクと、ほんのり青みのきいた、非常に柔らかい発色のローズピンク。どちらも違和感がなく、使い勝手も良さそうだし、何より同じくらい、私のテンションを上げてくれる。なんなら、二本買って帰りたいくらい。でも正直、今は少しだけ、ローズの方に心が揺れている。
「やっぱり、その辺りですよね! 本当に柔らかい色がお似合いで――」
「こっちじゃない?」
BAさんの言葉をさえぎり、春子はコーラルピンクの方を指差した。
イエベ、ブルベという言葉がある。端的にいえば、黄色っぽい色が似合うか、青っぽい色が似合うかという話。社会人になりたてのころ、友人と遊び半分でプロのパーソナルカラー診断を受けに行き、私はイエベであると診断された。一番似合うのが、明るく黄味のある色。僅差で二番目に似合うのが、青みがありつつも、比較的明るい色という診断結果だった。そういう意味では、私とBAさんが残した選択肢も、春子の最終的な選択もめちゃくちゃ正しい。私にとってのセカンドではなく、ベストのカラーをきちんと選ぶことのできる審美眼というか、センスというか、そういうものを春子は持っている。これは学生のときからそうで、彼女は私に似合うもの、似合わないものをズバリと指摘し、そのとおりに実行するとなんでもそれなりにうまく行くのだった。おそらく春子は、他人にかなり興味がある。関心を持ち、よく観察しているから、そのようなことができるのだろうと思う。
春子のそういうところが、好きだった。
「なるほどね。――じゃあ、こっちで」
私は春子の言葉を受け流すと、さくっとローズピンクの方を指差した。
「承知しました、フェアリーローズ、07番のお色味で間違いなかったでしょうか」
「はい」
念入りに確認されたのは、おそらく春子の言葉の逆を選んだからだろう。今ごろBAさんの中では私と春子の間の不仲説が流れているに違いない、「コイツら絶対仲悪いだろ」って。
ブランドロゴの入った小さな紙袋の中には、今日選んだ大切なリップと、「お客様の肌色にあわせて明るめのお色味にしておきました」と例のBAさんが念を押した(この辺りにも、接客スキルを感じてしまう)クッションファンデーションの試供品が入っている。春子の布団を買いに、格安の大型家具店に向かう途中だった。
「美雨がローズの方を選んだの、意外だった」
「そう? 単純に、つけていくオケージョンを考えたら、こっちの方がいいかなって」
オケージョンだなんて、嘘だ。単純に私の心がローズを選んだ、それだけだ。更に正直に言うと、智輝が好きそうな色。それを纏った自分を、彼に見てもらいたかった。別に春子に認められたくて買ったわけでもないのに、こういう言い訳をしてしまう自分は嫌いだ。同時に、あんなにもはっきりと「こっちだ」と示されたにもかかわらず、外野の意見に惑わされない自分のことは、それなりに好き。
学生時代の春子であれば、「どうしてあっちにしなかったの? 私が選んだのに」と遠慮なく言っていただろう。その点、成長したと感じる。春子は、いつでも正しい。まあ、必ず正しいということは人間誰しもあり得ないのだろうけれど、どんなことであっても、そんじょそこらの人間よりは、春子の言っていることの方が正しいことはよくあった。
ただ、春子は自身の決断に自信を持ちすぎるのだ。だから、人と度々衝突する。そんなもん好みの問題だろと言いたくなるようなことにまで、強めのテンションで口出しされれば、嫌だなと感じる子は死ぬほどいる。
そして、私自身、春子のそういう一面は本当に大嫌いだった。お前は自分が正しいと思いすぎている。学生時代、何度もそう言いかけた。
春子はなおも続けた。
「私は青み系しか無理なんだよね、アイシャドウもリップも」
「無理ってことはないでしょう。まあ、多少似合う似合わないはあるかもしれないけれど」
「それが大事なんだって。……明るい色も似合わないの、私」
「へえ……それは厄介ねぇ」
「本当は美雨くらいの濃いめの茶髪にしてみたいなって思ったこともあるんだけど、『あんたがやると老けて見えるからやめときな』って言われるし」
「そう? あ、ちなみにこれは地毛だけどね」
春子の思いが透けて見えたから、正直うっとうしいなと感じた。私の領域に入ってこないで。あんたみたいなショボいやつと一緒になりたくない。春子は暗にそう言っている。本人も気づいているのか気づいていないのかギリギリのラインの、こういった淡い悪意に、私はまともに取り合ったりはしない。気づかないふりをして、わざと同情するようなことを言う。しょうもないことを言ってしまった相手自身が、相手自身を情けなく思うような言葉を意図的に選ぶ。私はその程度の根性の悪さを持ち合わせている。
「……ねえ、美雨。昨日はひどいことを言ってごめん」
そんな中、唐突に謝罪をする春子の情緒は一体どうなっているんだ、と内心首を傾げる。
「昨日、美雨に久しぶりに会った時に、思い出してしまったの。高一の文化祭の前日のこと。あの日がとても楽しかったんだ、私。豊桜高校で初めて友だちになれた美雨と、大好きなコスメの話ができて、ドラッグストアで美雨にチークを選んであげたの、忘れてると思うけどね。あの日のことがふわって思い出されて。……あんなに幸せだったのに、どうして私は練炭なんて買ってるんだろうってなって。それで、あんたのせいで死ぬのが怖くなったって言ってしまった」
私自身、その日のことはよく覚えている。たしかそのときに春子から私への誕生日プレゼントとして買ってもらったチークの色はまさにコーラルピンクで、世の中にこんなにも可愛い色があるというのか、と、感動した記憶がある。
そのチークの件については、あとで我が家でちょっとした事件となったわけだけれど、春子と過ごしたその時間は、私にとってもかなり印象深い、良い思い出だ。
「まあ……覚えてはいるよ、その日のことは」
「私にとっては、大切な思い出だった。今日、デパートに来たのも、そのときのことを忘れられなくて」
少しだけ、はっとした。もしかすると私の読みは違っていたのかもしれない。春子が、春子の選んだリップにこだわっていた理由。それは、あの日選んだチークの色味に似ていたから。もしくは、春子が選んだ色のリップを買った私が嬉しそうな顔をするのが見たかったから。
「今日、美雨と一緒に来られて楽しかった。あの年の文化祭前日みたいな気分になれた。だから、ありがとう」
素直な言葉への応対のしかたを、私はあまりよく知らない。
翌日。春子は午前中からバイトの面接と、ハローワークの梯子で忙しい。合鍵を渡し、春子を外に送り出した。今となっては自殺しに行く心配はほとんどしていない。初日と比較しても、春子の情緒は落ち着いた様子だったし、そもそも今から死のうとしている人間が、大容量のデパコスを買い占めるとは思えない(一体何万したんだ)。
智輝とデートの約束をしていた私にとっては、春子の外出は好都合だった。「何らかの気の迷いが生じて、留守中に春子が我が家で自殺する」という最悪な状況が防げるのもそう、もしくは外出時に「どこに行くの」と問われた際に「彼氏とのデート」と答える間抜けなイベントが発生するのを防げるのもそう。春子がいなくなった部屋で、私はメイクを丁寧に仕上げ、お気に入りのワンピースを身に纏った。女子アナ風ファッションは、デートの王道スタイル。これに、ホワイトのショート丈のコートで甘さを追加する。これは、智輝に選んでもらったものだった。
道中、後ろから歩いてきた女性に突き飛ばされた。転びはしなかったものの、大袈裟によろめき、周囲の視線を浴びる。そういう日もある、仕方がない。白いコートを着ていると、時たまあることなのだ。今のところ汚されていないだけマシ。おそらく、自分で自分のことを可愛いと思っている鼻持ちならない女だと判断されているのだろう。
智輝を待つ間、カフェに寄った。そして、コーヒーを注文する。私は元々コーヒー派ではあるが、紅茶も嫌いではない。我が家にも、紅茶とコーヒー、両方とも置いてある。ちなみに春子は紅茶派なので、ここ二日くらいは彼女に合わせている。そういうところも、違うよなあと感じる。ブラックコーヒーをガブガブ飲む女より、ロイヤルミルクティーをすする女の方が、なんか可愛いに決まっている。
「ごめんね、待たせた」
「いや、私も来たばっかりだから。……そもそも約束の時間前だし」
あとからカフェに入ってきた智輝は、自分もブラックコーヒーを注文する。
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