最終話 月の裏へと
壮大なフィナーレが終わり、万雷の拍手の下花火大会は幕を閉じた。二十一時で、敷地内のレストランは閉店している。あんなに沢山いた人間も、今はすっかり消えた。駐車場の車も殆どどこかへ消えただろう。私はまだ園内にいる。ゲートが閉まる二十二時までは、まだ三十分くらい時間がある。けれど、私たちはどこにも行かないでいる。河南が飲んでいたのは普通のビールだったのだ。普段運転しないから、アルコールを避ける癖が付いていなかったらしい。
河南はすっかり酔っ払って、さっきから円錐型の滑り台を飽きもせずリピートしている。「どうすんの、これから」私の声も聞こえないようで、また駆け上がる。滑り落ちる。彼女を無理に捕まえようとしても、するりと離れて、遊具の周りを走り回る、鬼ごっこのようになってしまう。彼女の体力には、到底追いつかない。そういえば、最近ちっとも走っていない。後ろ向きに、走って逃れる彼女の汗は光って消えた。
次第に彼女との距離が離れる。振り向きつつ、前を走っていた彼女も息を切らして、けれど笑っている。彼女の背後には、真白い照明が立っていた。周りには蛾が騒がしく群れている。彼女の影は私の足下まで伸びている。影の先にあるのは河南の、濡れた砂のような素肌、唇、間から覗く白い歯、「捕まえてみなよ」挑発するように私を見ている。あの嵐の夜を思い出す。台所でガラスを割った河南を、掴んで、引っ張り込んだ。その瞬間が、スローモーションのように、コマ送りで再生された。想像の中に暗闇は無かった。ただ、断絶して、どこにも行けないところにいた彼女をこちら側に引っ張るシーンだけが、抽象的にあった。後頭部を打ち付けるまで暗闇はやってこなかった。足の裏は小さく切れて、フローリングに血が何滴かこびり付いていた。
「このままだと、どこにも行けなくなるよ」
駐車場のゲートが閉じてしまえば、代行を呼ぶことも出来ない。
「どこにだって行けるよ」私を見ながら後ろ歩きで、照明の裏側の方へ行く。暗闇に輪郭が溶けて、影絵のような世界に足を踏み入れる。あくまで一定の距離感、弦の音が張り詰めず、緩みすぎない程度を保つように。彼女はこれからどこへ行くんだろうか。私は?
息を切らしつつも、また早足で彼女を追っている。
追いかけられ、追いかける関係。離れている内は花、調律された関係とはそういうことかもしれない。一方が一歩を踏み出すたびに、片足を踏み出せる。遅々とした歩みでも、いつかはどこへだって行ける。届かなかった人のことを考える。助手席の、使い差しの口紅。彼女に届かなかった、小さな雪玉のこと……。これからは、そういうところを目指さなければいけない。今度は私が彼女に引っ張られる番なんだろう。糸が切れるまでは、この関係を楽しんで。
気付けばまた走り出している。
――真っ白い雪に足跡を付けるのが好きだった。周りに何も無いくらいが丁度よかった。私は今、月の裏みたいに黒い芝生を駆けて行く。遠くに立つ人々の影を頼りにして、あらゆる影の輪郭に足を踏み出して行く。人、過去、来る挫折、割れたガラスのように踏めば痛い、けれど痛みは足跡のように、きっと今まで続くだろう。知らぬ顔ではいられない。さもなくば、自分の居場所を見失ってしまう。
走りながら、私は無性に脚本が書きたくなっている。突然木元からの電話、「相羽、新しいホンどう」眩しいくらいの画面の灯り、彼の声は光の中から届いてくる。「書くよ、絶対に書いてやるからな」急にアイディアが降って湧いたわけでもない。ただ、手を伸ばしたい。何処までだって伸ばしたい、月の裏にも人はいるぞと、今独りの人間に伝えてやりたい。
――了
不知顔 みとけん @welthina
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