第52話 女一人

 ラーメン屋から帰って来る頃には、園内に規制線が張られ、噴水から入り口側には人がごった返している。打ち上げ場所に近いところには膨大な椅子が並べられて、そこはプレミアム席らしい。予め取ったチケットは芝生席、入園するときにそれを見せれば、後は敷地の半分、とはいえ広大な芝生のどこからでも眺めて良いようだ。

 まだ日は暮れきっておらず、集まった観客を見渡せば、浴衣を着た者が目に付く。ざっと見たところ、見通しの良い場所に陣取っているのは家族や友人、恋人。流石に一人で来る人間はそういない。展望山の中腹辺りに腰を下ろした。頂上の方には幾人もの人の影が、木立のように立っている。不意に立ち上がった河南が、飲み物を買いに小山を走り降りていった。

 段々芝生が濃い黒に沈み始め、アスファルトの灰色が明るくなってきた。河南はまだ来ない。ちょっと沼の方を見ようかと山を回る。打ち上げ場所の見通しが悪いところまで来れば、流石に人もいない。低い木立の向こうに水面がある。風に揺られ、ゆったりと瞬くように、月の光を蒔いている。昔、この沼は豊平川か石狩川の河跡湖であると習った。大きな流れに取り残されて、その癖、糸の様に繋がった細い川に水を循環させている。この沼も、きっと一人になりきれない。

 山の向こう側で、開会のアナウンスが流れたとき、長い時間をそこで過ごした気がした。さてと振り向き、すぐ上に、私を見つめる影、大して花火も見えない位置で、胡座をかいて、傍には真っ白いビニール袋。中には銀色のビールの缶が光って見える。中年の女性。傍には誰も座っていない。一人で花火を見に来たが、周りの雰囲気に圧されてこちらの方に身を潜めたのか。

 けれど、その女性はよく見たら事務所のボスなのだった。私と目が合うと、「見たな~」とも「見たぞ~」とも取れる不敵な笑みを浮かべて、「おいでおいで」と手招きをする。既に出来上がっていて、空いた缶が混じった袋の中に手を突っ込み、私に開いていないのを差し出す。

「お一人ですか」

「そうだよ。相羽は?」

「私は友達と二人ですよ」

「なんだ。まずいところ見られたなあ」

 そう言う割に、大して恥ずかしくも無さそうに笑う。一人、芝生で酒を飲んでいる彼女は、普段の剛気も無く、ただ泰然とそこにいる。会場の方では花火の専門家が打ち上がっている花火の名前、見所を説明している。見晴らしが悪いと思っていたが、花火の光はしっかり届いている。菊牡丹しだれ柳、数えるように、打ち上がる花火の名前を言い当てる。「詳しいですね」「一人で来るくらいには好きだから」自嘲してまた飲み干して、袋の中をガチャガチャ漁る。

「別に一人で見に来たって良いじゃないですか」

「そりゃ綺麗事だ」

「綺麗事」

「そう、綺麗事。相羽は本心でそう思ってるかもしれないけど、世間ってもんがあるからね。私みたいなオバさんが向こうにいると、疎ましがられるでしょ。だから私は一人酒」

「……でも、誰だっていつかは一人ですよ」

「そうさ、誰だっていつかはこっち側だ」

 河南から着信が届いた。向こうで私を探しているんだろう。スマートフォンを覗くと、サーチライトのように私の顔を照らす。去る気配を悟ったのか、ボスが袋を漁って、缶を二本寄越した。

「まだまだこれからだ。楽しめよ」

 私は礼を言って、缶ビールを受け取った。けれど、河南は帰り道運転しなければならない。二本とも私が飲むことになるだろう。去り際に、「でも、綺麗ですね」と言うと、「そうなんだよ」憎々しげに空を見上げる。「綺麗なんだよ、だから見に来ちまうんだなあ」そのときに飛んだ火球と言ったら、輝いて、周りに残った蜘蛛の巣のような煙を照らし、開いた形は冠菊。一所に集まっていた筈の火薬はしだれるように夜に散り、後に残ったのは、軌跡を辿る煙だけ。それすらも風に流されて、大きな渦を作って消えていく。開会式を兼ねた花火の解説が第一部で、これから本格的な第二部が始まるらしい。

 

 河南もまた缶を口に付けている。平然と飲んでいるから、多分ノンアルコールなんだろう。私の持っている缶を見て、「あれ、そのビール」不思議そうに呟く。「今そこで知り合いと会って貰ったんだ」早速プルタブを開こうと、見れば、片方は空だった。耳を澄ませば、花火の鳴る音が反響しそうな――虚しさ。絶えず頭上では、一つの火球が弾けて、分裂し、やがて闇になる。その様、ここに集まる人間、人生を暗示するようで、やがて訪れる孤独のことを、花が咲くたび思い馳せる。

 綺麗なんだよ。光が群れた、その一瞬が世間のようで。一つであるのは、この明るさにも負けずに光る月くらい。月は神みたいに輝いている!……私だって、本当は神みたいになりたかったんだ。遠くの星々は、花火の明るさに隠れて見えない。

 私は新しい缶を開けて、勢いよく喉に通した。

「もう、一本飲んだんですか?」

「まだまだこれからだよ」

 そう、これからだ。人生はこれからもまだまだ続いていく。あの花火に比べれば、私たちが星に思えるくらい。それくらい、時間はたっぷりある。


――――

「不知顔」も残すところあと一話となりました。

レビュー等リアクションが頂ければ幸甚です。

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