23. ジ・エンドマーク

 つたを払って教会を出ると、冷え澄んだ朝の光と風が、白く鋭く、後ろめたい。

 ロードの頬を凍えさせて、寝ていないので頭蓋の奥側をしめて痛めつける。もう一歩、身をぬかるみにとられて揺れ、鈍く音でない苦痛がこめかみに響く。

 つぶつぶと輝く森のそこら、清涼な登山道はかえって陰鬱に感じられ、文脈効果の身勝手さに嘲笑も生じた。






 戸を引こうとした。しかし、向こうがわから、ロードの今と合わない少し素早い調子で押し開かれた。


「おかえりなさい」


 ローナが笑っているこのことひとえによって、ロードのまぶたは半分閉じられた。


「ただいま」


 ローナは、吸って、小刻みに息を震わした。


「疲れてます?」


 自分よりずっと高いロードの目に、ずれないようぴったり目を注ぐ。

 罠でそうするみたいに、ローナは横からタオルをかけた。


 そのとき己は冷めていたのだとロードに気付かせた。陽の灰じみた薫りたって、その熱を白い繊維がふきだして、頭をくるまれてホウとしてしまう。

 ローナがわさ、と彼の色濃い髪を丁寧に拭き流して、その力に無抵抗にゆらゆら動くあり様で少し以上、目を逸らしたくもなりながら。


「ローナ」

「寝ちゃいましょう。いい時間になったら起こします」


 タオルの陽の香りをすぅと吸い、ローナは幸福そうにする。その頬が彼の方にすり寄って、見えないけれど肩に細い腕がかかり、温感が眠気を誘った。

 ロードが抱きしめ返そうとしたとき、小さな高体温の手が背のとてもよいところを圧すので、ぽん、ぽんと繰り返されるたび、沈んでいった。


「ローナ」

「はい」

「僕はどうして今日まで生きて」

「先生」

「まって、ちがうよ」

「何ですか」


 少し、ローナの首を絞めたくもなった。


「ローナ、ありがとうね」


 純然としてはいないそれを言った。

 後を覚えていない。


「おやすみなさい。お父さん」






「おかえりなさい」

「ただいま」

「……見てました?」

「うん」

「どう思いました」

「正直ちょっとキツイなって思った。先生ってもっと強い人だと思ってた」

「先生は強いですよ。自分で貶しきっておけばもう貶されませんから」

「そう」

「どうしたらいんでしょ」

「わかんない」

「ですよね」

「……」

「あの」

「何?」

「アクラが先生から聞いたことで、私が聞いていいことってありますか?」

「ごめん」

「いえ」

「ところでルークの件、どうする?」

「行くのやめます」

「そう」

「……」

「やっぱキツイって」


 このことの後、ロードは精力的に教鞭をふるうようになった。いくつかの査読済未発表論文を用いることに惜しげない。

 アクラは理由を聞かなかったし、今後決して聞かない。その一室の、真のアカデミックじみた心地よさに、しっとりと浸ることに決め込んだ。それでしばらく、狩りに行かなかった。


 これが八日間続く。そう区切ったものは、五月一七日、バーバラ事務局大会議室への召喚だった。






 その当日一一時三〇分、バーバラビル地下三階、蕎麦屋にて。


「相席失礼します」

「お構いなく」

「……。あっ」

「……」

「失礼しました……シュトルム閣下」

「お構いなく」


 ニスのきいた長椅子の奥の端で、アクラは積極的に小さくなった。畏敬の示し方をやった心づもり。しかしグリーン・シュトルムは、細いぶんなのか高い背丈で、アクラの方をじぃと厳しく見下している。


「ご注文は?」

「かきあげそば、お願いします」

「かしこまりました」


 はす向かいをもらう。グリーンはすぐに構わなくなり、替え玉の注文などしている。見れば横に5皿、積んである。


「よく食べるんですね」

「はい?」

「あっいえ」


 名の通りの緑の目が蛇のように竦ませる。アクラは肩を縮こまらせ、膝にぎゅっとした両こぶしに顔を伏せてなおも、彼の静粛は人を逃がさないものだとすぐに弱った。

 ドンブリが卓を打つ。静かに器の端を取った。


「頂きますを言いなさい」

「はっ、い」

「手を合わせて。バーバラの作法です」

「はいっ」


 いただきます。


「……アクラ・トルワナ」

「はいッ」

「なんですか、その、汚い箸使いは」

「あー……」

「誰も指摘しませんでしたか」

「はい」

「なんと薄弱な時代か。私の手を見なさい」

「あの、大丈夫です」

「いけません。あなたがいいからという話ではありません。

 あなたには健全な五本指がついている。品位を下げ、大神に恥じる行いは慎みなさい」


 グリーンは箸の持ち手を鏡映しにやり、かつ手の平側を見せ、その様子を店内の人々揃い揃って見物していた。アクラは気が悪くなって、口びるを力んだ。

 左手遣いは卑しいので右手にしなさい、関節の段につっかえさせて軽く持ちなさい。アクラはこういったことをグレイスにも郷里の人にもルークにも、ロードやローナやトウカにも一度も言われなかったことを思い出した。別に自由だからとか気にしないとかの返答を彼女の中の彼ら彼女らは返してくる。


 追って言う。


 近頃のものは利き手を矯正しない。ついには左利き専用商品などを売り出して、まったくはしたない。野猿のごとき悪習です。それを恥じないとは嘆かわしい時代です。

 価値観の自由がどうのこうの、いんちきの常套句がどこでも飛び交っている。少数派を大きく見せて社会を作る邪魔になっている。だいいち自家撞着しているのですよ、ああいった輩は。不自由を強いる自由にも自由でいられないのだとしたらそれは、ただ気に食わないことを許せない幼稚さに過ぎないのです。


 アクラはただ、はい、はい、と相槌を返した。


「そして肘をついてはいけません」

「はい」

「よろしい。ガルターナ王国民に相応しい作法はそれです。

 筆記用具も同じように使っているのなら改めなさい。拳のしたに掠れたインクなど引きずろうものなら、あまりにも不格好です」

「はい、わかりました」

「それでこそ、王国民に相応しいというものです……さて。

 ご馳走様でした」


 と、悪態を引きずらぬよう気を付けて言う。そして、お代を払ってまた「ごちそうさまでした」と店中聞こえるように言って去って。

 すぐ戻ってきた。


「アクラ・トルワナ、食べ終えたら付き添いなさい」






 その狭苦しい一本道は、窓がなく、脇には騎士像が立ち並んでいる。それらが上向けて構えるつるぎと、天井の淡い白熱灯の長く連なっているのが、アクラを窮屈な気分にした。白塗りの壁を人工光が一定に照らしている。


「あなたの志望動機は、海底区画汚染の解消であっていますね?」

「はい、それが夢です……どうしてご存じなんですか」

「あなたがガルターナの財であり、私がその宰相であるからです」

「そういうものですか」

「むろんです。閲覧しうる資料すべて、朝ごとに記憶しています」


 誰も、覇にヒラリオが、武にヒラリオが、治にシュトルムがあると習う。


「あなたは先日女神レシーランについて知りましたね」

「いえ。私は先生のことを聞きました」

「怯みがなくなりましたね」

「すみません、態度悪いですか」

「いえ、けっこう。萎縮は礼にあたりません。

 礼とは誰に対しても畏まることではありません。振る舞いにおいて、例えば対等なものにはかえって気をおかぬこともこそ、すなわちその時もっとも適してこその礼です。

 ゆえにただ恐れ、振る舞いを選ばぬことはむしろ、最大限の無礼に相違ありません。意志をもって尽くさぬ限り、それを慇懃無礼といいます」


 この人が治めるのは精神だとアクラは思った。


「それでまた、どうしてご存じなんですか」

「本来本件は極秘であり、あなたに伝える予定はなかったところ、リシオンの請願によって私が許可したのです」

「ありがとうございます」

「益はありましたか」

「はい。色々、はっきりしました」

「けっこう。ではアクラ・トルワナ、その願いが彼とその師リシオンの尻拭いであることは理解しましたか?」


 一五秒悩んだ。その間、真っ白な床をうつ靴音に時間を埋められ、ちょっと視線を泳がしてみてもグリーンの背筋はまっすぐ動かなかった。えーっとを、ええぇぇーっとくらいに引き延ばしてみた。


「えっと、なんですか」

「ちょっと、すぐ出て来ません。すみません」

「けっこう」


 聞くより数倍重苦しい人だと感じてから、少し己の考えをわかった。


「なんか、すーごい主観的な話を聞いたので……例えば閣下も、先生から聞く話とビミョーに印象違って……んー」

「彼から聞いた話から事態を判断する気にはならないと」

「はい、そうです」


 ロード・マスレイ曰く、怪談、怖気のする話だったことを思い出した。


「ではいま、尻拭いにすぎないことを考えていかがですか」

「特にありません」

「ではなぜこのようなことを聞くか、理解できますか」

「多分、閣下が先生のことをお嫌いだから……」

「その通り。あの男と、あの事件を防ぐことの出来なかった我々は、等しく王の慈悲に生かされているだけの罪人です。到底本来生きているべきではない」

「閣下」

「なんですか」

「ひとつ、お願いをしてもいいですか」

「まずは話を聞きましょう。

 ただし二〇分以内にしなさい。出征式が始まってしまいます」

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