18. 海底区画事件①:女神グレイスの恩寵
結果から選んで善かろうほうへ進める人間なんて、僕はルーク・ヒラリオしか知らない。君もきっとそうだろう。
ごめんね。僕は弟子入りまでした君の期待に応えることは出来ない。世話焼きで世話の焼ける子がいて、そのためだけに生きてきたものだから。
この時代はリシオンさんの時代であって、王都三傑の呼称はごくせまい流行りとして消化されて、僕とスピナさんは資料集の小注釈に名だけ載るか載らないか、雑学自慢の雑学になるかならないかだろう。
今夜の話の要旨をわかってくれたかな。
残虐だけれど偏見を捨てておくれといったのは、そういうことだよ。
――ロード・マスレイが視界の正中に現れ、展開した。彼は四方に散らばって、攪拌され、夢の光景に染みていく。そしてそれそのものとなっていく。
アクラは一種類の覚悟を決めた。
『うそ、ラッキー♪ おっ、じゃまっ、しま~す』
夢中に醒めたとき、右手に温度がある。
朝日に襲われ、アクラは恐る恐る、細く目を開けた。 濃い紫の髪が上腕の腹にさら、とたれていて、気付くに足りた。
「おはよう」
ロード・マスレイ少年が、一八の彼とまったく違い、幼げな頬笑を惜しまずに、アクラの目醒めを迎えていた。
「先生」
「レシーには先生がいるの?」
「……いえ」
「いえって何さ」
一八の彼とまったく違い、笑顔を多種多様に知っていて、面白いことをはにかみ笑いするように笑ってみせる。アクラは、その他を忘れた人のような、花を愛でるのと同じ擦れた笑みを彼に返した。
「時間いっぱいだから僕、もう行くね」
「いってらっしゃい」
こうしてアクラは劇場をやり過ごした。
不明感が見回さす。四畳半ほどをベッドと机で半分占め、東に窓・西に扉・南北に高く書架が積まれている。その他のない殺風景で灯りは弱い。
『状況わかる?』
「あなたのことも含めて全然」
『ま、いったん起きちゃって』
「いいんですか?」
決まった通りに動くものだと思っていて、自分の手が上がったときアクラは口を少しぽかんとした。ぱちり、くっぱと動き、ちょうど鏡の立っているのを見つけて、ようやっと自分の姿が普段となんら変わらないのを見とめる。寝起きの髪が結ったままである。
声が肉体を生じた。
『端的に言うと、演者交代でーす』
髪を下ろした自分、しかし瞳は黄昏色に灼けている。
皿のような目で微動だにせず見た。
『おっけ?』
「……レシーラン様の立場で記憶を見て回るんですか」
『別に何でもいんじゃない?』
「いいんですか?」
『うん。これでロードの記憶が変わるとかもないでしょ』
「……それで、いまから何があるんですか」
『見に行けばいいじゃない』
ひどく主体性のない子供のようで辟易した。
『今日は新人狩人歓迎会だって』
指が鳴る。
ちょうどリビングの入り口に居た。間取りは少しも変わっていないのに、廊下の板張りの温度が異なるように感じられ、アクラはそわそわとのぞいた。
まずロード、次にクレモントを見とめた。クレモントをクレモントと判ったのは、やはりよく似ているからだった。
「お、きた。レシーラン様は」
「寝てる」
「ほい、今のうちに行きましょ」
左耳にひそり。
『昨日は大騒ぎだったの。わたしも行くー、って』
「他人事ですか」
『他人事だもーん』
「脈絡ないなぁ……」
にし、と笑う彼女は自分と滅法異なって、同じ顔であることを数秒思い出さなかった。
その彼女が、あ、と声を細くしながら指差す。それがまた耳を撫でるようで、健康に悪い。
『あれがリシオンちゃん。今も変わらず?』
「わかりますよ。ご存命です」
二人の肩を馬鹿みたいな腕力でたたき、その年齢ぶって、胆力ありげに笑う。アクラはなぜか研ぎ澄まされて、その端々に後悔と清冽な諦めを見た。雨の晴れたあと軒先から雨滴が落ちて光るありさまに似ている。
『ロードね、新人歓迎会の開場任されたのよ』
「へぇ」
『栄えあるでしょ』
「はい、まぁ」
『アクラちゃん淡白ね。望みがない人みたい』
指が鳴る。
「あれ」
まっくらなしかし見知った宴会場、いつかと寸分違わず配置された大理石のテーブル。
『そろそろね』
「あの」
『何?』
「ここ、先生の記憶ですよね」
『うん』
「先生がいないところにどうして行けるんです」
『ん、賢いっ』
自分と同じ顔の女神らしきひとは、行儀悪くテーブルに腰掛け、
『ここが集合知から成るのは、彼の本質が彼ではなくて、彼でない誰かたちの願望だからよ』
「それは答えになってるんですか」
『なってる。いつかわかる』
「……」
『少し静粛にしましょ。わたしたちの一番大事なパッセージだから』
指が鳴る。
シャンデリアがすべて灯をふきあげた。
ロードは足元に散っている、掃除残りの指先ほどの石にすら鋭敏だった。心臓の体積で肺が狭くなるような、いかんともしがたい呼吸圧迫感で背が丸くなる。とても人に見せる背でないと思ったけれど、これでは流石にしょうがないと思ったけれど、とても人に見せる背でないと思った。
これとは三百幾らかの新人、名うての王都狩人、グリーン・シュトルム、ドラム・アーガロイド・ヒラリオ、石江風流、知っている限りの人がレシーランを除き、みんながみんなで押し込めている。
「……ふう」
「ロード・マスレイ」
「はぃ」
振り向いていいか迷って振り向いた。後ろ見なんて、後悔するに決まっているとわかっていて、やはりロードは後悔した。声をかけたグリーンのみならず、無慮五百名、全員見える。見ている。
「鍵を渡します。大神の勅命で以て行われる本会ですから、この鍵もまた神器にあたることをお忘れなきよう」
そんな鍵が、しかしグリーンの両手に包んでいるのを見るとちゃちだった。山の家の鍵となんら変わらない、真鍮製、構造の粗雑な安物をもらい受ける。グリーン・シュトルムはやはり偏執だと思った。
「では」
「はい」
大門に向き直り、数十分ずっと見つめていた鍵穴についに触れた。砂利ついた冷鉄に左手を添え、震えてはいない握りこんだ右手で、挿す。この工程を彼は3年忘れない。
右門に左腕をたて、その少し右をグリーン・シュトルムが押す。
左門はドラム・アーガロイド・ヒラリオ、石江風流に同じくされる。
――押し開けながら光こぼれだすのを、衆人、瞳の輝きと共に迎える。
「ロード・マスレイ、こちらへ」
「はいっ」
かつて。
新人狩人歓迎会においてのみ、これを十二臣家の儀に代え、特上祝われた。
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