幕間

 ――ロード・マスレイ13歳の手記。

「義務と道徳を捨てたことに罰はあるか否かと問われまして、僕は、きっと心をなくす罰があるでしょうとお答えしました。

 そも、義務と道徳を捨てることは、そのままに心を捨てることですと。人に生まれつきの心などはなく、しかし人の中の場所取りに意味はつくと思うのです。側に居る人のことを思わなくなったとき、かなぐり捨てたときに、独りになった心は心でいられなくなって、喜ぶことも悲しむことも出来なくなるのです。

 憎まれっ子世に憚りますが、それは野生獣の合理を身につけるからであって、人から人へ継いでいった感動心を損なうことがそれらへの罰として下されるだろうと僕はお答えしました。


 すると母はもう一答、子供の僕のため、笑まれました。

 心なくした人は、それでふと誰かのことを思えば、心蘇ることでしょうがそれも罰です。もう心抱える腕の力がなまっていますから、痛み、また心捨てすることとなって、幾度もその捨て拾いに腕を痛められることとなるのです。

 追って仰います。左様なかたは哀れです。世には心捨てをさせる苦しみのあまりに多いものですから、この理によって、打って苦しめられたかたほど、苦しみは増やされるのです。心はそもそも捨てずとも、あまりに重くて抱えきるのが難渋なものなのです。


 そこで言いました。

 なら、もう、最初から野生であれば、よかったのではないですか。心を最初から知らなければ、誰もそんなもの育てず継がなければよかったのでは、と。

 捨てるも何も、もとより痛む形質のものであるなら。例えば何か恨む心地からして、善と悪さえ知らなければ。


 僕がこれを言ったとき、父にぶたれました。お前は正しいが、私はそれを許さないと、それは私の大事なものだと、継いできたものだと、言葉は数珠つなぎに出で来るのでした。」



 ――ロード・マスレイ17歳の手記。

「この世に一本真理の道、成熟の道、正しさの道があってそれに導かれ往くものだと思っている人間はおおかた、ルサンチマンによって未来のよいことを盲信してあるに過ぎない。そのことについて気付かないから、詰められる、堂々巡りする。

 これを、『正しいことなどないよ』と言ってみればムッとする。『いろんな考え方があるよ』と言ってみれば頭を動かさない。どれにおいても、異物を受け容れ勘案するだけの脳みそがないからである。


 自分はすべてについて間違っているかもしれないと、一度更地になることが出来たなら万人わかりあえるだろうに、悪虐を恨む心は悪虐のの善をわかることにより安らぐだろうにと、幾千考えて、しかし達し得ないことかと思う。」


 18歳の彼が読み比べるに思うことは、どちらも極端なことだと、何も以降思わなかった。もう手記は続けていない。




 もう驚きがたくなるほど、時が過ぎていた。今や空は雲1割の蒼穹を啓き、決して怪談をする時間帯ではない。

 アクラは仰ぎ見、首をめいっぱい伸ばしながら、それが所謂「吸い込まれるような」の所以だと思って、感慨生じ、隣に居る彼のことを思わなかった。


「考え事があるかい」

「なくなりました」

「これからどうしようか」

「流石に続きを聞きたいんですけど」

「それはよかった。僕も僕で、君に話さねばならないから」


 ロードはふと微妙を感知して、アクラの右手に手を差し伸べた。アクラは少し懐かしんで、手を取った。


「きっと君が今一番会いたい人が来る」


 森の土の薫り。


「おはよう、アクラ。元気にしていたかしら」

「グレイス様」


 現れたも何も、ずっとそこに居たかのように彼女は生じた。居たも、生じたも何も、をする者ですらないとも。

 ただアクラには、彼女の金冠と黒髪が朝露に光る様と、土汚れひとつない土赤色の着物、森林の最奥でなお貴人らしい足取りが、あらゆる日々の想起の契機になった。


「聞きたいことがたくさんあるでしょう」

「はい」

「私もたくさん、お話があります。けれど今はいらっしゃい」


 ふと胸に呑まれていた。

 同時に、例のトウカの揺り籠のような温度の正体に勘付く。一時は羊水かと思ったけれど、見当違いは打破された。


「グレイス様……」

「ロード・マスレイ。すりあわせをしましょう」

「そうですね。僕も僕とあなたの関係性をはっきりさせたい」


 アクラは、いけないと思った。子供のように無我で抱きしめられて、その間に話が進んでいるなんて、いつかの回想じみている。

 けれど、押し離すことがためらわれて、死のように胸の中が安らかなあまり、一晩ぶんの睡魔がそこに雪崩れ込んだ。


「さて」

「起こしてはいけませんよ。こんなに可愛い寝顔なんですから」






『君に恨めしいところはあるかい』


 先生? ここはどこですか。


『君の質問にまず答えようか。此れは夢で、此れは嘘だ』


 すみません、すぐ起きます。


『そのままでいいよ』


 この夢はなんですか。


『女神グレイスが手を出してくれている。あとのことはここで話そう』


 ……わかりました。


『それで、君に恨めしいところはないの』


 何のことですか。


『僕に対する恨みのこと。ひとから事情を聞いたろう』


 はい。


『それで?』


 恨みなら、一時はありました。でももうありません。

 ルークにはあれが一番だったんですよね。


『それは僕の想像の限りで保証するよ』


 ありがとうございます。


『しかし君にとってはどうなの』


 考えてませんでした。


『いつかリシオンさんに言われたことを思い出した。「人それぞれの中でお前はどれをやるんだ。やるもやらないも何もかも自由で、お前はどうするんだ」と、君の丸く収まった目を見るといやに思い出す』


 私は私の期待を押し付けたくないです。

 人の選択を奪う選択もあっても、どうにも。


『その選択をしていないときなんてないとしても?』


 考えてませんでした。


『考えないようにしていたね。あるいは、考えていたけれど、弾いたね』


 どうしたらいいんですか。


『人の体内時計は25時間に設定されている。それを太陽光で引き戻すんだ』


 何の話ですか。


『人間の生存のために生じた摂理なんてどこにもないということさ。だから、どうにもならないことはどうにもならないままだよ。……努力してみてもいいけれど、不可能には数学的証明が付することもある』


 何となく、何にもならない話だってことだけわかりました。

 ……何でこんな話するんですか?


『僕の弟子入りの一件で、君が想起したかなと思ったんだ』


 あぁ。


『さて』


 はい。


『本題の前に二つ持論を述べよう。

 ひとつ、子供に夢を与え続けるということは、ほとんどの確率でその途絶を用意するということだ。細る道と押し寄せる他の人たちのことを見させないようにして、踏み外し転げ落ちた後のことに知らんぷりをすることだ。

「それでも君1人だけはその先に行けるかもしれないから」と夢を見せる、これは1個の極悪と言える。それならば、いずれ来たる苦しみの一つ一つ、生老病死のことわりの前に膝をつくよう説いたほうがいい。

 ……それでも、その夢に目を輝かせたのは子供だ。好きになって選んだのはその子供だ。だから説かれたことを恨んではならない。 感謝して、道を外れた以後、その外を歩くのが妥当だ』


 何があったんですか。


『まさにその話だよ』


 それで。


『ふたつ、偏見を捨てろ・価値観を捨てろというのは暴力そのものだ。柔軟に変えろ、というのもそれと大差ない。何せ、後生大事に保ってきた世界観をよそ者がどうこう言うんだから。その形を捨て・自我を薄め・大気に馴染み死に往けという暴力だ』


 極端ですよ。それで痛い目見るのは自分じゃないですか。


『では、この所謂「努力」がそれを解決してくれるのかい?』


 ……。


『きっと解決するだろう。しかし別の苦しみが生じるだけだ。人に馴染まないなら馴染まないなりの苦しみが、馴染むなら馴染むなりの苦しみがやはり生じる。ならば今ある大事をそのまま大事にする考えも悪くはない。

 そうだね……殻にこもるという表現がよくない。頑固とか偏屈もよくない。それが不都合で不愉快であるという感情的理由を、非論理的だとか感情的だとか、後付けの理由で批判して悪そうな単語を貼り付けているだけだ』


 ……何の話でしたっけ。


『悪いね。これでやっと前提が終わった。

 本題に入ろう、海底区画事件を起こしたのは僕だよ』

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