13. 彼誰問い①:背

 3月31日、師弟制試験前日、朝の洗面台前でのこと。

 気と息を深く納めて抜刀した。


「白磁ざ」

「アクティベート、星斬りの剣スターディゼクト


 リシオンは後ろ手に受けた。そのうえ空いた右手に欠伸をおとし、毛の荒れてきた歯ブラシを軽く投げ上げ取る。片手で器用に歯磨き粉を乗せる、その右手が彼の利き手であって、しかし鍔迫り合いは粒ひとつぶんも揺れなかった。


「……鏡に」

「映ってない」

「足音ですか」

「いや完璧」


 恋々とせず押し合い離れる、するとリシオンは剣を納めた、しかしスピナは「まだ」と気の糸と背、首筋を張りつめた。剣先を向け、正対しているのと同様の分厚い気構えにする。


 そのちょうどにリシオンが振り向いてきた。


「俺が今日から忙しいの知ってるだろ? スピナちゃんは学べるいい子だからな、今しか来んだろうなぁと思うワケよ」


 スピナ、力む。

 文句を言いたい気分になったけれど、相手は歯磨きしていた。


「白磁突」


 彼女は彼に斬り込む毎度、必ず殺す気でいる。


「よいしょっ」


 しかし今日の場合なら、リシオンはクルと横に避けて剣身を掴む。


 スピナも抗ってみるけれど一厘も動かない。彼はまだ利き手で歯を磨いている。その上ついに剣をほうらせて、特段武器もないからと素手のまま、彼女の白い首を包んで親指を喉にあてた。立ち姿は弓引く姿に似ている。


「おっけ?」

「……はい」


 かたい指だとスピナは思った。


「……リシオンさん、明日」

「しっかし綺麗な肌してんな」


 肺と心臓が弾んだ。当たっていた親指のため、喉の上がるのがよくわかった。


「あっやべ、セクハラ?」

「いえ」

「ホントに大丈夫?」

「大丈夫です」


 互いにひと息ついて一歩ずつ離れてからスピナは、胸骨・鎖骨の繋がるところに残る冷感を撫でた。その手仕草・目仕草を目撃したリシオン、そのことに気付いたスピナ、共々視線を斜め下へやる。


 ときに、端から「あの」と不安定な声があった。


 狩人の速度で見向くに、レシーは悪党の顔で、ロードはもじつく有様で、壁から半身出して二人の対面を鑑賞していた。


「も、もう、いいですか」

「ぁ」

「ロード、あれ今度わたしにもやって」

「やらないよあんな……あんなこと!」

「ロード、ダメよ。なんて言っちゃ」

「だってあんな……」

「あんな、何?」

「口では言えないよ……!」


 リシオンは頭を抱え、下向き、スピナはといえば、もう三人の方を向いていなかった。一人、レシーだけ笑い転げ、壁をバンバンうるさく叩いて、これやよしこれやよしをしている。


「……でも、やっぱり、何だろうな」


 けれど丁寧に両手で覆った顔を、ロードはほのかに開き、微かに快く笑んだ。


「やっぱり何?」

「ロード君勘弁してくれ」

「いえ、あの」


 言い籠もり、しかし肺に息を込めるひと間、顔をはっきりとした。


「リシオンさんは格好いいなと思ったんですよ」


 リシオンは気抜けた。丸い目のまま珍しく額を掻いてから、口を覆って沈着に、何事か考察している。すぐ手は腰に添えられて、目は天を仰がされ、息はより抜けていく。ロードのほうが丸い目にされて、言葉を待った。


 果たして、大きな手がロードの前頭に被さった。


「君はちと一面を見過ぎだな。ま、意気込みは結構」


 ちょうどこの時リシオンのポケットが鳴った。


「お……悪い、電話」

「それ」

「スマホ持ってないもんなぁ、お前。今度買えよ……はいリシオンです」


 その液晶を垣間見、『バーバラ事務局』とあったのでロードは仰天した。唾を呑むというけれど、あれは心拍を押し返しているのだと思いもする。


「リシオンさんっ、それっ」

「ん? ……あーごめんね、ちょっと護衛対象君が……なんでぃ」

「あの、それ」

「はよ言え。待たせてる」

「すみません、その……もしかして」

「……」

「僕、試験申請の書類、書き間違えたとかですかっ……!?」


 リシオンは五拍だけ猶予をやった。


「人のスマホの画面を勝手に見るな」

「は、はいっ。それで」

「だいいち、ソレだったらお前に直接連絡が来るだろ。手紙でも何でも」

「あ……そうですよね、よかっ」

「ほれみろ、結局自分のことしか考えとらんのだ。今電話相手待たせてるんだからな」

「すみません」

「あのな、いちいちソワソワすんな。試験までそれで保つのか」

「……」

「チラッチラ、チラッチラしやがって。試験前日で緊張するだの、偉いヤツに呼び出されて緊張するだの、命のやり取りする狩人の心構えがそれか?」

「はい……偉い人?」

「『はい』だ? 返事がかけた言葉に噛み合ってねーよ。『はい』を便利に使いすぎるな」

「はい……それで、その偉」

「もういい。

 これだけ覚えろ、今から面会する連中は一種のバケモンだ。無駄口叩いてっと、魂ごと悟られるぞ」




『召喚状を読み上げます。

 リシオン、スピナ・アリス、及び護衛対象二名の計四名を緊急面会(於ガルターナ事務局一号バーバラ事務局応接間)に召喚する。本令は神典の下、十二臣家特権により、事務局強制招集権を発動するものである。

 文責、十二臣家統括、石江家当主、石江風流。以上です』


 と、書状を読み上げる女性の声は心を失くしていた。




 王都事務局はバーバラに珍しい低層建築で、正方形の大理石詰めであるから、逸脱感と高級感によって悪徳感のなきにしもあらず。踏み入ると小綺麗で、しかし、悪人顔は適当に散見される。レシーはフードをより目深にした。


「はいどうも。被召喚者代表、リシオンです」

「事務局、立会人、リリ・アラマシです……はい」

「何があったの。言ってみ」


 曰く。


「私何も知らないんですでも局長が君行けって言うから行ったんです私悪いことしてないのに行ったんです偉い人って何であんなに怖いんですか局長もあの人たちもみんな嫌です仕事辞めていいですか私もうさんじゅ」

「深呼吸、深呼吸して。大体わかったから、もういい」

「……リシオンさん、ほんと、好きです」

「へいへい、俺もリリちゃんのこと好きだよ」

「じゃあいいんですか、リシオンさん……」

「ん?」

「でもこんな……ショタまでついて……」

「ショタって言うな」


 小さな彼女は彼の胸に埋まってしまって、四人立ち往生した。泣く人は捨てて往けなかった。スピナはリシオンの横に寄り、「リリちゃん大丈夫」と、それより一言も発さず長々つむじを撫でる。


「……リシオンさん」

「おん?」


 リリはリシオンを黒々とした瞳で見た。


「自分で幸せって言えれば、ひとりで、それでいいって思ってたんです」

「……やめとけ」

「幼稚でした……それがどれだけ心を使うことか、ほんとうに、ほんとうに、想像もしなかったんです……普通の幸せというやつに、半端な反抗期をした日々は、ぜんぶ、ぜんぶ……!」

「やめとけッ……!」

「全部、なんなんですか?」

「ロード。だめ」

「あ、ほんともう、別にいいですから……終わったことですから……」


 惜しげに俯き無気力に、カウンター裏の鍵をまさぐり、背後の扉にのったり挿す。背に哀愁の宿る年頃、バインダーを抱える手はだれてしまって、していない嘆息が目に聞こえ、「どうぞ」を言う声に乾きが乗る。どうかこうか営業スマイルというものは残した。


「いきましょぅ」

「おう……」



 の、三秒の後、急然と気合を変えたリシオンの背。ロードは一瞬だけ重心をぐらつかせた。



 背が大きく見えた。ロードには常に大きく見えるものなので、いまは巨塔のごとく、黒々と濃い影に覆われている心地がした。

 完璧な壁の表面に不出来な凹凸などなく、登っていくには高い。大神殿なるバーバラビルのように、歪みなく天を衝く白一色の塔だった。


 その彼が、魂を悟られる、どうこう言う。


 ロードは怯えた。そのとき、かつて怯えたもの、黒より闇に近いものを従える邪神を思い返して無い唾を呑んだ。


「リリちゃん」


 と、重そうな扉の前に彼は立ち止まった。


「はい?」

「ごめんな。俺は少し無礼をするかもしらん」

「はい?」


 リリが凍てついたとき、押し開ける。


「失礼します。リシオン、スピナ・アリス、護衛対象二名、ただいま参上致しました」

おう

「よろしい」


 正しい声が聞こえた。ロードの脳漿はそんな意味不明の文字列を吐き、瞠目止まず、戸の開くのを心持ち制止しようとした。実行には移されなかったけれど、腕の力みが確かに残り、力みは追って震えに移ろう。


 かの邪神との邂逅から半年。怯えて震えることのメカニズムを思い出したとき、その二人を見た。


「シュトルム家当主、上役会議副代表、グリーン・シュトルムです」

「ガルターナ十二臣家統括、石江家当主、石江風流である。御足労、衷心より感謝する」


 不健康げな痩身の男、グリーン・シュトルムはしかし巨大な法典・大神典ゴッド・ノウズを抱えたまま恭しく立礼した。背筋は完璧に真っ直ぐ立っていて、険しくかたく結ばれた口びると、発する怜悧な言葉が彼の第一印象を瞬間的に決定づけた。

 翻って石江風流は2mを越す筋骨隆々の大男で、怒髪天を衝くの頭、ランランと猛獣の牙が生えているような錯覚をさせる。ほとんど阿修羅と同じもので、千人串の石江風流の呼び名通りである。


 ロードは危うく、舌の端っこを奥歯で噛むところだった。


「被召喚者代表、リシオンです」

「スピナ・アリスです」

「ロード、マスレイです」

「レシーランですヨロシクー」


 彼らは応じ、一礼を返しながら胆力を隠さなかった。

 各人卓を挟んでソファに座る、リリはその中間に棒立ちし、帰りたさを吐かぬよう唇を巻き込む。


 トリアエズオ茶デモドウゾと垂れ流し、卓上にひとつ既においてある茶皿ソーサーを中指爪で弾いた。術のかかった部屋は応じて手品のごとく、六人ぶんのレモンティーを置いた。

 本当ならそれは、ロードの好奇心を惹いてしかるべき設備だったけれど、このとき心に遊びはなかった。


「で」


 リシオンが皮切るので、ロードは安心をした。


 この人はしゃんとした人である。野良狩人であるというのに、様々な知識や礼儀作法によくよく通じていらっしゃる。それも無造作に整っている、自然に礼に沿っているといった本物具合があって。正式のそれを外れてもなお、むしろ、正式より正式らしいことすらあるのだ。

 と、ロードはまったく心服してしまって、呑気な心地になり、大好きなレモンティーに手を付けようとしたところ。


「十二臣家当主お二人、揃いも揃って何のご用です? 俺滅茶苦茶忙しいんで、巻きでお願いします」


 大気がずれるような感覚にみな、視線を引き摺りあげられた。


「リシオンさんっ!」

「リシオン! あなたは十二臣家を何だと」

「要らん」

「風流閣下!」


 風流はリシオンの不機嫌、リリの焦燥、グリーンの義憤をしかし、発情期の猫の呻いた程度に見て、立とうとするグリーンを豪腕で制する。

 彼の瞳は見えない、というのも、気迫が燐光のごとくなって白目のようである。けれどその両眼はまずスピナを捉え、リシオンに流れてから、口角は豪胆につり上がった。


「だぁ。しゃっきとするのはヤメだ、ヤメ」

「風流閣下……」


 印象が翻るのでロードは唖然とした。


 両頬に張り手、片肘を片膝につき笑うその姿で、心持ち・居住まいがまったくプライベートになってしまったのがわかった。鬼神は気のいい兄貴分のようになってしまって、その転換力はなるほど、統治者だった。


「慎んで下さい。女神の御前です」

「ちょっち赦してくれや、ケンカは大事ッ。……おいン」


 ロードは何も言えなくなっていた。


「坊ンとは俺のことですか」

「むろんだ餓鬼タレ。俺の女をキズモンにしてくれやがった、あの件忘れちゃおらんだろうな」

「えぇ、まあ」


 リシオンの指が微かに揺れ、揺れたカップからほんの一滴こぼれた。


顔疵かおきずひとつで喚かれちゃ、下々のモンはやっとられんのですがね……それとも、閣下の奥様は顔疵ひとつでになる程度の方でしたか」

「あァ?」


 スピナはもちろんのこと、レシーすら物を言わなくなった。リシオンだけ、ほくそ笑み出す。


「そういうことなら、確かに。まったく申し訳」

「ンなわけあるか!! ……ヘンッ、軽ィ軽ィ。近頃の餓鬼の『好き』は軽ィわ、焼け溶けた鉄みてェな愛を知らん」

「ッ」


 しかしまたも指は揺れた。


「……痴呆症が」

「ンだと?」

「ああ、お気づきでない」

「……何のことだ」

「ま、そんなモンなんですよ。あんた」


 リリの宙に迷う手を、誰も見なかった。


 両者腕組みして、ソファに深々もたれ視線をずらさず。風流はケモノが牙をむき出すように笑み、リシオンは冷たさをはらんだ。

 ロードがレモンティーに手を付けない。その間にグリーンが飲み干し、リリにもう一杯頼む数秒以外、光景が固着されていた。


 そこに手拍子ひとつ。


「で、今日は何の用だったのよ」


 停滞を裂くひとは退屈げにしていて、グリーンは背筋を常時以上に伸ばした。


「失礼致しました。このたびは、賓客たるお二人の」

「いいから。わたしとロードに会いに来たの?」

「はい、その通りです。本来は半年前、即座に参上すべきところ、誠に申し訳なく」

「かたい。かー、たー、いーっ」

「……失礼致しました」

「変わった人ね」


 と、持たせた。

 けれどリシオンは我慢をやめて立った。


「オヤッ。護衛のオシゴトじゃあねぇのか」

「もともと今日はやることがあって離れる予定だったんですよ。スピナちゃん頼むぞー」

「ぁ」


 背中だけなので何も悟らせない、というわけではない。スピナは細い手を三寸持ち上げ気持ち縋った、けれど後ろ手を振る彼に物を言いがたかった。彼はポケットに手まで突っ込んで、去って行く男の背中を作り込んでいる。


 スピナは少し食いしばって気張った。


「リシオンさん、明日」

「ロード」

「あぁはいっ」

「23時、王都西方の森広場だ。寝こけて遅れんなよ」

「はいっ、頑張ります」


 改めて手を振られては、引き止められないと勝手に思った。


「……ふぃー。バカが帰ったわ」


 両腕を広く背もたれにかけ、天井を呆け見る風流の姿、その脱力が未だロードの目に馴染まなかった。その、裏切りを賞味した気分に没入していて、彼の首がごろと自分の方を向いたとき肩が跳ねた。


「ロード・マスレイよぉ」

「ハイ」

「おまえェ、まさかアレの試験を受けるのか」

「はい、そうです」

「なにゆえだ」

「えっと、憧れっていうか」

「ウッソだろ。半年暮らして、アレに? 馬鹿垂れかァおまえ」


 嘲笑にも心が動かなかった。


「風流閣下」

「ん」

「そろそろ姿勢を正されてはいかがですか。女神の御前ですよ」

「やぁだ」

「閣下」

「ホントいいわよ別に。そういう人だって思うだけだもの」

「見たなグリーン。付き合いとはこうしてやるのだ」

「……あなたの思考法は非人間が過ぎます。野性がそのまま理性として働く魔人のようではないですか」

「魔人か! いいなッ強そうだ!」


 豪腕で背を打たれるグリーン、しかし強い背筋は揺らがなかった。ひどい張り手であったけれど、慣れきっている。


 こののち両者、揃ってレモンティーを一服し、場の居住まいがもとにかえった。


「ンでよ、」


 前のめりになれば彼の上体は、遠くともロードにとって障子の裏ほど近く思われ、額汗を額で拭われる心地を催した。鬼気ぶんの膨張だった。スピナは剣のほうに手をやるけれど、端っこのリリのような泥塊が首を振るので治めた。


「なん、でしょう」

「あれの何がいい。言うてみろ」

「強いひとだと、思いました」

「強い。強いか」

「一度守っていただいたとき、すごくて」

「一度きりか」


 レシーは隣の彼の手を握ってみた。


「僕は、見たんですよ。たった一度見ただけでも分かるもの、だと思います」


 看取していたその男は、鼻を鳴らし笑い飛ばした。


飛鳥あすかの背の見えぬの如くよな」


 その背後でリリが急ぎ、急ごしらえの洋菓子を持ち来した。受け渡して去る局員にほそい目を向けてから。

 そのことも看取して風流は、「ご苦労」を言って皿を見やるに、ロールケーキだったので爛々とした。


「おぉロールケーキ!」

「閣下がお好みだと聞いておりましたので」

「ショコラか」

「はい、ショコラです」

「ショコラか!」


 喜色は素直に、皿を置かれるより先に手ずから受け取ってしまって、機嫌のまま配膳などし、へっへへと笑うも姿勢を正す。曰く。


「父よ、あなたのいつくしみに感謝して、この食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてください。わたしたちの主、イエス・キリストによって。アーメン」


 グリーンは舌打ちし、卓を拳で打った。


「私が何度、あなたに改宗を求めたか覚えていますか!」

「知らん」


 こぼれたレモンティーを拭かねばならない。リリは恐る恐るふきんを取って手を伸ばした。これをスピナは取って、目配せで退かせ、以下の紛糾を眺め聞く。


「分かっていますか、あなたのやったことは」

「いいだろぅ? 近頃はあれだ、宗教の自由だ」

「ガルターナ神典にそのような記述はないッ!」

「たぁくもー、神典原理主義者とは会話が出来ん」

「あれこそ唯一普遍の真実だからです!」

「ヘイヘイ……でもだってよお、俺の最ッ高の嫁がどうしてもって言うんだぜー」

「ガルターナ十二臣家統括たる石江当主が大神アルゴル以外の神を信じる無礼、その弁明がそれで済むとでも!?」

「まぁ済まんなぁ。石江マジ荒れたもん」

「ならばそれを」


 議論など彼は手で制す。グリーンが物を言うときに、彼はただ手の平を肩に添えた。


「……この話はまだ、続きますよ」

「応々、いつかな」


 彼の洗礼名はへスース。へスース石江風流という。その懐に銀に十字架の光る。


「父よ、感謝のうちにこの食事を終わります。あなたのいつくしみを忘れず、すべての人の幸せを祈りながら。わたしたちの主、イエス・キリストによって。アーメン」


 食後の祈りに重なって、粗雑な音とともに戸が押し開けられる。


 もうひとり、武人があらわれた。背に大剣をはすに負う、灰黄ベージュ襤褸外套ボロマントの男、瞳も髪もまた灰黄にヒヤリと光り、口ひげが濃いのでなければ7、8は若く見える。


「遅くなった」


 姿に反して低く落ち着いた、優雅な声音をしている。


「うわばっちぃ」

「三家の揃う場です。急ぎ、清らかな衣服に替えてきて下さい」

「替えがない。すまない」

「まぁた遠征か」

「リリ・アラマシ、すぐに将軍のお着替えを」

「えとハイ……将軍!?」

「如何にも、ヒラリオ家当主、ドラム・アーガロイド・ヒラリオ征南将軍である」


 瞳が向いてくるとリリは逃げ出した。帰ってくるか分からないとロードは思った。


 ドラムという男の伝説を、辺境の少年すら幾らでも知っていた。世界の果てへの遠征において、前線部隊中、リシオンと二人生き残った武将であり、ルーク・ヒラリオの誕生までは黄金銀河、スピナ・アリスの誕生までは白金銀河の瞳も宿していた御仁である。


「リシオン先輩はどうされた」

「出てったけど……先輩?」

「レシーラン様、将軍は三八なのですよ。リシオンからふたつ下にあたります」

「あーゴメン」

「……お構いなく」


 将軍は以降、物を言わない。言わないままソファに掛け、統括たる風流が中央になるようにした。

 また、物を言わないことでロードはスピナを思い出した。見れば未だ凜として黙っている。彼と彼女とは視線の錯綜すらさせなかったのでかえって見つめ合っているようなものだった。


「将軍、替え着です、替え着を持って参りました。お着替えはあちらで……」

「外して構わないか」

「ダイジョーブだって。政治でも何でもむつかしいこたぜぇんぶ、この、緑のぼンやがなんとかしてくれるからよッ」

「っ……妻枝夫人に政治手腕がおありで、本当によかった」

「だろォ? 妻枝マジいい妻」

「助かっている」

「……ええ」


 この立ち上がるとき、ドラムの視線が落ちるのをスピナは目ざとくとらえた。けれど彼の注視はレシーの方を向いて、


「……何?」

「知人に似ていたもので」

「そんなに可愛い子なの?」


 寡黙のまま頷きだけ返し、一度としてスピナを捕まえない。


「将軍」


 スピナから口を開いた。


「如何された」

「……」

「……失礼」

「あの!」


 ロードが気まぐれな勇気を起こすけれど、


「えっと……御子息の三連覇、おめでとう、ございます」

「知らなかった。ありがとう」


 彼は闊歩していった。




 ロードは山の家に帰ってからも、森の広場へ向かいながらも、迷妄に耽った。英傑リシオンの正体とスピナ・アリスの過去、石江風流の小説教、よくわからない将軍の在り方。いま彼は、もはや、グリーン・シュトルム閣下すら無法人ではないかと考えた。

 不正解感、不足感が痰のごとく喉元に掛かって、思考展開を滞らせ、きっと五感を鈍らせていた。ベッドに押し付けられた紫色の髪に、若干がつく。


「403番、ロード・マスレイ……んんっ。ロード・マ」

「はいっ」


 リシオンは資料を持った手で、小指だけ使って後頭を掻いた。


 一人も笑うことはないけれど、ロードの瞳は攪乱されてしまって、同輩たちがどんな顔をしているか確かめた。もう誰もチラとも見ていない。ロードが見るより前に、彼らはちらつきを終えてしまって、深呼吸に時間をかけていた。


 どこもかしこも誰を見ても、己に無理に硬直をさせて、目だけはリシオンが物を言う方に向けていた。

 ロードは呑まれる気がしてしまって、強いて視線を逸らした。


「資料確認。

 ひとつ、開始は明日0時、各自で確かめること。

 ふたつ、制限時間は5時間。明日5時までな。

 みっつ、合格は制限時間内に『条件』を満たした三名、以上」


 森広場を囲む森の隙間から、春ながら、川水のように冷える風が吹いた。各人力むだけ背筋がギシッと震え、顎を力ませた。

 夜分、木々の奥の方は月明かりもない。広場にそれが注ぐだけ森の方は見晴らしがたくなる。斥候スカウト好みの太い枝の入り組みようだけはわかった。


「で、『条件』ってのが」


 それを言ってから、リシオンは資料を畳んだ。


「鬼ごっこだ」


 と、リシオンが手を合わせたとき、ポケットの中なりローブの中なり手元なり、立ち並ぶ彼らの資料が火を発した。熱はない、けれど魔力の光は小たまげるほど発散されて空中に散った。焦茶はリシオンのそれである。


 この光がみな、それぞれ、それぞれの掌に焼き付いた。


「それを俺に付着させたら合格。衣服でも可。改めて、以上!」


 直後、彼は跳躍して森へ消えた。


 みな放り捨てられたような気分になった。


「時刻、23時20分」

「40分あるのか……」


 ロードはこの手の確認をするより先に、例の暗くかたい思考を再開した。フードを深々と被ったレシーが寄り来てもなお、少し首を前に傾け、風流の破天荒で喉元を濁らせた。

 レシーが例の馬車事件のごとく、トリッキースマイルで見ていることに気が向かない。


「ろー、どー」

「なに?」

「……」

「そっか、言いたいことがあるのは僕なんだね」


 フードの隙間に両手をさしいれて、形のいい彼女の頭を撫でた。その手を頬にすべらし包み、ロードは額を額に寄せ下ろした。彼女の額は夜に冷やされた額だった。


「レシー、僕、まったくわからない」

「不安?」

「不安だよ。風流さんがわからない。ドラム将軍もスピナさんも、リシオンさんも、みんな、何だか知らないところばっかりだ」

「自分じゃないからね」

「第一印象っていうのはどれだけあてにならないんだろう」

「誘蛾灯みたいなものよ」

「誘蛾灯?」

「見える所なんて見せかけってこと」

「飛鳥の背の見えぬのように?」

「気にしてるの」

「すごく……だってあの人わけわかんないよ。破天荒っぽくて、でもしっかりしてて、でも破天荒で、名前があずま字なのに洋菓子大好きで、しかも切支丹キリシタンで……ちぐはぐだ」

「現象はイデアになり得ないのよ」

「難しいこと言うね」

「わたし物知りなの」


 息の収まったのを感じてから、夜闇に睦みの紛れたのを確かめ、森へ背筋を正した。


「レシー、月だ」

「綺麗って言うの?」

「言わない。こっぱずかしいよ」


 その光明にともない、影がひょうとする。


「……あれ?」

「おやおや? どうしたのですかロード君」

「レシーこそその口調は何」

「いーえー♪」


 ロード・マスレイは生粋の田舎者である。時計は村広場に遅れているものが一個しかない。父は彼に日時計・月時計の見方を教え、「あんなもの基準にするな」と返す返す説教した。

 ロードはよくよく、細かく、時刻がわかる。


「時計、いま何時?」

「23時25分ね」

「本当に?」

「うん、時計は」

「……読み違えてない?」


 これを聞いたる学生数名が、自分の時計に「破幻」なり「ディスペル」なり言った。


「……レシー」

「ね、見えるところは見せかけでしょ」

「リシオンさん……!!」


 時刻は0時46分。

 学生五百余名、狡っりィィと吠え重なった。

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