06. 彼の始まり①:燦然と輝く呪い

 黄昏の逆再生をするように空色は迷って、遠大に移ろい、幾つもヒビ割れた鏡面大地が塩湖のごとく映した。

 山際からじりと昇る陽、吹き下ろす朝の風、照らされるリシオンは影と輪郭だけになって黒く果てなくなる。


 数個の記憶がロード・マスレイの中で弾けた。おおかた父の怒声でありリシオンのぼやきと叱責が入り交じりレシーの奔放も併せ呑んで、彼の脳を蕩かす。

 厳格・陶酔・興奮・苦渋感、マルカ湖に身を投げたあの日とよく似ている。彼は夢・正義・王道・一流・頂点を見た。万人の夢をその具現・実体として直視したのである。


 彼にとってその光景こそが最も眩しく、永劫瞼に焼き付くものだった。




 サテそんな英雄が一刻も経てば、


「申し訳ございませんでした」


 腰九十度、低頭にして、ただの社会人だった。


「どうか頭を上げて下さい。ね、リシオン様」


 宿屋の主人は上品な人間で、土赤色の着物がよく似合う、自然体のまま人当たりのよい女性だった。


 例えばちょうど子供たちが意気いっぱいに駆け寄ってくるけれど、そこで彼女が「お客様よ」となだらかに宥める。すると子供たちは不機嫌も聞き流しもせず、「はい」と素直に明瞭に応える、これは子ら自らの知徳もあるところだが、それよりいっそう彼女の佇まい様に依る。


「すみません、元気ばっかりが取り柄の子たちで」


 頬に手を添え首傾けて、茎の長い花のような立ち姿だった。


「いえ。子供がああであってこそ、狩人のやりがいがあるってモンです」


 リシオンはこの品性のひとに、どうにか傲慢をせぬよう気を付け、しかし一方で萎縮こそが最も非礼であることを知っていたから笑った。


「これからもどうか、よろしくお願い致します」

「勿論です。それで、割った窓と、にした芝の件ですが」

「王都から保証金を頂けますから、ご心配には及びませんよ」

「しかし、どなたもお怪我なさっていませんか」

「はい。皆様の貸し切りで、私と子供たちはちょうど離れにいましたから」

「それは安心しました」


 ロードにはこの手の大人のやり取りが、先刻からの気分も相まってひどく美しい物事に思えた。道理、筋道の真っ直ぐ通ったものは、その研鑽を即刻彷彿とさせるのでひどく沁み入る。


「おはよーぅ! 何か色々大変だったみたいねー!」


 と、元気な女神の一声があった。


「あら、おはようございます」

「おはよう、レシー」

「どうも、おはようございます」


 うむうむ、などと威厳十分のフリをする。また、寄ってくる男児二人には打って変わって明朗な破顔を向けた。

 見ればその肌の白いこと、釉薬ゆうやくのきいた白皿の艶めきに似て、深黒い髪のさららかなこと、浅い清流のやわ波ほど滞りがない。彼女は窓から差し込む朝日によく映え、きっとこの時間帯が最良である。烈しい陽よりも水気のある光の似合う様、ロードはレシーのそういう有り様にも惚けきった。


 こんなとき、


「……おはよう、ございます」


 遅れて応えるので、スピナはかえって目立ち、レシーの注目を浴びた。


「……」

「……」

「ねぇねぇ女将さんっ」

「如何なさいましたか?」

「お風呂って今、入れる?」

「はい、ご用意しております」


 ここから少しの間に、まずリシオンと女将が「定刻外なのにすみません」「いえ、皆様お疲れでしょうから」と大人の会話をひとつした。スピナとレシーは虎とウサギじみた見つめあいをし、そしてロードがその脇で置いて行かれる次第。


 最後にレシーの口角が上がれば、スピナは縮こまった。


「駄目じゃない、女の子が埃だらけじゃ」




「すみませんね、マスレイさん」

「いえ」


 ロードはとかく盛り上がっていて、「風呂の間は俺一人で見張ってますんで」と寂しいことを言うリシオンに真っ向から反対した。そのうえ「護衛対象はなるたけ近い方がいいでしょう」どうこう、もっともな理屈を付与し、結局今の如く、男湯・女湯ノレンの間で隣り合い、立ち待ちすることとなった。

 リシオンは毒気を抜かれた。年長者に上手いこと気を遣う子供、とても嫌な気にはならず、また後頭を掻かねばならなかった。


「それと、あの」

「はい?」

「僕に敬語を使わなくても大丈夫ですよ」

「……そうかい、じゃあロード君な」

「はい」


 笑う横顔はかなりの端正である。リシオンは心持ちだけ一歩退いた。

 けれど一瞬だけ直後に、その作りものげなる風体に気付き目を留めなおした。


「ロード君や」

「はい」

「……ひどく当たって悪かった」

「いえ」

「それと」

「はい」

「あんまり綺麗でいようとするとな、いつか頭がおかしくなるぞ」

「エ?」


 このキョトン顔の大仰なこと、まるで脚本通りに演じるようだった。


「女子出まーす!」


 ちょうど間のいい女神の陽気な宣言があった。ノレンの向こうから、湯が湯船を溢れ打つ水音、さらに先刻の元気ッ子じみた足音で床が揺れる。


「無能感ってやつか」

「何ですか、それ」

「あとは穀潰しの心持ちかね」

「ロー、ドっ!」

「うわはやッ」


 駆け来た女神は少し濡れ髪のまま、ロードの前に素早く回り込んで花々しく笑いかけた。


 そこに彼の作りもの顔である。


「……ロード?」

「どうしたの?」

「ううん。ロードが、どうしたの?」

「どうして?」

「……分かんないか」


 この不意をついてレシーの後ろを回る影がひとつ。すぐリシオンの背に張りついた。


「スピナちゃん? どうしたの」


 背丈が半分に見えるほど縮こまってしまって、彼の剣豪とは思えぬ有様、相対するちびのレシーの方がかえって大きく見えた。指先をタコのようにうねうね、悪人笑いが実に巧い。


「助けて、ください」

「レシーラン様、何したんですか」

「ちょっとわからせ……遊んだのよっ♪」

「レシー、何をしたの……?」


 リシオンは嘆息をひとつし、『厄介事は小さく丸く』とて、「風呂行くぞ」とロードの襟を掴んだ。声にならない悲鳴をあげるスピナのことは、この上ない無情で置いていった。




「……すごい」

「そうか、風呂は初めてか」

「はい。これがシャンプーってやつなんですね」

「そりゃリンスだよ」


 エ、と呆けるロードの顔が今度は根っこからの呆けで、リシオンはほくそ笑むくらいに笑った。

 けれどロードの方は随分と焦って、よく見たらラベルが違いますねアハハなどと、早口気味に阿呆を誤魔化し始めた。リシオンの笑みが今度は疲れた。


「ロード君」

「はいっ」

「背中流すから、小話でもしようや」

「背中、流す……?」

「洗うんだよ。まずはかけ湯」


 しばらく、ロードはずっと「わぁ」「うお」「えぇっ」ばかりで、文明の利器にポカンする彼の有様がリシオンには面白かった。王都北方山脈の壁画に特段の仰天を見る。

 けれどあまり面白がるのはよろしくないようにも思った。ロードにそれをことを厭うた。それとは利器の過剰な便利のことではなく、この、物に驚く・周りがにこやかにするという、換言するに、無知の道化である。


「それで、これが湯船なんですね」

「待て待てっ。湯船は、身体まで洗ってから」


 そう言ってドシンと椅子にかけ、ロードに筋骨隆々の背を向けた。彼が狩人として編み上げてきた過不足ない筋肉である。とくに肩甲骨と背筋の間が縦長く盛りあがり、彼が両手を横いっぱい広げて膝を叩くとき、ガッシと閉じた門のようになる。

 ロードはまた「わぁ」となって、彼の後ろに椅子をおき、「こんな具合ですかね」と布をあてた。他者の裸の背に触れるのは、ほとんど初めてである。


「……まて、洗剤は」

「あ、忘れてました」

「痛いわけだ」

「すみません」


 そうして道化顔と苦笑のロードに、リシオンは背向けのまま、目をやらず答える。


「俺の背中にゃ国が乗ってるんでな、あンまりぞんざいにするなよ」

「ああっはい」


 ここでようやっとの大焦りが半ば、もう半ばは、この人が言うと高慢ちきでもなんでもないのだという感激だった。


「はい、これでどうですか」

「おう……イヤ悪いな、雇用主に背中洗わすなんぞ初めてだ」

「いえ全然」


 これがリシオンにはひとつのキッカケに思え、膝に手掌をついていたのを、切り替えて肘杖にした。背筋が前に倒れ、ロードは少しだけ難儀をする。

 詮方なく(或いは、言って頼めばよいものを、出来ぬこととして)横に回り込んだロードに、リシオンは発した。


「いえ全然、なんだ」


 戸惑いが一拍。


「……えっと」

「その続きはか」


 ロードはこのとき凄まじい被看破感に見舞われた。


「ロード君、道徳って大事か」

「大事だと、思いますよ」

「そうか。何で大事だ」

「……さぁ、でも、大事だと思います」

「そうかい、格好いいね」


 背を洗う音がどうにも単調である。人の仕草らしからず、ずっとガシ、ガシとただの往復音で変調をしなかった。

 感知せぬリシオンではない。下向いたまま鼻で細い溜息を出し、ロードの緊張感はいっそう煽られた。


「道徳ってのは例えば、隣人のために喜んで身を捧げる、とかそういうもんか」

「……リシオンさん」

「もしくは、人間たるもの理想や夢を持たねばならん、とかそういうもんか」

「……」

「君の身の上話を聞いたときな、ちょっと引いちまったよ。悪いな」


 ロードからすればその瞬間は軽い動揺であったけれど、背を洗う音の小さな停止が拡大鏡のごとく働いて、強く露わにした。

 非常に恥ずかしかった。絶対に見破られてはならない部分を見破られた心持ちで、ロードの手先の滑り方はだんだん、明らかに変わっていく。遅く重くなっていく。リシオンの掻き癖がまた出た。


「夢を見なきゃで夢を見ようとしちゃ、苦しいぞ」

「違います」

「俺にぶっ叩かれたからって、俺に認められようとしちゃいかん」

「……違うんです」


 リシオンの背に布がごわつき、若干のひりつき。


「君は道徳に測られすぎだ」

「……」

「またダンマリかい」


 そこで「背中流してくれ」と言われれば、ロードはふたつ間を置いた。深い精神没入ともうひとつ、背中を流す作法の中に背中を流す行為があるのは何ごとかという循環論法的問題だった。けれど案外すぐ、湯をかける発想になった。


「ふい。んじゃ背中」

「はい、お願いしますね」


 人並みより大分細く、リシオンと比すればあまりに細い。しかし干ばつにあった寒村の子と思えば肉の付いた子供である。


「愛されたんだな」


 ロードはその言葉にただ、「僕はその意味が分からない、不道徳だ」と思い連ねた。


 ふと、背中を洗う力の強いこと強いこと、しかし痛むわけではなく、擦るよりも押されている心地だった。布に染みる湯がジュウと出て熱く、ロードはようやっと背のひどい凝りに気付いた。


「背筋をよう伸ばしてるらしい。偉いなロード君、君は姿勢がいいぞ」

「そうですか」

「オウばっちりだ。でもな、ずっと同じ姿勢で居るのは血の巡りに悪い」


 リシオンの背丈が高いぶん、上のほうは上から押すようになって、どうやら首・肩まで凝っていた。


「姿勢よくするってのは、君のためのはずだろ」

「場に相応しい振舞いとしてそうするだけですよ」

「そりゃつまり君の名誉のためだな」


 ロードは不思議な心地になった。不思議とは本当に不思議としか表せないものだった。


「自分が大事ってとこから考えるもんだろ。正義のための正義じゃなく、理想のための理想じゃなく、自分のための自分じゃなくちゃならん」

「じゃあ、自分の在り方を正そうとする道徳は、無意味ですか」

「無意味は違う。へその緒だって、切っちまうだろ」


 不可解をつかめず、ただ背の暖かさと重みだけを感じていた。ひとつ跳躍した、自分の枠組みの外にあるが浮遊感を催して、湯気の中に沈む心地だった。

 「もの?」と疑問符がやってきて、「こと?」と問い直す。不定形、不安定、きっと自分が幼く何も成していないから迷う根無し草の心持ち。


「へその緒ですか」

「へその緒だな」


 ロードは、屹度この話、大体の人間にはよく分かるものなのだと思った。けれど自分という野暮・ナンセンスがすぎる人間は、想像力不足のために少しも想像がつかないでいるものなのだと思った。


「君が君のこと君で決められるようになるまで、取り敢えず、代わりに物事を決めてくれるってことだ。親兄弟やらなんやらが、お前のために作ってくれたんだよ」

「……ありがたいですね」

「だが生モンだ。丸ごと一生使えるもんじゃない、腐ってになる」

「毒?」

「お前は最低の不道徳、無能、穀潰しだっつって、毒づいて、お前を殺すんだよ」

「……それは正しいんじゃないでしょうか。社会のルールに背いたり、絶対に役に立たなくなったりしたら……罰を受けるのも……殺されるのも正しいことです」


 背を押す力が押し退ける力になってロードの胴が揺らいだ。


「っと」

「バカチン、本末転倒言うんじゃない。正義とやらがそんなに偉いわけあるか」

「偉いですよ。生きてはいけない人が居て、それを定める不朽の真理が裁くんです」

「見たことあるのか。それとも、知ってんのか。ルールのためのルールがあるってんなら教えてくれ」

「いえ。でもあります。そういうものでしょう」


 ロードは曇る鏡に彼の挙動を見た。後頭掻きに違いない。尋常ならざる暫く、泡の音だけが続いた。


「それに……自分で決めたくても、僕の中には何も溜まっていない気がするんです」


 リシオンは手をはっきりと止めた。


「何も積み上げていない気がするんです。いつか世の中の事が分かって大人になれると思ってました、でも、一歩たりとも進んでいない気がするんです」

「……へぇ」

「何も身につけていなくて、至っても進んでもいなくて、人生が丸ごと浪費で。だから僕はまだ、道徳に対して努めきっていないんですよ。このままじゃ僕は、ただの穀潰しになブワッダッタァッ!」


 唐突な熱水、心臓が胸郭を砕き出でんばかりに跳ね上がった。褒められた背筋は反り返るほど伸び、数拍のしばらく、そうして落ち着いたころリシオンはくつくつ笑っている。非常に性が悪いことを看て取れる。


「リシオンさん……」

「生きてはきただろ」


 彼は卑怯な男だった。


「今殺されかけましたよ」

「馬鹿もん。人が生きる死ぬの程度くらい弁えてんだよ。誰だと思ってる」




 冒険譚に付き添い、英雄譚を目の当たりにし、しかしロード・マスレイ少年の憧憬を最も煽り立てたのは彼の説教だった。胸に抑えつけた細腕を、開いたとき肘腱鞘の痛むまで締め込んでいた。


 ――でも僕は、できる限り道徳を突き詰めて、何かしら素晴らしいものになって、世の中のためになって、満足げな顔で死なねばならない。それって間違っているだろうか。間違っていない筈なんだ。

 そう出来なかった時のことなんて考えなくていい。出来なかったら、そんな自分はそれまでで、要らないものだから。僕はになる、認められる、そういう能力と精神性をいつか持ち合わせているべきだ。


 出来なかったらそれまでなんだ。その後なんてない。そうじゃなきゃならない。




「ご利用ありがとうございました」


 昼過ぎ、女将の一礼はたおやかだった。


「ありがとうございました」


 広大な芝の中央で、リシオンが筆頭になって一礼する、その姿勢が逸品であるから、隣のロードは詠嘆して一拍遅れの礼をした。


 ロードは、これぞ、人間の完成形に違いないと思った。のろい自分にはまったく理解できないけれど、研鑽の果て、何がしか理解の外にある精神成長が発生するものに違いない。ブレイクスルーを期待した。


 四人、馬車に乗り込んで直ぐ芝を踏む車輪音がする。


「……んん?」

「リシオンさん?」

「いや……別に、何でもない」


 けれど彼は、以降、ロードの隣で数度呻く。壁に預けた頭と手枕が小加速にしたがって跳ね、無抵抗に呆然としていた。レシーなどは訳知り顔で、膝に肘を立て彼の懊悩する様を楽しんでいる。


「レシー、どうしたの?」

「ううん。ちょっと楽しいことがあるから」

「ある? ……あった、じゃなくて?」

「うん。あるの。だからそれまで、スピナちゃんで遊んでるわね」


 その隣でスピナがひょんっと跳ねた。


「……助けて下さい」

「レシー、駄目だよ。スピナさん嫌がってるから」

「でもスピナちゃんで遊ぶとロードが構ってくれるじゃない。一石二鳥なのよね」

「すごいことを平気で言うんだね……」


 レシーはただフフンと、褒められた体の威張り方をした。

 むろん制止など聞く彼女ではないから、は美の女神らしく、スピナをときめかせて遊ぶ。撫でる甘える手を握るその他、悪女的な諸々の手口で動かぬ表情を動かしていた。

 スピナは非常に居心地悪げで、チラとレシーの目を見れば真っ赤になって見逸らした。レシーの楽しみはこれだった。


「レシー、とっても性格が悪いよ」

「スピナちゃんの反応が可愛いんだもんっ」

「……仲良くなっててよかった」

「……助けてっ」


 というこの時リシオンは急然として立った。


「えッ」

「……リシオンさん?」

「ちょっと、危ないわよー」


 レシーは訳知り・悪巧み顔に戻って、悦に入る様子だった。


「……なぁ」

「はい?」

「俺たち、どうしてあんな小っさい民泊に泊まったんだ……レシーラン様はどう考えてもVIPだろ」


 息呑み音が重なった。


「確かに、僕たちどうして」

「……芝」

「ああ、芝も元に戻ってた。俺が結晶化させたはずだ……隠者共の死体もなかった」


 誰かが戻したのねェと女神の嗤い、これをロードは少し気味悪く思った。察したレシーは少しの遠慮を考え、しかしどうにも楽しくニヤける。人を弄ぶ性質の女神らしかった。それでいて物のついでのように、


「あなたみたいな潜在魔力おばけの幻想、普通破れないわよね。多分、人じゃ破れない」


 殆ど回答を絞った。


「何だか認識をおかしくされてるわよねー」

「いや、それより……それより」


 リシオンはひきつり笑いを堪えなかった。


「いま誰が馬車御してんだよ」


 みな戦慄した。いっそ怪談である。轍を踏みならす車輪音が独りだけ長く響いた。ロードはまた息を呑んで、少し腰を上げた。


 けれど、リシオンの手が差し止めた。


「俺が行く」


 リシオンは立っているまま、御者台窓をそろと開いた。


「……交代を、いたします」


 跪く彼の規矩は、揺れる馬車の中でありながらチョットも動かず、先刻の呆けとはまるで別人だった。しかしこめかみに伝う汗は、アルバに干ばつをもたらした猛暑ゆえのみならず、脂のよく溶けた汗である。


 彼の向こう、窓の先に、赤紫の唇が覗いた。


「……青春を拗らせた根暗、でしたか」


 リシオンは大いに唾を飲み、むせ込みを無理に抑えた。


 馬車がギチィと、諸々軋ませつつ止まった。


「さて」


 御者台を降りるとき、彼女は奇妙な薫りを発した。


 ロードは鼻を抑えかけ、しかしすぐにやめた。それは隠者の臭気であった。しかしあくまで同系統のそれであり、彼女の薫りはむしろ香のごとく、半端な腐敗物と森の薫りほど隔絶して異なる。


 ロードの直ぐ横の戸がゆらりと開いた。


「そこの無礼者、どうしてくれましょうか」


 黒髪のたっぷりとした、金冠の麗人。

 土赤色の着物を平然と、涼しげにまとっていた。


「久しぶり、グレイスちゃん!」


 邪神はほのかに笑んで応えた。

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