07. 彼の始まり②:残虐で幸福な呪い
「ホモ・サピエンスは本当に、騙されることが好きですね」
跪く大英雄を易々と見下ろして、邪神グレイスはくつくつと邪悪に笑んだ。
「やっぱりグレイスちゃんだったのね」
「あら。分かっていたのですか」
「だって見た目変わってないんだもん」
「駄目ですね、手抜きでは」
ここらでロードとスピナがはっとして、リシオンに追随した。女神たちはけらけら嘲って、いかにも人ではない。
彼女が馬車に踏み入ると例の薫りは強まった。精神を強く
「リシオン、あなたとは……15年ぶりですね」
「ええ。あんたと大神の伝書鳩にされたのは、まったく、いい思い出ですよ」
「減らず口は未だ減りませんか」
「大分減ってますよ。あんたは億劫すぎる……いや、億劫そのものでしょう」
「根暗と言いたいのでしょう?」
リシオンはしらを切った。
「……ロード・マスレイ」
「はいっ」
ロードの隣にやわらしゃがみ込んで、赤紫の唇の妖しいこと、彼が悪寒を感じたころには硬直までしていた。
このときやっと、彼女を例の女将と符合した。誰も彼も今の今まで、例の女将と邪神グレイスの容姿がまったく同じであることに気付きもしなかった。ただ金冠一個の違いである。
「女将さん……じゃなくてグレイス様」
「グレイスちゃん、近い」
「大丈夫ですよ。私、この子をとても嫌っていますから」
そのときまるで、脳に循環する血液が頭頂から無くなっていくような、さぁと冷える心地を抱いた。
「ロード・マスレイ、私はほんの少し未来を知っています。その未来は避けられません。あなたはその破局の中心に立っています」
女神はひどく唐突に言った。
「……破局」
「ええ。最悪の破局を迎えます」
「わたし、ロードと別れたりしないわよ」
「破局には色々な意味があるでしょう……それにね、レシー、どんなに愛しあう二人をも別つものが、この世にはあるのですよ。愛しあったまま二人を別つものがあるのです」
「ないもんっ」
軽いそっぽをするレシーが愛らしいのか、グレイスは幸福げに笑んだ。しかし切なさの隠しかたが無用に下手糞であった。
こうしてレシーに向けられていた麗人の瞳がロードへと向き戻る。黒より闇に近く、粗方すべて呑んでしまう色合いだった。
「あの」
「あなたは果てしなく、あまりにも長い戦いに挑まねばなりません……いいえ、これはどんな子供にも同じこと。あなたが挑むそれはただ暗く、ただ独りなのです」
ロードの顎先を引き上げた。冷たいのでなく無温度の指は、死よりも深い底果てのようで、跪いているだけの彼を鉄のように強ばらせた。
「世界の果てに挑むのです。私には……私だけには決して行くことの出来ない場所です」
邪神はかくのごとく神託を吐いて、立ち上がり、彼にもう何も言わなかった。ロードは解放された瞬間に崩れ落ち、いっそう噴き出す汗は沼ほど粘性で重い。しかし彼女を睨み上げるように見上げ、それも長くは保たず項垂れる。
レシーは彼にトテと寄り、遊び回ってきた元気っ子を寝かしつけるような慈顔で撫でた。そのうえに「もうグレイスちゃんったら」などと楽天的にするあたり、人と相容れない。
麗人はまたしゃがみ込んだ。リシオンの前だった。
「昨晩はよくもやってくれましたね」
「なるほど。これからレシーラン様と生きていく男を試したかったわけですか」
「ええ。しかしもう構いません。試すまでもないことでした」
「まあ餓鬼なんですから、将来を見据えていきましょうよ」
ロードはその背を呆然と見、ロードと同じだけ汗ばんでいることに気付いた。
「それまであなたが、レシーを助けるのでしょうね」
「俺たちの縁は今回の仕事限りです」
「そうですか。そう思っているのですね」
「何とマァ含みありげな……それよりあんたはどうするんですか」
「私に出来ることは、何もありません」
「世界の果てには近づけないからと?」
「ええ」
「……左様ですか」
そこで彼が決然と立ち上がるので、自然、ロードも見上げた。
「すごい」
声が重なった。スピナとロードの細い声が重なった。
見合わせ、互いの瞳に映る互いはあまりにも爛々としていて、そのうえもう一度背を見上げ、広く高い逞しさに惚ける。汗で浮き上がる筋肉のみならず、立ち様がそのようにさせる。
「どうしましたか」
「あんたは自分の出来んことを他人にさせるわけですか」
「当たり前でしょう」
「当たり前なわけないでしょう。当たり前じゃないから、対価を払ってするもんです」
「この子はただ独りで挑まねばなりません。私の力を貸すことはありません」
握り拳の握り込まれる音が、その剛力ゆえ響き聞こえた。
「ふざけたこと仰ってますがね、あんたどうせ、出来ないんじゃなくするのが怖いだけでしょう」
大気が薄刃ほど張り詰めた。もう見まいと内心決め込んでいた彼女の瞳を、ロードはしかし見、思っていたとおり戦慄に呑み下された。あの冷ややかをも下回る無温度が、今はリシオンと一直線に突き合って、そのうえ側に伏せ崩れる者すらこのようにする。
スピナでさえこの時は震え上がった。柄に手を添え撫でるけれど、次第にその指先すらままならなくなる。
リシオンはより握り締めた。
「二万年も前のことをいつまでも引き摺って……青春拗らせるのもいい加減にしろって、前に言ったの覚えてますか」
レシーの手が跪く二人の背に被さった。温感が伝わり、暫し心停止していたことに気付き、しかしリシオンは立ったままだった。
「それをもう言うなと、かつて私は言ったはずです」
「迷惑被ってるんですよ。俺も、きっとこの先の坊主も……大神アルゴルも」
「本当に減らず口が減らないのね」
「いつまで逃げる気か知りませんがね、頼みますよ。あんたが『施しの魔女』としてうちの大将に会うってんなら、俺もあの馬鹿デブ、必ず今井陽一として連れて行きますから」
「会えるものなら会っているのです」
「馬鹿言わないで下さい。あの力は元々あんたのでしょう。『施しの魔女』に抗う力を『施しの魔女』であるあんたが与えた、ってことは結局あんたの一人芝居だ。あんたとデブが会えないようにしてるのは、実のとこ、あんた自身でしょう」
「いいえ。彼は私から逸脱しています」
「へえ。ならデブのことは全部デブのせいだと……へえ」
「あなたね……」
「こちとらとっくに切れてンすわ。『善意の施しによって必ず不幸を与える呪い』だか何だか、いつまでも訳のわからん言い訳聞かせやがって……邪神殺しの覚悟は随分前に決めてましてね、喧嘩吹っかけたいなら高く買いますよ」
外で何か大きなものが倒れた。打ちつける音と共に馬車が揺れた。きっと馬が死んだ。
さらに軋む音、奇怪な音が無数に重なって、包み込む大気は死肉を貪る肉食獣の口腔内よりずっと酷い。レシーだけは事態を退屈げに見渡し、ただ「あーあ」と笑った。
「十万年に一人程度の英雄が……何と片腹痛いこと」
怜悧な指がリシオンの鼻に触れた。
リシオンはそれをその時になって気付き、またハッと唾を飲まされた。
「私はいつでもあなたたちを騙すことが出来ます。いつでも奇妙なことを納得させられます。それを忘れてしまうよう、簡単に仕向けることが出来ます。
何故か分かりますか? それはあなたたちが常に『騙されたい』と思っているからです。認知革命から今日まで続く残虐性と幸福感の呪いゆえ、あなたたちは、騙されていないことに耐えられない。生きとし生けるあらゆるものと比較してなお、ホモ・サピエンスは本当に、騙されることが好きなのですよ」
ついにリシオンすら崩れ落ちた。
「今日はこれまでにしましょう。私の大事な子供たちが待っていますからね……レシー」
「何ー?」
「またいつか会いましょう」
「うん、また今度! ……子供!?」
そして彼女は、もともとそこに無かったかの如く消えてしまうのである。
「思い出しました」
アクラは唐突に顔を上げた。
「君、何か知っているのかい」
「はい。グレイス様とルークと、小さな家に泊まって、お客さんを迎えて……」
「なるほどね。あの宿の子供は君たちか」
「あのお客さんが先生たちだったんですか」
「その時僕たちの顔を見たかい?」
「見たはずですけど……すごいですね、記憶がぼやけてます」
「僕もだよ。騙されたいらしい」
十二を迎えたばかりのアクラは、奇妙な芸を見ていた。
「……ぐるぐるー……」
狭い芝の上で、客人とグレイスの乗り込んだ馬車はしかし旅立たず、延々ぐるぐると回る。彼女は環の中心に居たので追って回転した。三半規管の強い子供で、段々とにやけだし、壊れたように笑う。ルークはそれを腕組みで傍観していた。
「アクラ、こけるぞ」
「これくらい平気よー」
「そうか、なら勝手にしろ」
丁度このとき馬が止まり、客室に入るグレイスを見た。
「……つまんないの」
「いっそ一人で回っていればいい」
「ばかね、これは追いかけっこなのよ」
「なら僕がお前の周りを回ってやる」
「いいの?」
「応。きちんと目で追えよ」
「じゃっ、よーいどんでスタートね。よーい……どん!」
二人でいれば遊び方に事欠かない子供だった。当時すでに学生狩人の頂点を極めていたルーク・ヒラリオは、しかし彼女の前に限り子供だった。
アクラの裏をかいて逆回りする、それはそれはまんまと嵌まり、あっさりと彼女の背後を取る。「ほら捕まえた」と得意げに躍りかかり、しかし彼女の天分は体技であるからするりと躱す。
子供らしく、ルールが不意に増えた。ルークが目で追う側、アクラが回る側に入れ替わり、すぐ捕まえにいく(無論、背後を取る決まりである)。けれどルークも並々ならず、あっさりと躱し入れ替わる。数度続く。
「あ」
「すきありっ」
ルークのあからさまな隙をついて捕獲した。
「私のかち!」
「アクラ、あれ……」
「何? 私のかちでいい?」
「今のは絶対、絶対なしだ。ホラあれを見ろ」
「何よ……あっ」
そのあからさまな隙というのが、突如泡を吹いて転倒した馬二頭のことである。
「死んじゃった……?」
ルークにのしかかったまま、アクラの表情は秒刻みに萎んでいった。
けれどそのすぐ後、そろりと降り出たグレイスが「ごめんなさいね」と声をかけ、途端に馬の様子が変わった。すぐさま、まったく元のように息を吹き返した。
アクラは無知な顔で息をつく、その一方、ルークは彼女のことを烈しく睨む。齢十一の少年でありながら、黄金銀河の迫力はグレイスを気付かせた。
寄り来るので、アクラがまた壊れたように笑う。
「グレイス様おかえりなさい!」
ルークはこういった時、アクラの顔を見ない。嫌いらしかった。
「ただいま、アクラ。何もありませんでしたか」
「ありませんでした!」
「それは結構です」
涼しく微笑むグレイスの方はかえって貫くほど見る。よほど嫌いらしい。
「……ルーク」
「何だ」
「こら! グレイス様にはけいご! いっつも言ってるじゃない!」
「フン」
「もー、あのねぇ」
こういった時最も厄介なのはルークのへそ曲がりではなくて、寧ろアクラのぐちぐちとした粘着だった。けれどここらのいなし方を、誰よりグレイスがよく知っていて、彼女に両腕を低く差し向ける。
アクラはすぐ嬉々となって駆け寄り、腕に飛び込んだ。そのまま抱き上げられると幸福感を隠さず、彼女がその抱擁から卒業するのは翌年のことである。
「おい妖婦」
「妖婦だなんて、酷い子ですね」
「お前の言うとおり、客人がいる間はお前の呪符を背中に貼って、目を開けなかった。そろそろもういいだろう、事情を話せ」
「……まさか、本当にやってのけるとは、思っていなかったのですけどね」
「知らん。お前の与太話は大ッ嫌いだ」
アクラはこのあいだ、甘えっぱなしだった。
「……きちんと効きましたか?」
「効いた。この呪符を貼っているあいだ、少しも目がきかなかった」
ルークはその土色の呪符を突き出すように返した。するとグレイスはついに、ほんの少々ながら、声を出して笑った。
それをアクラは自分をあやす声と勘違いして、いっそう強く抱きついた。けれどグレイスはこのときだけ笑うのを止め、そっと静かに背を撫でる。
「……何だ、何故笑った」
「あなたのことですから、自分でごみくらい捨てるものと思っていたのです。それがまさか私に預けるなんて、何だか子供っぽくって、可愛くって……ふふっ」
「馬鹿にするな妖婦っ。呪符をぽいぽい捨てるわけにいかんから、使い手に返すだけだ!」
「同じ事ではありませんか」
「自分で出来ることならしている! それすらせぬ幼童と同じにするな!」
「ムキになってしまっては、一層可愛らしいですよ?」
「うるさい、お前など嫌いだっ」
アクラの背を撫でていた手が、今度はルークの頬にのびた。
「やめろ」
「お願いがあります」
「……そういうことをさっさと言え」
こういった時すぅと冷めるので、グレイスにはこの子供が怖かった。
「サンラーナ村の悪習を知っていますね」
「知っている。十二を迎えた娘に、男と沐浴をさせるのだろう」
「何故か分かりますか」
「その歳になると村仕事で夜も森に出る、そのため女子には護衛を付けねばならない……とかなんとか、年長が言っていたのを覚えている」
「本当の理由は分かりますか」
「特によその男を伴わせるらしいからな、そういうことを起こしたいんだろう。切羽詰まった寒村はやり口がおぞましい」
「アクラにそんな思いをさせたくはありません。けれど悪習ほど継がれます。自分が耐えた憂き目は次代にも継がねばならないと、不幸を伝播させたがるのが人間です……あなたが伴ってくれますか」
「わかった、伴う」
「はやいのですね」
「迷うほどのことではない」
「いいのですか。あなたが何か起こしてしまったら、きっと私が殺すのですよ」
「起こさない」
「アクラはとても綺麗で可愛い娘ですよ」
「知っている。だが関係の無いことだ」
「我慢強いのですね」
「我慢も何もない。意志と感情は僕にとって関係がない。お前はそれを、たった今さっき、悪趣味なやり方で試したばかりだ」
ルークはすぐその場に跪いて、火柄吾朗より賜り火柄印の刻まれた、あの
「……あなたを十一の子供と見るのは、今日でやめにします」
諸々納め直して、ルークはグレイスの目を真っ直ぐ見つめた。
「ならば僕もやめにする」
「何を、やめるのですか」
「白々しい。お前の正体は……ウっ」
「どうしたのですか?」
「……言葉にならぬようにしたな」
「おかしなことを仰るのですね」
当時アクラは、彼女の腕がぴたと動かなくなるのでひどく怖がった。けれどそれを少しも態度に出さなかった。彼女はグレイスを悲しませるもの、裏切るもの、『オリジナルに近く』ないものであるわけにいかなかった。
「気を付けて下さいね。あなたはいずれ、私の力を破るでしょう。人の言葉の真偽など容易く見抜くでしょう。最後には心すべてをも……」
「精神的ラプラスの悪魔にならぬよう気を付けろと、そう言いたいのか」
グレイスはこのとき屹度、「理知的すぎる子供はおぞましい」等々、その類いのことを言おうとしていた。けれど差し止める仕草があって、それはひとえに、十一の子供相手ではないことを気に留めたからだった。
「成程、お前の言が正しく黄金銀河の瞳にそれほどの力があるなら、僕はいずれ未来を見るだろう」
「決して変えてはいけませんよ。未来を見た者は、その未来の支持者であるか……或いは無抵抗でなければならない」
「歪めれば災禍でもあるのだろう。分かっている。僕はアクラがアクラにとって幸福であるよう努めるだけだ」
「ならば、いいでしょう」
「そうかい、馬車は芝を回っていたかい。今日まで気付かなかった」
そうして姫君の如く口元を抑え笑い、ついでに指を弾き、辺りを温めなおした。
「……どうしたんだい」
「いえ……あの時は、殆ど何も意味が分からなかったので」
アクラはいじらしく胸を押さえた。昔話は暫し中断した。
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