19. 正しくなれない⑦:死んでも星には願わない

『あね上……あね上!』


 幻だったかのように消えていく背中が最後だった。


 幻だったかのように?


 僕は何故それを幻でないと断定したのか。何故勝手に信仰したのか。与えられたものをそのまま肯定し享受するなら、すべて思い通りにされるだけだ。そうやって奪われた、これからも奪われていく恐れがある。


『ルーク、礼拝の時間だ』

『はい、父上』


 反射的に振り返ろうとして、止めた。悲痛からではない。姉上の去って行くのを見なかったように振舞う両親、兄、召使いたちをどうとも思わなかった。


 ただ純粋に聖書・教典が気にくわなかった。


『ルーク、どうした』

『いえ』


 考え、結論するに、大嫌いだ。


 神だの社会が持つ責任だの、誰かが何かに保証されているという甘えた話ばかり。所詮そう思いたい弱者の妄想が具現したものなのだ、なんと浅ましいことか。


『ぼっちゃま、ぼっちゃま』


 召使いとして育てられている二歳の幼童。この乙女は愛らしく振舞って、僕はつい撫でた。


 恐ろしかった。舌を巻くべきだろう。


 幼童ですら、扶養を得るために可憐さという戦略を持つ。だというのにこれらの書物はなんと情けないことか。

 決めた、礼拝など相手にせぬ。この家庭に生存するため、それらしく振舞いながらも屈さぬよう気を付けねばならない。嘘はつけぬが振舞いは変えられる。そうして辺境の名門を選ぼう、その時には聖典も法典もことごとり割こう。神だの社会が備う責任だの、何かに保証されているという弱者の甘えた現実逃避は終えねばならない。


 僕は笑っていたらしい。注意をされた。演技を磨かねば。


 しかしアロンの杖とは、まったくおぞましい。恨みの行き先を欲した脆弱者の妄想だ。

 マナの壺、全く以て浅はかではないか。飢えに苦しむ弱者の現実逃避にすぎん。

 だがモーセの十戒、これは賢いものだな。人を統御し搾取し続ける支配者にも、安定した生活を望む民にも、非常に都合がいい。よく考えられた方法だ。


 思考を絶やすな。でなくてはまた、世界で一番大切なものを奪われる。




「貴殿ら、期待をしていたであろう。俺が潔い笑顔で、自分たちの都合に沿ってくれ、綺麗に済むよう振舞ってくれると……おめでたい発想だ」


 怜悧な刃の声音だった。


「ルーク……?」

「もたつくな。ぞ」

「ルーク、どうしちゃったんですか」


 彼女は非常に無遠慮に歩み寄っていく。ローナらしからぬ、けれど例えばリシオンは笑って見守るであろう、愛しい振舞いだった。無遠慮を身につけたローナ・マルセランは、そうして畏れ多かった彼の間合いに入る。


「どうせですし、もうすこし探索してから戦いま」


 続きを聞かなかった。


 何かの裂ける音だけが大きく響いた。


「ァ」


 トウカは噛みしめた。アクラは「ヒュッ」と戦慄した。そしてローナは瞠目し、己の襟首を掴み上げた白い手と、鳩尾・肋の間隙を穿つ中指一本拳をほんの一瞬半見た。


 かくも一瞬を下回る刹那の出来事であった、ローナは上がってくるものを吐き散らして後ろに吹き飛ぶ、けれどルークはそれを襟首で捻じとめて引き戻した。


「ひ」


 まだ刹那の内である。


 先刻の右拳を淀みなく右脇に突き込み、関節を砕いた。外すのではなく粉砕だった。このときローナはもう動いていない。

 首もとを離せばドシャリと落ちる、それを踏みつけにして右腕を引き抜くほど掴み上げた。悲鳴を構ってやらない。そしてあの冠に手をかけ乱暴に引き上げる。


「……よし」


 ローナはもう声もあげなかった。


「……ルーク?」

「アクラさん、僕の後ろに。しばらく余裕がないので恩恵が機能しません、そのおつもりで」

「ねえ、何なのよ?」


 ルークは殆ど唾棄する態度で口を開いた。


「簡単な話ではないか。場合には場合に適した振舞いがある。俺の直面する課題に幾つか変動があったゆえ、振舞い様を改善し適合させただけだ」

「どういうことよ。女の子をあんな風に殴ったりしなかったでしょ、ルーク」

「女子供の扱いを狩人が期待するな。第一、左様の禁則を負ったのは前ルーク・ヒラリオであって、現ルーク・ヒラリオはこの俺だ」


 ルークの足元でローナはヨロとうごめき、何かの繋ぎ止めたさによってその足を掴んだ。


 彼は蹴り飛ばした。鼻ッ柱をつま先で蹴り飛ばした。


「それっ」

「まだ言うか。弱いから傷つけられるのだろう、女子供であることを、守られる理由にしようとは浅ましい」

「でも」

「くどいぞトルワナ」


 トルワナ。その変調を、彼女はもう忘れられなくなった。


 その瞳の冷ややかなこと、優しさをほんの少々も湛えず凍てつく有様でいる。仰向けに動かなくなったローナには全く関心せず、アクラの方へ重々しく一歩進んだ。彼に人間味がこのとき、今度こそまったく浄化されてしまったようだった。


「本当に何なの。二重人格だって言うの?」

「まさか。連続している。振舞いを分けているのだ。今までもそうしてきたろう」

「意味分かんない……はは、裏表のある男なんてさいってー」

「本気で言っているのか? ならばアクラ・トルワナ、貴殿は一生化粧をするな」

「は」

「人が己を飾り、装う行為を嫌うのだろう? おかしいというのならそうしろ、だがな、嘘も真も根本的にありはしないのだ。黄金銀河の瞳すら、その者にとって真であるか否かを突き詰めるに留まるのはそのためだ」

「……頭おっかしんじゃないの」

「どうしたトルワナ。語気に余裕が伴わぬぞ」


 茶化し笑いも含まない。


 彼は真白の剣ノンカラーをぬらりと抜いた。


「いいんですかルークさん、それは彼女に騎士の誓いを立てた剣ですよ」

「それをこのような場に持ち出すのは、前ルーク・ヒラリオのやることだ」


 踏み込みが地をこぼち砂を螺旋に巻き上げた。


 指揮官が呆けているので、遊撃のトウカが気を急かせた。先ず以て、砂漠に重金属栄養分水分を丹念に溶かし、黒々と富栄養の沼を喚ぶ。その腹底を更に練り上げ、金属を再結合し、打ち上げた。剣山沼となる。


 そこでルークは微かにも淀まなかった。足腹で泥の粘りを叩き打ち、纏わり付くより打ち返させる。殆ど水上歩行のようなそれは、しかも次々と突き出す剣山を滑らかに避けながら行われた。


「アクラさん逃げて!」

「お前の相手は後だ、ミラーシオン」


 真白の剣は彼の暴虐を、暴君を、寧ろ快く迎え入れて黄金を噴き出した。


 アクラはオムニスを構えた。けれど直後に衝撃はなかった。ルーク・ヒラリオはそれを投げ捨てた。宣誓の剣、師伝の品、それであるそれをホイと投げた。ある種の騙し討ちにした。アクラの目は瞠られて、それに酷く吸い込まれた。


 顎下に鉄塊の如き強打があって覚醒し、すぐさま消沈した。


「がッ……!」

「愚か者」


 再覚醒はすぐだった。


「白磁斬」


 灼熱感、変圧感、冷感、漏出感。先刻覚えのある血肉の臭い。

 右肩に走る剣筋を見なかった。


「え」

「白磁斬」


 スイと回る剣先。

 左肩先が軽くなる。


「ちょっと、ル」

「白磁突」


 さらに腹を穿つ熱。


「あっ」

「もういいか」


 三拍置く。


 そして、アクラ。


「……あああああああああああああぁぁァァ――――ッ!!」


 ルークは血振りしながら、その無様を無表情のまま見下ろした。返り血に濡れている。かつては戦いに主義を求め、綺麗なままであろうとする彼がそうした。

 アクラは何が起こったか受け容れようとして、止めかけて、それでもなお感じ取った。両肩の先とハラワタがあまりにも軽い。見る気にならず、見なかった。


 そうしてその時やっと、ルークは表情を持った。侮蔑だった。


「貴殿、どうやら期待しているな」

「だから、ねぇっ、なにが」

「まだ世界に優しさを期待し、他者の施しを信じているな」

「まって、ほんとにわかんないっ」

「そんな物語じみた話があるか。お前が選択するように俺も選択をする。状況が目的ごと変わった、それゆえ行動様式を変える」

「た、たしけ」


 ルークはその剣筋を低く横一文字に引いた。


 達磨の悲鳴があがった。


「『世間の事物に受動的で居ていいのは餓鬼の内だ』と言ったはずだ。俺を誠意の化身だと思い込んでいるなら少し気を落ち着け、よくよく考え直せ。物語の読み過ぎだ」

「ぅぅ、ク……ウゥくぅぅ…………」

「何がこの世で最も勝手で、邪悪か、そんなものは決まっている。他者への期待と信頼だ」


 堂々たることはまさに英雄のそれである。悪鬼のようであるけれど、もしアクラ・トルワナが怪物であったなら、喝采を受ける振舞であろう。


「駄賃を用意して出直せ。話はそれからだ」


 袈裟斬りが走った。


 「あんた、こんなの死んだようなもんじゃない」と心で呟く。その最後の意識でアクラは、あの変調を思い出した。この恐ろしきルーク・ヒラリオは、随分前からいたのだと、醒めた。




「うん、これで完成だ」


 ロード・マスレイは顎を撫でながら、笑みを零した。


「なあ」

「リシオンさん、どうされましたか?」

「どうされたじゃねぇだろ、これは!」


 掴み上げられた胸ぐらと、ついに表出した憤激の表情に、ロードはまったくキョトンとしてしまって困った。そういった態度はリシオンの腕力をますます強め、スピナはその傍らでまごつきながら口をつぐんだ。


「お前、まさか、意図してたのか」

「はい。甘い方のルーク・ヒラリオが随分現実逃避をしていましたが、やっとです。上手く追い出せば英雄になるかなと思っていましたが……あれはいいですね」


 萌葱色の瞳が深々、煌々、爛々と子供のように輝いた。大英雄はぞっとした。


「……もうひとつ、聞かせろ」

「はい」

「どこからどこまで打算だ」


 ロードは放してもらえた襟首を整え直してから、興味深げに目を丸くした。


「総てですよ」


 リシオンは歯噛みした。


「総てってどこからだ」

「だから、総て……最初からです」

「最初ってのはいったいどこだ」

「彼が弟子入りすると知ったときからの総てです」


 そうして歯噛みは歯ぎしりになる。リシオンはその神速と言われた勘で、過去からひとつずつ不自然を拾い上げ、揃え直し、結論するために一秒半も要さなかった。


 ロードを睨みつけた。あまりないことだけれど、ロードはやはり目を丸くするだけだった。


「毒殺の件からか」

「明言しないで下さいよ、ブライジンさんもいるんですから」


 彼の口ぶりは、恥ずかしい趣味が露見してしまった青年のようだった。けれど焦燥というより茶化し気味で、つまりその程度であって、笑い流そうとしている。片手はローブの中にしまい込んで、もう片手は口元に添えながら柔らかい笑みを隠している。


 これはそういう狂気だと、リシオンもようやっと理解した。


「フロートモスの毒なんてもん、医大教授かよっぽどの狩人でもなきゃ手に入らんしな」

「そうですね」

「アルゴルに行った報告もおかしかったんだ。狂信者の毒殺ってなんだ、適当すぎるだろ、そこらのカルトにブライジン組の警備が突破できるかって」

「はい」

「だいいちな、転移の輪だのリトレンだの、空間をねじ曲げる『異次元のロード』が口腔に入った毒物ごときでやられるわけなかった。表皮と体内空間に異空間防核を張ってるようなやつが……」

「おや、それをご存じでしたか。となると……」

「お前、ちょくちょく魔力で毒性を加速しただろ」

「流石リシオンさんです。殆ど最初から気付いていらっしゃったんですね」


 打撃音があった。


「……リシオンさん?」

「人を壊すな馬鹿野郎ッ!!」

「彼の根本はああですよ。不思議なことに、他の誰も気付いていませんでしたが……」


 本気でロードには何の憂いもないようだった。尻餅をつきながらやはりポカンとしている。力んだ震えすらなく、漫然もしくは整然と口を開く。


「僕も英雄になりたかったんですがね。出来ないと分かってしまいましたから。それなら育てればいいと思ったわけです」


 破顔だった。ああ俺はとんでもない怪物を育ててしまったと、リシオンは全身力んだ。


 ロードの背後にブライジンが歩み寄ってくる。真っ当なことを言って呉れると思った。自分などより余程まともに生きてきた頑固者が、非社会的な人間を断罪してくれると思い、聞こえないほど細く息の音を漏らした。


「ロード・マスレイ、こりゃァ大成功だ」


 ひげ面の男はその背をバンと叩いた。冠の機能を試したときと変わらない。


「ブライジン」

「なに真っ当な人間教育しようとしてやがる。俺たちは狩人として生き抜けるやつを育てに来た筈だ。優先順位ははっきりせにゃならん」

「ブライ」

「世界はいま切羽詰まってんだ。お前が一番わかってんだろ」

「……」

「あのドクズが丸くなっちまいやがって」


 リシオンは押し黙った。


「酒癖最悪、一日三箱の煙草。暴力沙汰は日常茶飯事、女はヤリ捨て。しかし結果は出すもんだから手が付けられねえ。それがお前だったろ」

「……うるせえよ」

「なんでそんなにショボくれちまった」

「ショボくれてねえ」

「俺はな、あの頃のお前に憧れてたんだぜ。人の欲望を極めた男だと思ってた……そんなヤツが今やで、飲むたンび『お前みたいに真面目に生きてりゃよかった』とかほざきやがる。聞いてる方は虚しんだよ。どうせご無沙汰だろ、エェ?」

「ほっとけ……その頃の俺が一番虚しかったよ」


 ブライジンの疲れ切った嘆息、それから嘆息三回分の間があく。煙管には手を付けなかった。気分の問題らしい。

 寂寥・静寂を感じさせない活力の大砂漠がこのとき煩わしかった。ブライジンの舌打ちが遅い拍子を刻み、止めたと思えば後頭を強くガリガリと掻いてまた嘆息と相成った。


 彼の顔が上がるのに合わせ、リシオンも目を合わせ直した。


「ちぃと前の帰省以来か、そんなになっちまったのは」


 頬のひくつきが顕著だった。


「その話すんなっていつも言ってんだろ」

「するなと言われたことほどしてきたお前が言うな」

「……悪かったよ」

「こいつらを相手にし出してからは一層だ。なんつーか、オトンの顔になっちまった」


 そういうわけでブライジンは、ロードを睨み、スピナには歯噛みをするのである。


「まぁ駄目なオトンだけどな……」

「なぁ」

「あ?」


 リシオンは「なぁ」を口に出して、暫し迷った。ブライジンもこれ以上は呆れ疲れた。丸い目で彼を見て、そうして柔らかく弱い笑みを浮かべたので、もう少し目を丸くした。


「もっと昔の俺はどうだった」


 思考停止の時間が少しあった。


「あのお高くとまった糞ガキか。世間知らねークセして手前勝手の正義フン回して、うぜーって思ってた。ま、今のお前でもその頃よりゃマシだな」

「ならいい」

「勝手に満足すんな」

「するに決まってんだろ。そういうもんだ」

「……やめやめ。どうせ新人は五人ぽっちになったんだ、直接見に行くぞ」




 そうして急ぎ駆けつけた時、辺りは沼と槍に呑まれ、狩人は血にまみれていた。


「……どけミラーシオン」

「いえ」

「貴殿は柔和に見えて、案外気骨のある男らしいな」

「まあ、女子供は守るべき、人を殺してはならない……このくらいは絶対だと思い込んでいる人間ですよ。そうして来たかは別ですが」


 聞くやルークはフンと鼻を鳴らす。清廉な貴公子の振舞いではなかった。


「下らん。

 ひとつに、女子供は守られるべき、ではない。お前が守りたくて守るだけだ。その欲望を義務などという耳当たりのよい言葉に置き換えるのは欺瞞だな。

 また、人を殺してはならない、でもない。殺される側が殺されたくないだけだ、己の都合を義務に置き換えるのも欺瞞だ、殺される雑魚が悪いというのに」


 そうやって彼はシビアなことばかり言った。


 相対して、トウカは懐を探り銃を取り出し、すばしっこく両手で構えた。その鉄筒を見てもいなかった四名、瞠目を免れなかった。


「トウカ君それは」

「あとだ。こいつらの戦いが見たい」

「中止しろ、重傷者だっている」

「スピナがいるんだ、肉さえ揃ってりゃ死んでても治る」


 ブライジンは額を汗で濡らし、かなり堂々と口角をつり上げていた。もう止められないと思った。彼はそういう男らしい。らしい、と言うのもどこか寒々しく、結局そういう男だった。


 黄金を構えるルーク、照準するトウカ、光と闇の構図がじりじりと波立つ。


「さっさと奥の手を出すがいい、ミラーシオン」

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