11. アンチ・アルコール②:窮極の在処
枕をちぎれるほど抱き締め、噛みつくように顔を埋めた。
「お前が言うな」と叫び込む。
アクラは熱せられたような心臓に苦悶し、奔流を外にやることも出来ず喘いだ。ここ暫く彼女の相棒である枕がぎうと締め上げられて、もう中綿は割けていた。
あのルーク・ヒラリオは選択者であり、しかしすべてを選択するという狡い男である。一度たりとも「仕方なし」としたことがない男だった。
アクラとの別れを切り出した時ですら、自分の望むものすべてを手に入れたような顔で笑っていた。己の切なさすら素晴らしいものとしていたのだろうか、この先にどうしようもない悲しみなど連れて行かぬつもりの、整然としたあの表情が鮮明にしてありありと思い出される。
そんな彼がついに捨てたと思えば、その選択はアクラにとって最も痛烈だった。かつ不届きに他ならない。なにせ別れた女にかくあれかしと説くのだから不届きに他ならない。勝手極まる押しつけは、彼女の、涼しくなっていた心根に一滴の劇薬だった。
それは熱かった。心底を冷やすのではなくて寧ろ熱い。疑いようのないものを象徴する彼が、すべてをまやかしとしたアクラの天敵として、彼女が何よりおぞましいとしたことへの情熱を強いた。
アクラは、どうしようもない悲しみとして見つけ、しかしある意味安寧として受け容れたもの、その絶望をもう一度想起した。しかしその無信仰という信仰、どのような生き方も赦して呉れる虚に、黄金の光が鬱陶しく差した。
「……はぁっ」
ひとしきり叫び終えた彼女の涙跡は、枕のせいでごちゃごちゃの大氾濫をしていた。今日という一日、飲食せず部屋の外にも出ずこうしていたので、髪も方々に散っている。麗しの彼女もこのとき端然とはしていなかった。
「水よ……」
呼ぼうとして止めた。アクラは今、配慮という思考に対し大反発を叫んでいたところだけれど、吐ききったからこその俯瞰が出来た。このツインベッドにはローナも寝るのだから、水浸しにしてはいけない、だいいちみだりに幻想を使ってはいけない。
アクラは立ち上がり、床に着いた足裏の痛むのをどうでもよいことと思いながら、ぺたぺた歩いて戸を押した。開けば微妙に明るい。薄暗い廊下ですらそう思われた。
その同時に、誰ぞが別の部屋から駆け出した。
「……?」
向かい三部屋の真ん中はロードの部屋に違いない。視線を下にばかり向けていたため顔は見なかった、けれどロードはああいう奔走をする人間ではない。
「だれだろ」
少し前のアクラならきっと、好奇心で駆け出しただろうに、今のアクラはのそのそと歩く。その老化が彼女にも自覚となって、自嘲の気分を催した。
人影が俊足で行った水回りに近づく。戸の向こうから微かな声が聞こえてくる。どうやらリシオンだった。
「……」
アクラは無気力に、黙って戸を押し開けた。
「……何泣いてんだよ、アクラちゃん」
「それ、こっちの台詞ですよ」
このときリシオンは少し気が変わった。
「アクラちゃん、別に洗面台まで来なくてもパッと水出せるだろ」
「先生じゃないんですから、幻想をそんな風に使ったりしませんよ」
「はは……それもそうだ」
赤さの残る目を見られぬよう、二人は裏口から外に出た。出て振り返ると山の家は小さく、とても八人過ごせるように見えない。
また正面に向き直ると、リシオンの背は広く高い。アクラはこれから薄暗い森を行こうというのに、そよ風でも吹くような晴れやかなる心地だった。
「どこ行くんですか?」
「晩まで時間があるんでな、ちょいとイイモン見ようや」
「山頂から望む絶景、とかじゃないですよね」
「そこは弁えてるから。ダイジョブダイジョブ」
夕陽に焼かれる天の色が土を染め、その朱と影の漆黒とで、非日常のコントラストがあらわれた。鳥の音も虫の音もいっさいない静けさに、踏み分けていく二人の音だけがあって、なおも不安とは無縁でいる。
もう一度背をチラと見れば、リシオンは洞察して振り返り、年不相応にニヤッとした。
「どうした」
「いえ。不思議な感じで」
「そうかい」
ちょうどこの時、土に染みつく赤い線を跨いだ。
「これ」
「この先の狩猟採集諸々を禁じる呪線。ここで生まれた命は持ち出せんようになってる」
「はぁ……」
「ちょいちょい、アクラちゃん。周り見てみ」
「はい?」
ずっと彼の背か下だけを見ていたことに、そのとき気が付いて視線を上げた。
アクラは「はぁっ」と息を漏らした。
「すげーよな。約二万年手つかずの大自然だ」
それを世間では「樹海」というけれど、眼にしたとき言葉はあまりにも無力だった。
幹高く、枝先などまともに見えない大樹たち。倒れても人の五、六倍は高く、苔生すそこかしこが森を薫らせて、極相の先に窮極の平衡を見つけた偉大なる生態系は、あらゆる者を呑み宿らせ住まわせている。
音声と字面だけでは、如何に、この世界に迷い込んだ彼らが己の矮小なることを突きつけられたか、まったく表しえない。
「どう」
「すごいです」
「それ以上言葉にならんだろ」
「はい」
「ま、表しきれんよなぁ……でもなんつーかな。激しくて静かで優しくて厳しくて、賢くて無思慮で……全部だわ」
アクラは胸中で何故か「見つけた」と呟いた。
また、常々胸中に巡らせてきた問答をもう一度始める気になった。辿り着く先を見た、すなわち、有限世界に真らしきものを得た心地のためである。
何もかもまやかしであるために真を求めることは無意味とした、その諦めは正しく諦めで、すなわち突き詰めた先は「有る」という一種の啓示が大樹海の姿をしていた。
緑色の囁きは悪魔のようだった。
「リシオンさん」
「ん?」
「私、先生と……ニヒリズム? まあ、そんな感じの話をしたことがあるんです」
「おう」
「でもこんな……普遍的に美しいっていうか……とにかく凄いものを見ると、誰にとっても意味のあるものが世の中にはあるんじゃないかって……そう思うと、すごく怖いです」
「どうして?」
「それじゃ悩むのを止めた私が、ただの怠け者になるんです」
「止めてないじゃん」
「止めてたんです。どうせどんなに素晴らしいものもまやかしなんだって、だから理想を追うことに意味はないんだって気付いた……ことに、してたんです」
「……やっぱ止めてないじゃん」
リシオンはその場にしゃがみ込んだ。苔でよく滑りそうなので、アクラは逡巡した。
「あの呪線、俺の師匠が引いたんだと」
「師匠、ですか」
しかし彼が語り出すので、追随した。膝を抱えるので、どうにも小さく見える。
「あの人だけは、美しくて、どんな基準にも否定されえない何かに至ってた。この世には絶対の正しさがあるんだって、あの人はいつも思わせたんだよ」
「そう、ですか」
リシオンは小さな背を柔らかく、柔らかく叩いた。
「きれいなモンを追っかけるのは、そんなに無駄なことかねぇ」
心臓は静かに痛いほど沈む。
ルーク・ヒラリオが願ったその探求を、リシオンが背を押すその道を、アクラ・トルワナが否定してもよいのか煩悶した。生来『accurate』を願われた、しかし近づくべき正解などないように思われ、痛みと向き合っていられない、けれど正解はあるかもしれない。
もしあったなら、諦めたこの女は怠惰に違いない。
「……それは」
真っ赤に充血した目を上げると、リシオンはすぐ合わせられるように待っていた。
英雄の穏やかな瞳。この絆、縁は欺瞞か。疑うことの許される事物であるか。そうだとこの場で断言するのか。彼はどんな答えでも受け容れてくれるだろう、けれど、受け容れねばならないのは決してリシオンだけではない。
己は? 己の心は?
この世に普遍性などないと断言するとき、それも、己の過去と偉大なる世界観と優しき愛情とを鑑みた上でそれを断言するとき、アクラ・トルワナという人間は許されるのか。そして世界がまやかしでなかったとしたら、間違えた者の人生は何だったのか?
風が吹いた。無為無機質な風だった。
「……すみません。私、帰りますね」
「もう帰んの? 一人で?」
「はい、道分かりますから」
「そうかい。それじゃ俺は、暫く森に佇むかね」
「ありがとうございました」
「おう」
立ち上がるので、アクラの背中が高く見えた。そのまま遠くなっていく。
リシオンは先ほどと反対に、小さな背中を目で追いかけた。
『行かないで』
視界とフラッシュバックが無用にうまく重なった。リシオンは、それこそアクラのように、もしくは子供のように膝を抱えて丸まった。
そのとき白金の光が眼前を横切った。
「やなとこ見られたな」
「すみません」
男装の麗人スピナ・アリスは、白金髪を掻き上げてからほんの僅かな会釈をした。
「いいよ、別に。どした?」
「ロード君が心配してます」
「でも今は会いにくいからと。ヘタレ極まるねえ……あぁ、泣かされたのは俺だよ」
スピナは声にならない程度の動揺で、小さな口を小さく開け、彼の仄かな泣き跡を気にした。彼女はいつもの麗しさと沈黙を殆ど変えずにいるけれど、リシオンが立つとその非凡な長身ゆえ、可愛らしく見上げる姿勢になる。
「何があったんですか」
「俺が悪い」
「何があったんですか」
「……そうだな、こりゃ答えになってないわ」
けれど頑として語らない。スピナはそう分かっていてなお、欠片でも引きだそうとして視線を据え置き、その詰問を止めなかった。
すると、スピナの中にありとあらゆる言葉が激流した。
彼女にとって言葉というものは、いつも溢れ返って言葉にならない。また、言葉は言葉にならないものを、そのうえ隠してしまう。そうして完全な発言が出来ないために、彼女には何も言い得ない。そのうえで絞り出した言葉は、常々斜め向こうに逸れて飛ぶ。
「リシオンさん」
「ん」
「……」
「……」
「…………あの、すみ」
「焦らんでいいよ、ちゃんと待つから」
「……」
「……」
「……リシオンさん」
「ほい、何だ」
「おなか、空いてませんか」
「へ」
赤面のかわりに斜め下へ見逸らした。そちらへ逸れていった言葉を追いかけるような仕草で、その不出来なることを、生じた沈黙故に恥じた。また、彼のために言ったのではなくて、彼のために何か言わねばならない自分のために混乱したことを恥じた。
沈黙はリシオンの呆然に任せ、2秒、3秒と延びていく。何を間違えたか自問しても、中に何も入っていない自分には不可能なことだろうと、その実激流する言葉に埋もれながら諦観した。
「スピナちゃんはいい子だな」
ふと彼の言葉がかかる。スピナはゆっくり目を合わせた。
「……」
「確かに腹減ったわ。でもあんま早い時間に食うと不健康だし、やめとく。もう少しここでのんびりしようや」
「ごめんなさい」
「謝んないの」
リシオンは優しいくらいの嘲笑混じりに、ぞんざいなやり方で薄い肩を叩いた。ベシッと音がして、無抵抗なスピナは若干揺れる。
彼は己の腕力を承知していて、しかしこの手のことを好む。これがスピナには若干鬱陶しくて、僅かにモヤリとした。
「別にスピナちゃんがスピナちゃんのこと考えたって、何も悪くないさ」
「モヤリ」が即座に自己嫌悪へと反射された。
「あーまた……ちょい失礼」
「? ……わっ」
そこでリシオンが両横腹を掴み、ぐっと高く持ち上げるので、珍しく声が跳ねた。
「あの」
「回すぞ」
「あの」
「それいっ!」
「っ――!?」
不安定ながら幾度も回る。お互い平衡感覚があるので、苔に滑ることも酔うこともない。けれど、二十一にもなって『高い高い』されるなど、スピナには思いも寄らなかった。そして、遠心力任せで振り回すやり方はリシオンらしくぞんざいだけれど、「モヤリ」は生じなかった。
勢いを上手く殺しながら、ついに着地したころ彼女は呆けていた。
「ほい終わり」
「……」
「これ六年ぶりか」
小さく
左手で胸を抑えつけたこと、その情景を覚えている。
「しっかし軽いまんまだな。ちゃんと食わにゃいかんよ」
「あの」
「お、今度は何だ」
「……いえ」
「別にいいんじゃない」
「何も言ってません」
「『私このままでいいんでしょうか』って言うんだろ?」
手枕をいつものように、彼は移ろいゆく夕空を眺望していた。それとなく触れたい背だった。見つめると暫く経つ。
そういう背中がふいに回るので、気取られぬよう俯いた。しかし気取られているに違いなかった。スピナは目元をより伏せた。
「他人を自分より大事に出来るってのは、それほど美徳かねぇ」
「美徳だと、思います」
「だから自分が気に食わんか」
「私は、自分のことで頭がいっぱいになって、何もせず終わる自分が嫌いです」
「俺もだよ……つまりさっきのはアレだな、自己弁護ってやつだ」
彼はまたしゃがみこんで、俯く彼女の視界に入った。一歩退くけれど、リシオンはそれを意に介さず、剥がれ落ちた樹皮を拾って幼年のように土をかき回している。己の痛々しさが痛みになって、スピナはかつてのように胸を抑えた。
「ロードは多分、絶望して上手く行ったと思ってるんだ。いや、正解なんだろうけどな」
そんなとき、リシオンが唐突に不可思議なことを言うので目が丸くなる。
「よく、わかりません」
「俺の師匠によると、絶望ってのは悲しみや怒りもないんだと。前提になってたモンが全部なくなって、喜怒哀楽の基準もなくなるそうだ。で、前提がなくなると頭は柔らかくなるらしい」
「……わかりません」
「俺も分からん。さっぱり分からん」
彼は樹皮を捨て、かすを払って天を仰いだ。流れで目を閉じ、また膝を抱えて顔を埋める。あまり見ない振舞いだった。
「でも俺は、ロードがそんな風になるまで何も言えなかった。そこは確かなんだよ」
その語尾が絞り出すようにかすれていくので、スピナはまた目を丸くした。かつすぐ何か言わねばならない心地になって、言葉の激流が再開した。これが誰がための奔流なるか、彼女にはもう分かっていて、ふらふら零れ出す言葉が如何な様相であるかも予想がついた。
「私も、何もしませんでした」
スイと向けられる彼の瞳に、目を合わせられなかった。
「でもな、スピナちゃん、俺は言うべき人間として言えなかったんだよ。ロードがどうしようもなくなった時、俺は何も出来なかった……いや、言い訳くせえな。
何もしなかったんだよ、本当に。俺に言えた口かって自虐して、結局放りっぱなしだった。ロードはきっと、それを俺からの教育だと思い込んじまった。だから現状は全部俺のせいだ」
「それでも、私も言えませんでした」
「……ま、そうだな」
「私は自分を守ってばかりです」
「珍しく饒舌だな」
「自分のことなので」
ついに自嘲を始めた自分がどれだけ勝手な人間か、想像してやめた。この先はまたあの激流に違いない。
暗澹とした気分でおかしくなる直前、ふいに立ち上がるリシオンの影におののいた。
「そうだな。スピナちゃんもそろそろ、一個ずつな……何でヒラリオを出た?」
硬直した。
「弱くて優しい人といると、弱くなります」
「具体的に」
「……家族と」
「もうちょい具体的に……いや、いいわ」
彼はしばしばこのように、問答をしかける。何れも客観的には意味不明か、寧ろあまりにも直接的か、どうあれ聞かるる者には痛烈に違いないことばかりだった。
第一回答にリシオンが思案をしている。それを待つ心臓の押し縮む感覚、これを任意に引き起こす彼が少々は憎い。
「でもスピナちゃんはもうイッパシだ。自分で考えてどこでも剣技を磨けるだろ。どうして戻らない」
「酷いことをしたから、中途半端では戻れません」
「酷いことって?」
「去り際に家族を泣かせました」
「家族、ね」
リシオンは憂い顔をした。彼はこれも常々する。己の思惑を醜く、またお節介に思い自己嫌悪しているらしい。それでも言うあたり世話焼きに違いない。
そういった「大人の世話焼きたさ」というものを、スピナは彼から学んだ。
「んじゃ最後。何でルーク君を叩きのめすんだ」
「弱くて優しい人といると、弱くなります」
最後の一問だけはスピナを迷わせなかった。
「じゃ、全部家族のせいだな」
その割に返答が最も鋭利である。
「気に食わんか。でもスピナちゃんが言うのって、そういうことだろ?」
「……」
「だからロードが都合いいんだな。あいつ、強いから」
スピナはほんの少々、それこそ初めて王都を訪れた時と同様、家に帰りたくなった。
直後に想起したのは、征南将軍ドラム・アーガロイド・ヒラリオの眼光、あの激しい黄金であった。
「悪い……やっぱ俺、いらんお節介ばっかだな」
「いえ」
それだけはどうしても、即座に返したかった。
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