12. アンチ・アルコール③:私は酔えない

 アクラ・トルワナという少女はある程度分冷静であったから、やけくそのように引き返してのち律儀に裏口で待っていた。樹海より下り戻ってきた二人は二人してポカンとし、見合わせてからまたアクラを見つめなおした。背丈の都合、親が子を見下ろすのと同じ姿勢になる。


 リシオンは役割を感じ取って、ノスタルジックかつ愛想よく笑った。


「飯、一緒に作るか」

「はい」


 アクラは終始真顔だったが、返事はよかった。




「アクラちゃん、考えごとだね」

「はい」


 部屋にはトウカもローナも居なくなって、代わりにこの二人とスピナだけ、静かに家事している。


「スピナちゃん、何味がいい。決めて」

「……塩味がいいです」

「りょーかい」


 スピナはロード同様の家事無能力者なので、所在なさげにソファで読書した。台所の音声が大方かき消すけれど、時折静かになったとき彼女は、ページのめくれる「ぱらり」という音が響いて恥ずかしく思った。


「リシオンさん、このお米何ですか?」

「ミニ炒飯も作るの」


 彼が野菜をシャバシャバ混ぜると、部屋中に塩胡椒が香った。こういったとき鼻腔が音を立てるのは本能的で、けれどそれとは別に、振り返って笑うリシオンの悪ガキじみた笑顔は、やはりスピナにそっぽを向かせる。


「あの、私何すれば」

「別に何でもいいよ~」


 ぞんざいなのでアクラは困った。何せ、コンロの数とリシオンの技量を鑑みて、アクラの出番はない。「ぱらり」と音を立てる彼女の方を向けば、またそっぽを向かれてしまったので少し算段をした。


 直ぐ一個結論した。


「スピナさん、一緒に教えてもらいませんか」

「?」


 仄かに首を傾げる、彼女の髪はさらりと流れた。アクラは息を呑んだ。


 暫し見つめ合う。


「うん」


 ポンと本を閉じる低音が可憐なくらいである。立ち上がり首回しと伸びをする、その様が普段スピナの見せる静謐さと相反して、アクラは小さく「可愛い」と呟き漏らした。


「スピナちゃんも頑張る? ンじゃ、元台所番の実力をお見せしますかね」

「え、元台所番?」


 ふいな話が聞こえた。


「おう。君らが来るまでは、俺とスピナちゃんとロー……ドとジーナちゃんの四人暮らしだったのよ」

「先生がリシオンさんの家に住み込み、ではなくて」

「俺が住んだ。この家があんまり素敵なもんだから、俺から頼んだんだよ」

「本当ですか?」

「本当だよ……まぁ正直、気を遣ったところもある。ロードのやつ生活能力皆無だから」


 丁度スピナも寄ってきた。カウンターに手をついて覗き込み、一心不乱の静けさで一点を見つめている。万人脱帽の集中力だった。

 また、期待にお答えということなのか、リシオンはフライパン返しを披露した。


「うわ、すご」

「このコンロ火力ねーし、あんまやらん方がいいぞ」

「……?」

「スピナちゃん、こういうのはカッコつけだから」


 そこでアクラは勘付いた。


「もしかして、に料理教えたりしました?」

「まあね」


 ロードの真似をして、上達するべくもない。

 アクラは胸を抑えつけた。


「お父さんみたいですね」

「お父さんって」

「あと、お母さんも兼任ですね」

「どっひゃ~」


 彼は用意してきたらしい麺を開けながら、おどけながら、しかし表情はまたノスタルジックだった。その若者同然な容姿を確かめて、アクラは、それでも尚壮年に見えることを不思議らしく思う。


「まぁ確かに、色々教えたもんだ」

「色々、ですか」

「炊事洗濯掃除諸々、公の場での話し方、王都風の身だしなみ、大きな声じゃ言えない男の子と女の子の事情……あー、わりぃ。食事前、食事前」

「いえ、お気になさらず」


 ここらでまたスピナがそっぽを向いた。一切彼女から話していないのは間違いない。


「あ、じゃあウチにベッドが沢山あるのって」

「そ。今トウカ君……は使ってねえらしいけど、ルーク君とミレントが使ってんのは俺の。無駄にデカい上寝相悪いんでな、広いの買ったんだよ」

「じゃあ女子部屋のツインは」

「私とローナちゃんの」

「……なるほど」


 アクラはまた胸を抑えつけた。


「私、みんなを呼んできますね」

「うい」


 サテまた先刻同様の対面となり、スピナは煩くも穏やかな調理音を静かに傾聴することとした。その実また迷走せぬよう、無意識状態に努めている。しかしほんの直後、無為に過ごしていることを自覚し迷いだした。


「リシオンさん」

「ん、挑戦か」

「はい」


 リシオンは居場所を譲った。カウンターをノロリと回ってコンロの前に立ち、細い息を吐きおろすスピナを、こっそり横目で見つめる。


 彼女は雄然として取っ手を掴んだ。


「あ」


 てこの原理で米が舞い、胸元目がけて飛んでいく。


 神速の異名は決してこういう時のためではないが、予期していたらしく、異様なくらいに対応が早かった。無表情で声をあげもしないスピナのかわりに焦って、左手は彼女の肩・右手はフライパンの取っ手を白い手ごとひっつかむ。


 ぐい、ジャカジャッ、次いで足の付く音がした。果たして炒飯も人も無事だった。


「……すみません」

「いや、何か笑けてくるわ。ありがとな」


 腕と背でくるまれながら、けれどスピナの表情はピクリとも動かない。

 彼女はすぐリシオンの腕を抜け、そのうえ二歩後退し、細い息をまた吐きおろした。


「もうちょい穏やかにな」

「はい」


 廊下の方に小さな雑踏音があって、スピナは振り返った。剣豪の名をほしいままにするだけあって、足音を正確に切り分けすぐさま判別が出来る。そういう理由で若干早めに目元を揺らした。


「お塩とこしょうのいい匂いです……」

「ローナのリクエストかい?」

「はい!」


 ユラと現れ出でたロードは、無邪気な子を一人そばに連れて、さらうように盆を取った。


「……」


 台所番は調理に専念しているらしく、少しも振り向かなかった。


「リシオンさん、さっきの件は」

「もう出来る。座っとけ」


 肩でも叩くようにあげた手を、ロードは丸く脱力しながら、しかし理性ゆえゆっくりと下ろした。顔を伏せることもない。けれど目というのは正直で、下瞼を瞳が漂っている。


 スピナはまた言葉の激流に迷わされた。言葉は理性で、理性はことわりで、理は断る。世界を有限に切り分けてしまう力が彼女には憎く、言葉は安い代用品プロキシで、言葉にしたいのではなく伝えたいのだと言外に主張しても世界が変わったことはない。


『言葉なんて便利なもの、呪いに決まっていますよ。有限を積み重ねて無限に辿り着こうという無理を人間に強いる呪いです』


 万事些末事にするような穏顔で、かつてロードは彼女にこう言った。


 リシオンの受け売りでない彼の言葉はいつもこうで、しかしスピナにはこちらの方が馴染む。英雄的でいるのはリシオンだけでいい。彼は英雄で、彼だけが英雄であると、この認識はロードもスピナも同じくするところだった。


「リシオンさん」

「ん」


 英雄の横顔はすぐ近くで、不機嫌にしている。


「……」

「どした」

「……いえ」

「待つから」

「……」


 英雄の横顔。それにしては庶民的というのか、人間味が強すぎた。


「……」


 スピナは長い沈黙の末、一歩彼に寄った。意識を惹きつけるには十二分のことで、リシオンの顔をグルリと向けさせ、頭ひとつの身長差ぶん離れて目が合う。このとき彼女は、若い見た目で若く見えない彼の真実を、また英雄性と人間味すら併せ持つ理由を見出した。


 やはり目である。絶望した人間の疲弊と、なおも前進を己に強いる壮絶さ、それらをひた隠しにしようとして失敗している目こそ根源だった。


「何」


 スピナは澄ッと冷えて、言葉を紡ぎ出した。



 リシオンの、その多重で歪で優しい目がピタリと止まった。


「参った」


 すぐに閉じた、けれど彼は機嫌がよくなった。


「……すみません」

「怒りゃしない。ユーモアにキレちゃナンセンスよ」




 かつてリシオンの一人部屋だったという一室は今、ルークとトウカ、加えてミレントの寝床になっている。


「ルーク、お前、馬鹿なの」

「馬鹿なんだろうな」

「堂々とすんな馬鹿」

「そう見えるか」

「見える」


 虚飾、衒いはない。それこそ話であるけれど、専らルークは婉曲及び曖昧模糊を嫌う。真実を真実のままに、躊躇なく述べ上げることをこそ善しとする。彼はそれを己の弱点とも承知しているから、極力かつ自然なウィットの努力をする、だが根本は誤魔化しがたいものだった。


 つまり堂々として見えるのは、実のところ自然体である。


「いやお前、わかるだろ。昔付き合ってた相手に『そういうお前が好き』とか、普通言わんわ」

「お前は『普通』という考えが大好きだな」

「普通はそうだよ。普通は……で、何が言いたいんだ。僕たちの関係は特別とか言う気か?」

「特別でない関係などあってたまるか。モデルケースなど実在するべくもない」


 彼はこのように逡巡ない。


 ベッドの端に佇むトウカを、ミレントは縋るように見つめた。常のことながら洞察は素早く、若干増し目に微笑した顔だけを振り向け、穏やかさを小揺るぎもさせずに言う。


「復縁ってアツいですよね」

「トウカさん、ユーモアが毎度黒いッス」


 例のマルバツクイズが思い出された。ルークは運良く思い出さなかった。


「……まあ」


 しかしそういった冗談を止めにして、二人の間にすぅと入ってくるなり霧霞する。ミレントにそう感じさせたのは、暗い花壇のような冷穏さだった。常々易々、彼は雰囲気というものを塗り替える。


 そういう生態なのか、或いは意識的なのか。


 こう展開した議論はほぼ必ず、両方是と結論され、本例も恐らくはそれに漏れない。闇、ではなく影の静ケサ・恐ロシサを彼一人で内包していた。


「まあ、なんだよ」

「ここ暫くのゴミ溜めみたいな雰囲気よりはいいじゃないですか」

「うわ、やっぱ黒い」


 こちらは恐ロシサに違いない。影の恐ロシサというのは、畢竟するに鏡のそれ、射影と鏡像との違いである。


「別に僕は、誰かが言わねばならぬの心得で意を発したわけではない。ただの我儘だ」

「意図はどうあれですよ。誰かが望むところを言わねばならなかったんです」

「その代償が女子の涙数ミリリットルとは。過大だ」

「勿論のこと、代償はあなたも払うに違いありませんよ……ああ、あなたにとってが代償にならないと言っているのではありません」

「僕がより直截に支払うと、そう言いたいのか」

「察しの速さは流石の黄金ですね」


 トウカの言は、世の中の摂理を経験から抽出し未来予測の用具としている、というのではないように聞こえた。非本質的なブレ・些末事すらピッタリと予測してしまう、ラプラスの悪魔的算段に思われる。すなわち具体性を感じさせた。

 しかしこの観を持ったのはルーク・ヒラリオ唯一人だった。ミレントには前者として感ぜられ、むろんここにあと百人居ても変わり得ない。


「己の苦なくして望むところを得る、これを幸運という。しかしそれを期待するなら翻って、己の言行にかかわらぬ憂き目を、すなわち不運を受け容れねばならん」

「他人の行動を無償で変えようとするのは恥ずべき事で、弁舌ではなく業果を以て変えるべきだと、そうお思いですか」

「ああ、僕はやはり、どうしてもそう思う」


 ただしルークの予知は経験知に基づいた。


「……そろそろ行こーぜ、メシ」

「そうですね」


 ミレントは切り上げたかった。


「……ルークさん」


 トウカは影の静ケサで以て、ルークのすぐ目の前に寄った。黄金の中で瞳孔がギュゥと引き絞られる。ミレントが気付いていないのを側目し、ルークはそして、言を待った。


 曰く。


「感情を切り離しすぎです。それは強さではなく、弱さと恐れでしょう」


 瞠目はより、より瞠目した。


「環境依存の成分を取り除きたがるのは、耐久性と対応力がない証拠です。そうして貴方は一人になる。そうして僕の思惑が上手くいかなくなる。終には殺しますよ?」


 すべて耳元と口元のはざま、小さな空間での出来事である。


 トウカはそれをすっと広げ、妖艶か爽やかか、どちらとも取れる微笑みをいつものように浮かべた。ルークはその間ずっと脳裏で、降りかかった言葉を反芻した。

 隠者がローブを翻しながら向こうを向く。ルークはその背後を、正体を看破しながら睨むように注視した。小動物が猛獣を恐れるのに似ている。


 と、ノック音がする。


「はい、どなたですか」

「私」

「ああ、アクラさんですか」

「よしルークちょっと大人しくなれ」


 トウカとミレントの目配せは潤滑だった。


「おい、何をする気だ」

「何って、分かれ」


 ルークは面倒になって、かつ若干の乗り気で振りほどきもしない。


 その間にトウカが戸を開けて、向こうに立っていたアクラは、何故か羽交い締めにされているルークを疲れ目で蔑視した。


「なにやってんの」

「アクラさんどうぞ一発」

「好きなようにしていいぜぇ」

「誰がされてたまるか」


 呆れ笑いもされないので、ルークもそろそろ乗り気でなくなり、何かの武術の要領か、ソロリと羽交い締めを抜けた。ミレントはムッとせざるを得ぬわけで、そうあればルークも得意に笑って返すくらいのユーモアを見せる。これが彼女に溜息をさせた。ひとつの成功である。


「今日、リシオンさんがご飯作ってくれてるから」

「師匠に料理させてんのかよ!?」


 余韻する余裕はなかった。ミレントの疾駆足るや、鹿の逃げ足に比類して速い。


「あいつも難儀だな」

「難儀ね」


 重苦しい対面が残る。


「トウカ、行こう」

「そうですね、行きましょう」


 ルークは回避、或いは逃避した。男子二人組が共に行って数秒、アクラは、空気を読むとの言い訳で若干待った。


 相応程度分離れてから、トウカが小声をする。


「結論を聞かないのですか」

「急かすものか」

「普段のように話さないのですか」

「そんな欺瞞は腐れだ」


 「そうですか」と、返すトウカの語気は若干はやい。


 付記:リシオン作・中華定食は大好評を博した。




 満天が五月蠅い。


 星は夜を真っ暗でなくして、純黒を阻む。踏めば雫が跳ねて染み冷やす野原、星を映すその照り輝きを、私は垂れた頭で漫然と見ていた。


「……にが」


 ウイスキーをミニボトルで飲んでいる。こういうのは洒落ていて憧れる、けれど立派というのではなくて、寧ろ退廃的に洒落ている。そういう廃れた、最低なものであることが今は安楽に感じる。


 このまま氷って止まったようでいたい。出来れば末永く。


「アクラさん」

「ごめん、トウカ、ありがとう」


 トウカはいつもそうするように自然に、何も起こっていないのと錯覚するくらい自然にやってきた。彼はあらゆる方向に触覚を伸ばして、気を遣って、何もかもどうにかしようとする。


「トウカ、大丈夫だよ。私のことは私でなんとかするから、そんなに頑張りすぎないで」


 背後で小さな衣擦れの音がした。


「はい」


 それからまた独りになる。呻いて喚いてうずくまったことが嘘のように穏やかで居る。

 なんとまあ気持ち悪い。私は気持ち悪いのだと復唱に復唱を重ねた。勿論脳内で。音声にしたら喰われてしまう恐れがあった。


 私の最も気持ち悪いところは、自分がもう駄目で役に立たないことを、世界がもう駄目で役に立たないという、突飛な方向に転換したところだ。


 きっと普遍の価値をもつものなどない、そうなのだろう、けれどそう気付く過程が爛れていた。自分の無知と無能と無力すべてを自覚したとき、その無価値さを罪としないために、世界そのものの価値を自分の中で下げたらしい。抑制のない傍若無人さ、その意味で「爛れ」というのは最適表現だと思う。


 結論はもっともだけれど、証明過程が爛れている。


「あ」


 ボトルの蓋が手から転げて、直ぐ掴んだ。ウイスキーでべたつく。

 けれど一瞬でさらりとしてしまった。乾燥したのではなくて本当に綺麗になった。それは私の体質で、こういうわけだから、飲んだほうも端から浄化されていく。


 私は酔えない。


「……寒」


 私は酔えないなんて台詞も、五月の夜も、寒い。けれど返す返す、私は酔えない。酔えなくなった。これは酒の話ではなくて、価値観というものに酔えなくなった。語弊を避けると、能力的に出来ないのではなくて、酔うことを避けるようになった。今も何かしら思いっきり酔っているには違いない。


 少し前まで、何かしらの正しさに反していることを、たったひとつでも恐れていた気がする。今は反対で、正しさ・やらねばならない事を見つけた端から捨てて、もっと身軽になりたいと思っている。わざわざ背負い込みたくない。


「戻ろ……」


 議論の過程は逃避だけれど、結論は大方納得出来る。世の中に価値を保証されているものなどありはしない。逃避の先で醒めてしまった。

 なら何もしなくていい。私を叱りつけるものも、私を追い詰めるものも、私を憧れさせて引き摺り込んで打ちひしがれさせるものも、すべて無視していい。私の命もその輪の中にある。


 それでいい。酔うも酔わぬも自由なら、私は酔えないというより、酔わない。


『お前はその態度を、安定していて、氷結していて、冷静なものだと思っているだろう。だが僕には、流れぬ川が濁り淀んだだけに見えるぞ』

『きれいなモンを追っかけるのは、そんなに無駄なことかねぇ』


 満天が五月蠅い。


 意味がどこにもないのなら、そこを目指すも目指さぬも自由なら、私は目指したくない。走った先で黄金の太陽に照らされて、黒ずみとして浮かび上がるのは嫌だ。


「どうしたんだい、アクラ」

「……先生」


 背後からまた、声。とても軽い。

 今この時、この軽さの意味に気付いた。つまり気軽さだった。


 先生は左隣に立って、ウイスキーの匂いが気になるのか、長めに私の手元を見た。


「あぁ、すみません、ちょっとそういう気分で」

「そうだろうね」


 いつものお見通し気味な萌葱色の瞳は、どこか淀んでいて弱かった。弱々しいのではなくて、実際に弱い。きっと、リシオンさんを泣かせたのはこの人に違いない。


「先生、気を遣ってらっしゃいますか」

「いいや、星を見たいだけさ。そこに君がいたから何となくね」

「そうですか」


 そういう理由で、トウカのように追い返すのをやめた。


「一つ聞いてもいいですか」

「いいよ。僕は君の先生だからね」

「じゃあ、先生」

「はい」

「何に絶望したんですか」


 素っ頓狂なことを聞いたので、むろん先生は素っ頓狂な顔をした。可哀想なことをしたとすら思う。弱り目に祟り目がピッタリとくる。そういえば先生と星を見るのは二度目、あの時のようなので、あの時の仕返しをするのもいい。


「君は自分に絶望したんだろう」


 先生がそう言うので、「そうですね」と他人事のように返す。


「それとは感覚が少し異なる。僕は自分にも世界にも絶望した」


 そんなことだろうと思った。


「何があったんですか」

「今は話さないよ」

「私には話さないといけないでしょう。リシオンさんとそういう約束をしたんですよね」

「すぐ話すさ。でも今じゃない」

「レシーって子、というか、女神レシーランとどういう関係ですか?」

「……君はキチンと覚えているんだね」


 もう聞くほどのことでもない。この人はどういうわけか、水と美の女神レシーランの恋人だったのだろう、それも彼女は私にそっくりだったのだろうとここまでは察しが付く。それを聞いたのはやはりというか、どうしても嫌がらせだった。


「自分の失態のせいで死なせた恋人、というのが最適だね」

「女神様ですよね?」

「彼女、受肉をしたから」

「あー……」


 迂闊な人だったらしい。ただ、笑い話にならないオチを迎えたらしい。


「まあ『関係』って、先生との関係もそうですけど、私との関係はどうなんですか」

「よく分からないね。けど君、産まれた日に大雨でも降っていたんじゃないかい?」

「はい、まあ、そうですね。私のお母さんみたいな人が昔言ってました」

「みたいな人?」

「まあその話は追々」

「いや、大方察したよ。魂乞いの雨だったわけだ、時系列のズレも納得がいく……」


 眉間を抑えて何を察したのか、と迷うこともなかった。『魂乞い』なんて字面では。


「じゃあ私たち前世で恋人ですか。気まずッ」

「あー……大丈夫だよ、君とレシーとの分別は付いてるから」

「じゃあ私はもう、先生を殴らなくてもいいんですね。良かったです」

「あの件は本当にすみませんでした」


 話が逸れた。自分関わりのことを聞こうとして逸れた。

 こんなことだから人と関わるのもやめにしたい。どうやっても私は私の枠から出る事が出来ないのだから、他の人はどうやら『普通』に出来るらしいそれが私にはさっぱりだから、すべて止めてしまった方がいいのだと思う。


 ただしこの人相手だとどうでもいい。舐めているのではなくて、私と先生とはそういう関係であるべきらしい。


「……アクラ?」

「何ですか?」

「いや、急に黙るから」

「先生の誠意不足な謝罪に呆れていたんですよ」

「具体的な形を求めるタイプか」

「無論です」

「ふむ……」


 思案が一拍。


 先生はいつもの外套を翻しながら脱ぎ、そのはためきで一瞬寒いと思ったら、次の刹那に私はそれを羽織っていた。


「……これは女性を口説く手順じゃないですか?」

「それはまずいな」


 温かい。そしてそれを「まずい」からといって回収されることはなかった。

 私は呆れ返ってしまって、軽い苦笑をした。


「先生、先生の話をしてください」

「自分の話をするのが痛々しいから?」

「うわ」

「いいんだよ、君は生徒だから」

「……まあでも、話してください」

「わかった。でも今じゃない。僕が自分に絶望する過程は今言った通りだ、そして世界に絶望する過程はまた今度話そう。でなければ、君がいざその絶望に突き当たった時、すぐ客観視できてしまうからね」


 そういう先生だった。この人は殆ど自分から何かを話そうとしない、生徒にはただ直面することだけを望んで、聞かれた時だけ何でも返答する。解答を呉れるわけではないけれど。


「アクラ、ちょっと立派な話をしよう」


 この人が自分から話したがる、ということなら、私は心痛を抱えることになるだろう。


「はい、お願いします」

「価値の決まったものはない。というのなら、価値がないと決められているわけでもあるまい。そういうわけだから色塗り自由だ、何が鮮やかであるかは君が決めるといい」


 それはつまり戦え、と言うより戦うか選べということだった。


「ただ、酔い散らかすと二日酔いが酷い。僕なんていつもそうだ。けれどそれでもと言うのなら、自由にしなさい。

 恐れをなすも挑みかかるも、すべて君の自由だよ。証明されたのは無価値でなく白紙だ。つまり自由だ」


 響きがよくなって聞こえた、けれど、凄惨にも聞こえた。


「先生」

「はい、どうしたの」

「私はルークが願うような、キラキラしたものにはなれません」

「誰もなれないね」


 先ほど心痛と言ったけれど、誤謬だった。何かを中途半端に捨てられないでいると、この人の言葉は痛い。冬の硝子窓のような言葉は、指で好きなように線を書くと、滑稽な弱々しさだった。


 つまり弱くはない。


「そういうわけなので、私のためにルークを裏切ります」


 多分にルークはどこか壊れる。六年間の経験値が言うところによれば、大変なことになる。けれども私のために裏切る。


「つまり、君のための戦いをするわけだ」

「そうなんですかね……はい、多分そうです」

「そうか」


 先生は星に満足したのか、帰っていく。

 そのすれ違い様、囁かれた。


「僕は御免だけどね。まあ、頑張って」


 呆れるような口ぶりだった。

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