10. アンチ・アルコール①:故に絶望を旨とする

「申し訳ございません」


 翌日のブライジンは不機嫌だった。根本第一因は、よい狩人になると踏んでいたアクラ・トルワナが最終日前日だというのに無断欠席をしでかしたことだけれど、それによってリシオンの不吉な予感が当たってしまったことこそ最大の苦だった。人を見る目において若しくはそれに限り、彼を抑えてきた。


「ブライジン」

「何だ」

「露骨にそういう顔すんな。終いにゃガキに当たり出すぞ」

「分かっとる」


 リシオンはこういった、自分に向けられる悪感情に感情をぶつけない男だった。嫌悪・愉悦のどちらもせず、無関心でもいない妙なバランス感覚で以てノラリクラリと捌くのが得意技らしい。憎みきれない人間性をしている。


「アクラちゃん、この業界で師に謝罪させるってのがどんだけ重いかわかってんのかね」

「わかってねえからやるんだろ」


 ロードは二人の目の前であまりにも深々と頭を下げて、何かしら待っていた。


「ロード・マスレイ、お前んとこ、一体どうなってやがる」


 彼は故意に険を含ませた。沈黙だけが返ってくる。


 染みてシワがある中年特有の無骨な手を、薄いロードの肩に乗せた。ロードはその綺麗な顔を「す」と上げて、真顔よりは少し萎んで、しかし師の教えに従って目を合わせた。このときルークに言ったようなことを回想して、その皮肉が返ってくるのを鳩尾あたりに感じた。


「どうなってやがる、じゃ答えられねえか?

 そりゃそうだ。素直に『酷い状態です』なんて言やぁ、俺は『他人事みてぇに言うな』とぶち切れる。かといって『私の責任です』と言やぁ、『どうなってるか聞いてんだ』とぶち切れる。で、両方言やぁ『長ったらしい、言い訳がましい』とぶち切れる。詰みだ」


 彼の眼差しにロードは辟易しながら、イヤこれが本来の世間で、僕があの山の家に籠もって逃げている世界なのだと自省した。


「そうだ、詰んでんだ、お前は人をキレさせてんだからな。理不尽だってんなら俺の目の前から消えろ」


 胸の奥にふつふつ沸くものを抑えたのは、ロード・マスレイの三年間という蓋に他ならない。


「お前のことはリシオンからよく聞いてる。何もかも無意味無価値だと思ってんだろ?」

「はい」

「なら死んじまえ。何故出来ない」

「死ぬ意味もないからです」

「いいやお前はな、自分にとって価値があるもんなんてとっくの昔に知ってんだ。そいつを失って傷つくのが怖いだけだ」

「……」


 舌打ちして「気に食わん」と吐き、肩を放し、右のリシオンを睨んだ。

 横目を走らせて更に右、スピナを見て、その沈黙に嘆息した。


「で、リシオン。お前の教育はどうなってやがる。てめぇは弟子から社会性を奪う病気なのか?」


 最後に全員を俯瞰するようにして、誰にも憤慨の感が見られないのを十分に感じ取ってからまた嘆息し、落とした肩をついでに揉みながら、いつものメガホンをのっそりと掴み上げた。


「五分後に個人練習を始める。スピナ、ロード、先に散れ」


 返事は淡白で、弱々しくはないけれど、空気と同じ温度であるかのように霞んでいる。ロードはゆっくり目を背け、揺れながら、そう高く感ぜられぬ背中をとぼとぼ遠くしていく。追随するスピナは甲斐甲斐しい有様だったが、ブライジンとリシオンは頭を抱えた。


「あいつらは怒ることも出来んのか」

「ひょぇ~」

「茶化すな。師匠にこんだけ言われて眉一つ動かさねえやつなんぞ、俺は気に食わん」

「そこで『俺は』って入れるあたり、お前、いいやつだよ」

「抜かせ」


 リシオンの笑顔にも虚無が眠っていた。春の陽光にとけてなじみ、消えてしまいそうなくらい力ない。

 ブライジンは歯ぎしりした。彼の神経を最も逆なでするのは、正しく、この弱者じみている笑顔だった。


「どうすんだ」

「あいつの弟子に俺が何かするわけねえだろ」

「たりめえだ。俺は、ロードに何か言わねえのかって言ってんだ」

「あぁソコね?」

「茶化すな」


 気にくわない頭を掴んでぐるぐる回す、リシオンの方は「あぁあぁ」と唸って、結局真に受けなかった。ただしそれが外見上の問題であることくらい、腐れ縁の都合分からぬこともない。


 それで放してやると首回しをして唸るので、溜息がまたひとつ増える。


「取り敢えず、今日ロードんち泊まるわ」

「明日実地訓練だぞ、打ち合わせどうすんだ?」

「しゃぁねえじゃん、自分の弟子がああなんだもん」

「どっちも解決する方法を考えろ」

「無茶言わないでぇ」

「無茶でもやらなきゃいけねンだよ。頭回せ」

「ひょぇ~」

「茶、化、す、な」


 もう一度ぐねぐね回してやると、また「あぁあぁ」煩く、何をしても無駄と悟ったために解放は早かった。


「よし、全部ブライジン君に投げよう。解決っ」

「最初からそう言え」

「え…………イヤほんと、悪い」

「馬鹿、そこで茶化すんだよ」




「リシオンさん! こんにちは!」


 迎えるローナの表情は、夕方のもと元気いっぱいに輝いていた。リシオンは面食らってから明るい赤毛をわしわし撫でた、そして軽く髪を整えなおすと、彼女はやはり無垢に笑ったままでいる。心拍を安らげ温める、角がない、ローナ特有の振舞いだった。


「急に悪いね」

「いえ、全然……わぷっ!」

「うりうりうり~っ」


 笑顔を両掌で挟み、餅のようなので、糸巻きよろしくこねくり回した。唸っても可愛らしいあたりローナらしく、けれどリシオンの笑みはどちらかと言えば暗い。目を下に伏せて細く息を吐いていた。


 解放するや、ローナは一歩引いて警戒をした。


「もう、何するんですかっ」

「よし。今日の晩飯は俺が作る」

「え」


 それがすぐ目を丸くして、無警戒に返った。


「そんな、悪いですよ」

「いいから。何がいい?」

「いえ、ですから」

「作ります。はい決定。まだこの時間は準備してないだろ?」

「まあ、そうですけど……」


 ローナは左右にチラチラして、必死に断るというより自己抑制している風合いだった。


拉麺ラーメンがいいんだろ」

「うっ」


 そこでこう言うとローナは実にわかりやすい。厳密に隠していたことを暴かれたような顔で、驚かす側に驚かしがいのある驚きぶりだった。


 のため、リシオンはバッグを漁った。


「でも、リシオンさんって本格的にやるじゃないですか。麺とかあらかじめ……」

「ほれ」

「え、うそ!」

「こちらに用意しておりま~す!」


 大きな真空パックにたっぷり用意した麺をこれ見よがしにする。


 老練のリシオンに、若輩者は完敗を喫した。


「久しぶりにリシオンおじさんの手料理、ご馳走してやる」


 それで黙ってリシオンを通すと、背後からスピナも現れるのでローナは仰天した。


「へぇっ」


 ただ急に現れたから仰天したのではない。というのも、夕空を返照する白金髪のきらめきが息を呑むほど麗しい。同じ色の瞳も同じように色づいて、絹の肌など、普段淡白な彼女の頬が赤く染まるようだった。黒々と伸びる影ひとつでも、その形から、彼女の美麗なることがわかる。


 ローナの中でスピナとアクラは、美の別格として横並びしていた。しかし夕映えの美しさならあのアクラですら叶うまいと、何故かローナの鼻が高くなった。


「スピナさん、こんにちは」

「こんにちは……お泊まりするね」

「はい。それはリシオンさんのお電話で聞いてますよ」


 一方、先に部屋に入ったリシオンは呆れていた。部屋はローナともうひとり、トウカがソファで読書をしているだけだった。


「よっ、トウカ君」

「リシオンさん、こんにちは。お疲れ様です」

「他の連中は?」

「部屋に籠もってらっしゃいますよ」

「そうかい……トウカ君」

「はい?」


 トウカは珍しくも緊張をした。広いソファの真ん中に陣取ったものだから、右にリシオン・左にスピナの布陣を築かれ、やはり計算高いトウカには珍しい不手際だった。


「トウカ先生、どう思いますかね」

「先生ってそんな……どうとは?」

「今の状況よ」

「僕も渦中にありますから、客観的にものを言うのはちょっと」

「君はいつだって俯瞰してるよ」


 トウカはこの時またしても、かつ今まで彼らに見せた中でもなかなか上位の動揺をした。それは硬直、沈黙というかたちで現れて数秒経つ。リシオンは合わぬ目と目を合わせ、トウカの穏和な返答を待った。


「君にゃ聞きたいことが色々あるんだが……まずは、どうよ」

「ええとですね」

「どう」

「スピナさん、あの、近いですよ」


 照明のある部屋で顔に影がかかるほどズイと迫る。スピナの下手なところはこういう距離感だった。


「……いろんな問題が絡まりすぎです」

「どう整理する」


 トウカはローナの方をチラと見た。レモンティーを用意している、その「チラ」が数秒に延びる、気付かれぬあたり隠者の面目躍如である。ともかく言うに憚ることを無言で示して、代わりに胸をはって息を吐いた。


「世界で一番澄んだ川が濁ってしまったら、その川を愛する人々はどう思い、そしてどうするでしょう」


 リシオンはこの一言で、今のところ如何なる状況か、大体すべて把握した。


「切羽つまってんだなぁ」


 と、このように言い切ったところでローナがいつもの如く、レモンティーを人数分用意してソファにかけた。リシオンと肘掛けの狭い間に割り込むようにして、何となくスピナが外へと押し出された。


「……」

「あ、ごめんなさい」


 ローナが退こうとしたとき、


「こら」


 リシオンはその手を軽く取って、そのまま座らせた。


 間を詰めると案外に収まりよくなった。


「えっと」

「優しいのはいいんだけどね、ローナちゃん、自分の一番は自分でいいんだ」


 おどけ顔のリシオンと目が合い、一瞬泣きそうな顔になったローナは、しかしすぐに薄い笑顔を支えなおして、そういう振舞いが余計に沈痛で、静かになった。


 リシオンは背を反らせながら手枕し、茫とした無表情で天井を仰いだ。シワはなくとも年齢分の懐古が彼にはあって、それを三人に気取られぬようさっさと済ましてしまうあたり、性分が出る。


 次いで伸びの延長・反動任せにソファを立つので、左右のトウカとローナは軽く揺られながらも目で追った。


「悪い、俺が言うモンじゃないな」

「いえ、ありがとうございます」


 スピナは追随して立ち上がろうとし、躊躇した。リシオンはやはりむやみに気付き、伸びから下ろした右手は後頭を掻き、左手は腰を掴む。寝起きのように唸るので、沈黙を誤魔化す風合いになった。


「ロードの部屋行ってくる。飯の時間になったら呼んでくれ」


 立つか迷うスピナを手で制してから、トウカとスピナの前を横切って、いつも真っ暗な廊下に踏み入ると軋む音がした。見ると湿気ていて、あまりよくない。


 キィキィ言うのを半ば面白がりながら行く。

 六つの戸の一番奥、左の方を手の甲で叩いた。


「どなたですか」

「俺」

「ああ、それはまた、お出迎えせず失礼しました」

「いいか」

「どうぞ」


 入るとやはり暗い。ロードは机の上に蝋燭をひとつ置き、手元の明るさだけ頼りにして何やら書いていた。


「電気付けろよ」

「あまり明るいと集中出来なくて」

「田舎暮らしの癖が抜けんか」

「まあ、そんなところですね」


 紙は羊皮紙らしく、また、筆記用具も独特だった。鉛筆の芯だけ抜いて太くしたような棒を、もともと白かったに違いない煤けた布で包んである。彼の優雅な振舞いとの対照が強烈で、リシオンは乾笑を漏らした。


「明日の準備か?」

「はい」

「便利に使われてんな」


 笑み返しながら、丁度書き切ったらしい。太陽に似た構図の魔法陣で、円の内側には複雑な紋様が書き込まれ、周りには放射光の代わりに、旧音アルファベット横書きの呪文が三十数個編んである。


「これ全部同時起動すんの? この呪文要るか?」

「それを抜くと時間差が出るんですよ」

「ちゃんと考えてんだな、悪い。流石は世界最高の魔法使いなだけある」

「おかげさまで」

「まぁそういうこったな」


 暫くケラケラ笑い落ち着くと、ロードは羊皮紙をマドレーヌ型のように折り、何やら唱えた。すぐに書いた部分が5ミリほど浮き上がり、リシオンは「へぇぇ」と唸った。


「さて、タライタライ……」

「それならあっちに」

「サモン・タライ」


 ボォンと音を立て、タライが現れた。


「イヤそんなことに幻想を」

「サモン・ウォーター」

「どわっ!」


 さらに水をドウドウと注ぎ込み、例の羊皮紙を無造作に落とす。

 蝋燭に跳ねたらしく、フゥと火が消えた。


「部屋とか服とか濡れるだろ、ズボラしすぎだ……お」


 すると数秒の後、羊皮紙はプルプルの皮になってしまい、しかしあの黒く浮き上がった部分が残る。紋様は途切れなく、呪文は筆記体のため、すべてひとつの塊となった。


 水を止めてやはり無造作に拾う、それが満足な出来なのか、ロードは微笑した。さらに水を落とすと黒鉛も落ちて、古代の冠のようなそれは透明に輝いた。ダイヤモンドに相違ない。


「それ、何に使うんだ?」

「明日までのお楽しみです」


 口に指を当て悪戯っぽくするロードの後ろに、満月の光が差す。紫髪の照り映えよう、光る輪郭、うっすら見える端正な顔立ちがむやみやたらと美しいので、リシオンはまた乾笑した。


「ところで、どうされたんですか? 何かお話があるようですが」


 彼が指を弾けば水もタライも消えてしまって、ダイヤの冠を机に置くと月光を透き通らし、プリズムのようである。


「エー、こんな綺麗なモン見た後だしなあ。気分じゃねえや」

「ということはお叱りですか?」

「今んとこは質問だよ……やっぱ言うか。アクラちゃんたちのこと、ほっぽってんのか?」

「そのことですか」

「まあ座ろうや」


 リシオンが言うとロードはまた「サモン」を口にして、ズボラにも椅子二つを呼び出した。


「で、どうなんだ。ちゃんと色々言ってやってるか? ま、何か言えばいいってもんでもねーけどさ」

「そうですね……目を逸らさないようには、させています」

「ならいい。俺はてっきり、放任してるのかと思ったよ」

「弟子を取るぶん援助金が出ていますからね」


 この間、当然かついつもの如く、目を逸らさない。


 リシオンの微笑は段々と解けて、つまらなそうな真顔になっていく。ロードも合わせたので、珍しく穏やかではなかった。


「じゃ、もう一つ」

「なんでしょう」

「お前の絶望を押し付けてるわけじゃないな?」


 ロードはこの時、少しの間ながら唖然とした。


「絶望を押し付ける、ですか」

「おう」

「絶望したら逃げられぬよう抑えている……というのが押し付けなら、そうですね」

「どういうことだ」

「絶望したことのない子供なんて、無能で厄介なだけですから」


 しかしリシオンはロードなぞより余程酷く仰天して、暫く硬直し瞠目し混乱し、己の言葉に少しも揺らぐ様子のないロードを恐れた。逆光で見えぬ彼の顔は、しかし悪魔の萌葱色だけ煌々としている。


「ロード、あいつらがずっとあのままでもいいと思うか」

「いえ。ただ、僕が何か素敵な言い訳を用意してやるのは違うでしょう。自分で用意してやっと、信念と呼べるものでしょう?」

「お前」

「信念というのは別にいい言葉じゃありません。ただ、それをと分かっている人間の『信念』なら話は別……というのが、僕の考えです」


 リシオンは瞠目のまま、気を落ち着けるようにしながらしかし落ち着かず、椅子を倒しながら立った。引っ掴むのをジッと堪え、唖然とする心に乗せて口を開いた。


「お前、どうしてそんな、わざわざ酷い大人の役なんか」

「それが仕事だと思っています」

「そんな捻くれた……」


 悪魔の瞳は本当にキョトンとして、迷い無かった。リシオンの思慮が嫌に暗くなる。


 急に笑うロード。

 そして、悪寒に震えた。


「……あっ」


 ロードがそう声をあげたとき、リシオンは蒼白していて駄目だった。


「リシオンさん、違いますよ。決して」

「いや、いい」

「僕は」

「いいんだよ、本当に」


 耐えきれず部屋を出る。ロードは追わない。


 洗面所の戸を蹴破るようにして、大げさなくらい急いで蛇口をあけた。


「ちくしょうッ!」


 掬った水を顔に打ち付ける。


 打ち付ける分だけ、彼の目元から熱が奪われていく。それでも止まぬ病症のような熱塊を、必死に流し出そうとしても及ばなかった。

 水量を増そうと蛇口に手を伸ばしたが、力は抜け手は震え、シンクに腕をついた。


「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……!」


 鏡を見るに、酷い顔だった。


「……ちくしょう」


 項垂れると熱はまだ零れて、もう誤魔化しがきかないくらい眦を赤くしていく。洗面台に溜まった水がズゴゴウと流れる、その音がやけに落ち着かせて、荒ぶる心臓と肺を少しずつ治めた。


「結局全部、俺のせいじゃねーか……じゃねーよ、馬鹿」


 不意に後ろから足音がした。


 振り向いて、しまったと思うけれどすぐに安心をした。


「……何泣いてんだよ、アクラちゃん」

「それ、こっちの台詞ですよ」

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