09. ディストーション

 密林は暗澹として、微かに踏み分ける音、青い光がぽつぽつと目立った。普段の灯りを殆どすべて落としてしまうと、ブライジンの企図通り夜同然になって、月明がわりの仄かな光だけが頼りになる。


 ところがと言うよりはやはり、我らが閣下はこれを全く以て苦にしなかった。


「白磁斬」


 黄金に閃く横凪でふたつ、青がふっと消えた。


「あー、だめだ」

「っちゃー。閣下に見つかったらもう、駄目ですね」

「そうか」


 卑屈なことを言う少年少女を前に、彼はまともな返事をしなかった。

 冷たいと評するのはあたらない。ひりひりと静かに、しかし熱をもっている。こんな様子を看取った二人は見合わせてから、音を立てぬように歩き去った。


「……」


 一人だった。今日は各人組むも組まぬも自分で決める形態で、ルークは結局一人を選んだ。ミレント・アーラは確かに最適の相棒に違いない、けれど彼という男はどうしても孤高だった。となれば口数も減り、不定形に煩悶することが増した。


 どの思考も他人に求める話ばかりで嫌になる。


「ルークさん、こんにちは」


 焦茶のローブが視界に入って、すぐ。


「トウカ……ということは、時間切れか」


 終了のブザーが鳴った。


「今日こそ見つけたかったのだがな」

「そう簡単には捕まりませんよ」




「んっ」


 給水所の一杯を、ルークは大胆に、殆どひっくり返すくらい立てて飲み干した。


 コップを置いて口を拭う、その仕草の色香たるや男女構わず惹かれ、漏らす息の音に皆ぞくりとした。こういった理由で彼は嫉妬されず、ただ平伏す心をかき立てるのである。


「はぁ……トウカ」

「はい?」


 対照的にゆったりと飲み干す彼を、誰も視界に入れない。不自然な格好をしているのに不自然なくらい注目を逸らしていた。隠者の恩恵は態々、日常でも発動しているらしい。


 閑話休題、トウカはルークの煌びやかな瞳に注目して、不思議気な真顔をした。


「お前は世界についてどう思う」

「世界ですか」


 今度こそポカンとした。


 微笑に戻るため、少しおいて曰く。


「世界について考えると、大体鬱々としてしまうので考えませんね」


 ブルーシートに移り三角座りで横並びすると、ちょうど森林区画で焚き火を囲んだ時のことを想起させた。

 生じるルークの停止を、トウカは無言で流した。配慮に気付かせぬよう息をひそめ、しかしルークほど鈍さから遠い人間もいないため、切ない笑いと視線で謝意を表した。


「まあ、一考察ないことはありません」

「では教えてくれ」

「なんとまあ、わざわざ言う段になると気恥ずかしいですね。代わりと言っては何ですが、あとでルークさんの話も聞かせて下さい」

「応」


 返事を聞くと、トウカはもったいぶるのを止めた。


「音楽です」

「オンガク?」


 声を荒げはしなかったが、ここ最近のルークにとって最上の仰天で、目が大きく丸くなった。


「そんな顔をしないで下さい」

「すまない。まさかお前がロマンチストだとは思わなかった」

「だから気恥ずかしいんですよ。世界を粒子と運動量に分解して考えられないんです」

「悪いことではなかろう」

「究極的には非現実的でしょう……しかし、僕は旅をしてきました。とても長い旅をしました」


 優しい彼が、どちらにもそっぽを向かない彼が、つまりどの方向にも向いていない筈だった彼が、一つだけ向きを持ったように感ぜられた。

 何かを志向することはその真後ろにあるものが見えなくなることで、彼はそういった盲目の特徴を示さなかったから、誠にフラットな有り様を想起させた。けれど今、トウカは情熱を露わにした。


「どこも美しい形をしていました。そうやって色々なところを巡るだけ、世界には心があって、屹度きっと総合的に幸福であるよう不思議な力で回されているのだと思うようになってしまったんです。そういう調和が、僕には音楽に聞こえました」

「そうなると、かえって現実的かもしれないな。個人の思考についてなら、経験知は論に勝る……だが非現実的というのもわかる。世界が何かして呉れるという価値観だからな」


 ルークはこの時やっと、彼の企みに気が付いた。


 確かに彼は己の世界観について嘘をついていない、それは瞳の示すところから明らかである。しかし彼の意図するところは、ルークの考えと真逆の話をして、その閉塞した胸を開こうということらしい。ルークは毎度鋭かったが、そんな自画自賛よりも彼の手練手管が恐ろしくて舌を巻いた。


「お前は苦労してきたようだからな。自分で出来ることを限りまで積み上げても足らなかった、だから最後は世界と他人に期待する他ない。そうして出来上がった思想だろう。

 ……ああ、無力だと侮蔑しているわけではないのだ。寧ろ天命を待つところまで人事を尽くしたのだろうと、そういう意味だ」

「わかっていますよ。しかし、貴方という人は鋭すぎて困ります」


 そうして黄金の君は膝を抱え込み、若干唇を尖らせてむくれた。


「僕はまだ人事を、自分に出来ることを尽くしていないのだろうな」

「ではルークさんの世界観を聞きましょうか」

「そうだな……先ほどの話ではないが、僕は世界を粒子と運動量に分解して考えている。世界の正体はそれであって、各人その上で何をするか、勝手に決めるのだ」


 二人は相反した。ルークはひとつのロマンを蹴飛ばして、非常に冷静な世界観を語った。

 また反応も違って、トウカは相手の意外性に瞠目することもなかった。


「何事にも驚かないのだな、お前は」

「まあ、積極的ニヒリズムというやつですから」

「そうなのかもな。万事無意味であるから、各人の妄想で生きるしかないと、そういう話は確かにしっくりくる。そして、そうであるなら未来の決定権は世界ではなく僕にある」

「だからルークさんは天命に委ねず、すべて自分で選ぼうと言うのですね」

「ああ……だが駄目らしい。自力で超えられるものとばかり戦ってきたからこうなのだ」


 けれど果たして、ルークは短い嘆息をした。


「世界が理想的でないことは覚悟していた、しかし独力で変えられぬことを覚悟していなかった。そうして今変えられぬものに突き当たっている。僕一人ではどうしようもない問題があって、その時他人に頼るという思考にやっと至った。しかしそれが困難だ」


 回想はつい昨日のことの如く、あの雷虎の血飛沫の瞬間まで遡っていく。


『司祭が死んだから、再選しているんだよ』

『ほら、そんなことをするとケモノが枯れるだろう? せっかくの資源が採れなくなってしまう』

『君はいいやつだね。僕たちは彼らにさんざっぱら酷い目に遭わされているんだから、躊躇わず資源にしてやればいいんだよ……なんて言ったら、君は一番苦しいのかな』


 絶望の言葉を読み返した。


「ルークさんに人を頼らせるほどの局面が、世界に不足していたんですよ」

「それでもあったはずだ。僕はそれに挑んでこなかった。だから今、他人の力を借りるに不器用で、結局逃げた。頼らぬことを誇りにしてきたのがまずかった」


 渦巻くものから目を逸らしたけれど、目を逸らしていることから目を逸らせない。ルーク・ヒラリオなる英雄は、その手の回避をこれまで一度もしてこなかったため、数百トンの液体で全身ピッタリと氷結されたように、一切の身動きができなかった。液体とは彼の血に相違ない。


「しかしお前と話していると、かなり気が休まる。万人の相棒と言うのかな」

「……僕のような裏切りっぱなしの人間を、相棒なんて呼んではいけません」

「お前の過去は知らないが、その正体と心根は知っている。信頼に足るぞ、お前は」

「ありがとうございます」


 そこにふと、白金髪が見えたのでルークは顔を上げた。


「姉う」


 傍らにロードが立っていた。


「……」


 ロードが治癒師ヒーラーの少女にものを教えているので、しげしげと眺めているらしい。バーバラ大学が是非にと招致するだけあって、彼の教鞭は卓越している。指導初心者であるスピナの観察はひどく深い。

 彼の視線をよく見ると、時々チラと生徒から目を逸らす。その先はスピナ、ではなくリシオンだった。リシオンも遠目に見ながら、ロードの教え方について幾分かの考察をしているらしい。善しとしているか悪しとしているか、てんで知れない。流石の厭世家も師の目は気になるようだった。


「姉上……」


 スピナはそんな心情の揺れ動きなどつゆ知らず、一途にロードの言葉を聞き、身振りを分析していた。


「スピナさん」

「何」

「彼女が無用に緊張してしまうので、あまり見ないであげて下さい」

「じゃあこの子は見ない」

「僕だけ見るのは勉強になるんですかね」

「成長記録?」

「……そうですか」


 スピナは言葉通り、指導の様子というよりロード個人をじぃと見るようにした。むろんすぐ横におかしな人がいるのは変わらぬため、少女は強ばったままでいる。


 呆れつつ、指導を止めない。

 ルークたちもその傍観者になった。


「リシオンさんもスピナさんも、なかなか職務怠慢ですね」

「まあな」

「……お姉さんのこと、大事だったんですか」

「姉でなかったら結婚していた」


 横でくすと笑いが起こり、しかしルークは不快感を示さなかった。


「お前は本当に驚かないのだな。ミレントなど、昨晩話したら酷く仰け反りおった」


 寧ろ安心するように笑って見せた。


「ああ、幼少期の心持ちだぞ? ……だがまあ、場合によっては、今もきっと同じ思いだ。そして権力を持ったら、無理矢理血縁から外しただろう」


 彼の見つめる先でスピナは、術を上手くいかせた少女に笑いかけるロードをじぃと見て、途中耐えきれなくなったのか、あまりにも僅かな笑みを漏らした。リシオンもそれを見ると、半ばだけ笑って別の学生を見に行く。


 ルークは穏和な表情を保てなくなった。


「場合というのは、アクラさんと出会わなかった場合ですか?」

「……それを言うか」


 この言葉は一瞬間のみ彼の穏和を取り戻させて、しかしすぐだめになった。


「人であれ物であれ、アクラに比類する美しさを見たことがない」

「そうなると、理想を押し付けたくもなりますか」


 首肯だけで返答した。


「しかしそんな、他者に期待するやり口は自分に許せないと。どうしましょうか」

「どちらか捨てねばならぬと分かっている。片方を、片方だけを選ばねばならない対決の時がついに来たのだ」


 「来てしまった」とは言わぬ彼だった。恐ろしい戦いに震えることを武者震いと呼ばねばならぬ、武家に生まれた彼の性分である。そういう狂気的な独り善がりはきっと、彼の天性の才にすべて噛み合って、道筋を乱すことなく今に至る。


 トウカはそんな彼がどこかにそっぽを向く、その瞬間を横で眺めていた。


「捨てるのは苦手ですか」

「ああ、すべて欲しい」

「そしてそうして来られたと」

「そうだ、だが、今選ばねばならない。そしてもう決めてはいる。孤高などという格好付けた文言を、そろそろ返上する」


 ルークは徐に腰を上げて、帰り支度を始めた。もう他は先に帰ってしまった。共に帰らぬ彼らだった。


「ああ、一応ひとつ」

「何だ」

「ローナさんのこと、無下にしないで下さいね」

「分かっている」

「そのうち酷いことになりますよ」

「……分かっている」


 それで山の家に帰り、ローナの作る夕食に舌鼓を打ち、烏の行水をする。ルークはその間ずっと反芻をしていた。アクラに告白したとき以来だと思い出せば、心臓が握りつぶされるくらいだった。すぐ、ケモノと初めて相対したときの恐怖だと思い直して、スンとする。彼の不器用は今極まっていた。


 もう呼び出しはしてある。




 僕は疑いようなく、多数の他人に支えられてきた。分かっているし、覚悟しているし、忘れてはならないし、感謝などという生温い熱量で表現してはならない力が働いているのだろうと承知している。


 しかし、進んで誰かに頼ることなど僕にあってはならない。あってはならなかったと言い直すべきか。とかく、結果として他者に己を握らせる、その情けなさが許せなかったのだろう。

 自分の努力で人を動かすのはいい、だが、何の努力もせず頼むだけでいるのは許せない。けれど、そうせねばならぬ苦境がいつどこにでもある。それに挑まなかった僕の臆病、情けなさから逃げる情けなさこそが真の敵だった。

 挑まずにすんだのは、僕が言わずとも支えてくれる人があまりに多かったからなのだ。アクラ・トルワナがその最たる人であることを忘れてはならない。


 純白の壁を、今日は、所詮温室育ちと罵りながら泥に沈めようと思う。

 これこそ僕に足らぬものだったのだ。




「ルーク?」

「おう、ここだ」


 山の家の裏には月だけが頼りの暗がりがあって、生物もろくに住まわず、鈴虫すら鳴かない。例の月光が黒ずむ霧にティンダル効果をもたらして、ルークとアクラの中間に、一本の太い光条をなした。


「わざわざ呼び出すような話って、一体何話そうってのよ」


 ルークはアクラの振る舞いが、やはり氷結しているのを再確認した。言わねばならないことをまた脳内反芻して、曰く。


「お前はどうして、割り切ってしまったんだ?」


 対峙し、いつものようにルークが皮切りし、その後数秒互いに直立不動だった。


「ルーク、むかついてる?」

「ああ」

「私に?」

「ああ」


 爽やかな顔をして、後ろめたいところなど一点も感じさせない美人だった。高くまとめたポニーテールの揺れが悪戯ッ子じみている、しかし幼稚とは違う。苦労した人間特有の顔をしている。


「私、今、すごく安定してるの。わからない? ああしなきゃこうしなきゃとか、そういうのが気にならなくなってる……諦めたから、だけど」


 ルークは息を吸い込んで拳をしめた。押し込めながら黙して、彼女の言葉に耳を傾けた。これから自分が発する言葉がどれだけ罪深いか、反芻に反芻を重ねて覚悟した。


「ルークは、諦めるならきちんと諦めろって言うんでしょ? 中途半端に頑張るなんて見るに堪えないぞって」


 黙したままの彼が何を考えているか、アクラは露も知らず、彼は何を言っても返さず、高まる力みだけが伝わってくる。そういうことに気付く関係性だった、けれどそうであることだけが分かって、そうである理由が知れなかった。


「でも、頑張るのも諦めるのも痛いの。どっちも傷つくから……ルークには分からないかもね。でも、努力するほど空回る人もいるの。だから丁度よく苦しくない所にいるの」

「アクラ、違う。違うぞ」

「え……何?」

「『accurate』……確かに、思い出すとむかっ腹が立つことだ」


 予感は水滴のように微かだった。しかしいやな水滴だった。


「誰かに近かれとその名を与えたあの養母は、確かに許せない。僕はあの女が大嫌いだ。人は自ら道を選ぶべきだ。

 しかしすまないな。僕は決して、諦めるなら諦めろと合理を解いているのではない。寧ろ僕の我儘を言っている」

「ルーク、何言ってるかわかんない」


 額にぽつんと触れて雨を皮切る、微かな一滴だと察した頃には遅かった。


「僕はきっと、その養母と同じことをお前に求めている」


 一塵も具体的でない言葉は至極まで痛烈だった。

 噛み合いがガチリと、ずれた。


「苦しくても?」

「ああ」


 熱と威力をもった大渦がアクラのハラワタで氾濫した。彼の言葉を、今度は彼女が反芻した。ルーク・ヒラリオがアクラ・トルワナの性質に文句を付け、行く道について否を唱えた。それでいて剣山に飛び込むことを要求し、その痛みも知っているが覚悟しろと、まるで大正義の顔をして堂々と口にした。


 氾濫はついに零れ溢れた。


「酷い押しつけね。割り切るなって、割り切るわよ。何かを選んで何かを捨てるの。人として当然でしょ。やっと割り切ったのに、変なこと言って邪魔しないでよ」


 すぐに夜風が吹いた。春夜の冷気が頬と脊柱を冷やして、内向するを外向させて、散逸とともに霧中の月光を思い出させた。


 冷めた、けれど彼の瞳を見つめて、もう一度熱は内向した。


「分かっている。常に選ぶことをしてきた僕が、お前には『選ぶな、その在り方を僕は好む、その苦を抱えて生きろ』と言うのだからな」

「分かってない。ルークはそういう生き方の辛さ、本当はわかってないのよ。全部選べる人生を送ってきたから、全部求めることの辛さがわからないんでしょ」

「たった今ひとつ捨てた」

「そんなもんじゃないわよ。一回自分を裏切ったくらいじゃわからない……」


 鍋蓋が心にあるなら、今カタパルト射出のように吹き飛んだ。


 ファニーな物言いだけれど、アクラには少しも笑えない。煮えたぎるものが無限に広がって、「絶対」や「禁止」を初めて発音した童子のように、心臓が握りつぶされた。


「何度も自分への期待を裏切って、自分は駄目だと思って、初めてわかるの。何でもつかみ取ってきてこれからもそうしていくルークにわかるわけないでしょ」

「ああ、そのつもりだ。僕は孤高を裏切った、もうそれ以外は一度たりとも裏切るまい」

「やっぱりそんな人にはわかんないわよ」


 餓鬼が喧嘩で迸らす程度の殺気を自覚し、アクラは自分がその程度であることを自分に言われた。眼前に立つ巨壁は、ルーク・ヒラリオは、明鏡止水を知るが如く、いっそ月下に華やぐようだった。あらゆる人が一瞥にして世界の広さを覚悟する、そんな彼を前にして覚悟しなかった鈍物の名を彼女は抱えて生きていく。


「そうなのだろうな。世界に掟などありはしない。誰もが己の裁量で生きていくことしかできない。依存するも選択だ。選択は常に、例え貧乏くじでも、知らぬ間でも、各人必ず成す。そうして無限分岐していく」

「だから何。何なのよ」


 婉曲な物言いだけれど、屹度きっと自分が鈍いのであろうと閉塞する。これが彼の望み通りの心境である。かつ、問う直前に崩壊を予感しておきながら停止できない鈍さこそ彼女を彼女たらしめた。


 中性的な美も何もかも携えて降臨した黄金銀河の英雄が、手遅れになる一言を吐いた。


「だから、誰も誰かを理解することなどない。それこそ、僕たちですら同じだ」


 黄金の時間が損なわれた。ルークとアクラの等号、その「等しい」は「ほぼ等しい」になった。


「お前はその態度を、安定していて、氷結していて、冷静なものだと思っているだろう。だが僕には、流れぬ川が濁り淀んだだけに見えるぞ」


 心臓が沈むように唸った。


「誰かが誰かの在り方を否定するなんて大っ嫌い。そのひとの自由でしょ、駄目な人間で居たっていいし、努力するしないも自由……ねえ」

「何だ」

「何で、私にこんなことを望むの」

「そういうお前が好きだからだ」

「ふざけるな!」


 踏み込み、左拳を突き上げた。果たして突き刺さった。


 けれど彼は微かにも揺らがず、山の如く動かなかった。


「……少しも巫山戯ふざけてはいないのだがな」


 今、あの熱が本来何であったかを、彼女は思い出した。


『僕は、万が一にもお前を見失うわけにいかない』


 あの端然とした火のような、冷まさなければ口付けでもしそうなほど熱い、あの灼熱に焦がされていると気付いたとき、星々瞬く黄金の瞳を見つめた。それこそ静かな夜のように厳かで、しかしはつらつと輝いている。

 いつからこれに囚われていたのか、盲目にされていたのか、催眠されていたのかを振り返らんとする思索は冷笑のようにアクラを追い詰めた。


『あなたはリクね』

『ならお前はアキだ』


 辿る道の先に何があったか、むろん、出会いの瞬間だった。


「……リク」

「その呼び方はもうするな」

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