08. 色はいらない③:カウントダウン・1
霧の特段に濃い未明、午前4時、照明がリビングの薄闇を殺していた。
「おはよう、ローナ」
「嘘」
珍しくも早起きしたロード・マスレイは、ソファにもたれてブランケットを膝に掛け、『並立宇宙学:バーバラ大学版』をしげしげと堪能していた。彼も監修に携わった教本である。
「どうしたんですか」
「今日はそういう気分だったのさ」
丸い目をしたけれど吃驚仰天する程でもなく、呆れ笑うくらいの度合いでゆるゆるりと彼の隣に座り込む。そんな彼女の有様といったら、膝小僧と足の甲を手でゴシゴシ温めて、そういう品種の子リスのようだった。次いで手の甲を首に当てて「ヘェー」と唸ったり、ついには師のブランケットを半分だけ強奪した。
「君こそどうしたんだい。もしや、今日の朝食は大作かい?」
「私はご飯作り機じゃないんですよ」
「捻くれたことを言うんじゃない。他者のための誰かなんて考えは、僕の最も嫌うところだ」
「口で言うのは簡単ですっ」
「しまった、拗らせてしまった」
プイとして引き続き手先を擦るローナだから、ロードは若干目を細くした。これは穏やかな心持ちによるものではなく、寧ろ嫌なものを注視するときの振舞いだった。末梢冷えは縁起が悪い。
「君も相当参っているんだね」
「……」
擦る手を止めて、ローナは彼の肩に勢いよく倒れ込んだ。
「もー、やです。やってらんないです」
小さな彼女の赤毛をふんわりと撫でて、ロードは今度こそ笑み目を細めた。
「今のうちだよ。じきにルークが起きるからね」
「何か悔しいです」
「甘えを罪悪としたらやっていけないさ」
「って、リシオンさんが言ってたんですか?」
「ハハ、ばれたか」
「そういう希望的なお話をされる時はいっつもです」
彼が情けない笑い方をするものだから、阿呆らしくなってついでに眠くもなった。倒れ込みついでに潜り込んだ、つるつるの紫髪から日常の匂いがしていっそうになる。
人より鋭敏なロードはそれに気付くや、隣りあう背を柔らかく叩いて寝かしつけをはじめた。慣れたもので、すぐにウツラウツラする少女の様子が何より微笑ましい。
「さて」
倒れ込まれている左肩を動かさぬよう、膝元に本を置きめくっていくことにした。大きめの字がこういうとき非常に助かる。けれど呼吸と拍動と重みが伝わってきて、彼自身も相当に眠くなってきた。ローナがむやみに早起きしてしまった場合ここまでが定石である。
赤ん坊とその頭を嗅ぐ親よろしく、温度と匂いと呼吸で膨らむ身体の圧、これらにお互い安心をして、吹かれる火のように意識が揺れる。
「――ぁ」
そのとき華奢な肩が震えた。
「おやっ」
ロードはすぐ反応して、一気に引き上がった意識で妙なことを言わぬよう、ふうと一息ついて気を付けた。
「悪夢かい?」
「はい」
「久しぶりだね」
「今日はもう寝れなそうです」
「レモンティーでも淹れようか」
「私が淹れます」
師と違い寝覚めのよいはずのローナがふらつきながら、時間をかけて立ち上がる。ロードは真顔のふりをした渋面で見送った。
すぐにさわやかな香りが漂蕩して、彼らの波立ちは収まった。
「どうぞ」
「ありがとう」
ソファに横並びして共に一服、息をもらす。
いつも通りカップを温石にして、見合わせるのは避けた。手が冷たい分だけ早々と冷める、そこにローナが注ぎ直して、また飲み干して、また温石がわりにした。静寂になるが痛みを伴わない。そういう縁だった。
「雷鳴王は怖いです」
ロードは肩を落としながら、細く長く鼻で息を吐いた。
「
ローナはそんな仕草を丸ごと見取って、真顔で彼と目を合わせた。
「先生」
「何だい」
「先生はなんで、雷鳴王のこと、雷鳴王って呼ばないんですか」
「……君というやつは鋭くて困る。誰に似たんだか」
今は真顔でいるときだと直感したのか、ローナはその視線を茶化さなかった。誰に似たかと言ってすぐ、というよりは直前に、師のひょうきん笑いを思い出した。
「ローナ、お願いだからお嫁になんて行かないでおくれ」
「突飛ですね」
思春期真ッ盛りの少女を見てつい呟いた。
「君は色々と才能があるんだから、旦那なんていなくても一人でやっていけるさ」
「お金のためだけじゃないんですよ、そういうの。あと、それじゃ誤魔化されませんよ」
「上手くいかないな……今日の朝食はなんだい?」
「だから私はご飯作り機じゃ……こら先生っ!」
「ありゃ、誤魔化されないか」
ロードがこの手の誤魔化し方を心得ない、というより、誤魔化しても誤魔化していることを白状するから無意味に帰すことをローナはよく分かっていた。かつこんな無様を晒してまで誤魔化すとき、その事情は相応に重大なことが多々ある。その「多々」に本例も漏れるまいと直感した。
「俗に言う雷鳴王は、東を脱出した巨人が本来の雷鳴王を喰って力を奪ったものだ。だから、その呼称は正確じゃない。言葉は適正に用いるべきだよ」
「先生、言葉は虚ろって話、してましたよね」
「……その話はローナじゃなくジーナにした筈なんだけどね。しかしまあ、曲解だよ」
ロードは素早く教師の顔をした。こうなるとローナは諦めることになる。勝てやしないと分かっていた。
「言葉は人が作るもので、時代が中身を移ろわす程度の虚ろなものだ、という話だったかな……おっと、洒落じゃない。つまるところ、『本質は意味なり』、というわけさ。正確な意味伝達が出来るなら外見は議論に値しないだろうと、そんなところか」
「それだからです。東の巨人って言うより、雷鳴王って言ったほうが皆に通じます」
ロードの姿勢がふっと変わった。前のめりになって足の上に肘を載せ、両手をぐぅと絡ませて、小さくなるように軽く力んでいる……彼のよくやることだった。
「だからこそ、と言うのかね。意味や歴史を誤謬させる言葉づかいは、少なくとも、僕にとって肯定出来るものじゃない。言語の目的・職務たる伝達を全うしないからね」
「意味はともかく歴史が大事だなんて、先生にとっての話に過ぎません。気にする人はそんなに居ません」
ローナは悪あがきのためだけに己の最も気にくわない思考法をして、ひどく不愉快な心地になった。
「ああ、そうとも。つまりすべて僕の価値観、もっと貶めて言えば妄想さ。所詮、僕はこう考えていると開陳したに過ぎない」
「じゃあ、あくまで先生にとって、雷鳴王はあの巨人に使われたってことが大事で、あの巨人が雷鳴王だなんて話は受け容れられない、ということなんですね」
「……まったく。言いくるめは楽だが、その手の洞察はどうしようもないな。議論に勝ってもこれでは仕方がない」
また背もたれを頼りにし、手の甲で目を隠し、口元を作為的への字にしてだらける。
けれどローナは今日この時、珍しく、それを笑わず真顔を保った。茶化さないと決め打ったらしい。ロードはこの様子に閉口顔をする他なかった。
「あまり話したい事情じゃない」
「私の事情です」
「君が聞きたいかどうかはともかく、僕が思い出したくない話なのさ」
「可愛い弟子のために心身を削りながら話して下さい」
「酷いなあ、いつもしてるじゃない」
「四月から全然授業してないじゃないですか」
「毒殺未遂とその事後処理と新人錬成でまったく時間がないんだもの」
「言い訳は聞きません。賠償を求めます」
「参った。なんって厳しい弟子だ」
「当然の権利です」
ふんっ、とローナが威張るぶんだけソファが上下して、ロードはその体躯ゆえにびくともしなかったけれど、心象的には「アレェ~」と彼方まで飛ばされていきそうな気分だった。彼女は時に学者の如く論説し、時に阿呆亭主の尻を叩く女房の如くまくしたてる。無敵相手に戦っていられない。
ロードは決心のために、取り敢えず頬をポリポリ掻いた。
「雷鳴王は人にその意思を宿しながら生きてきた、希有なケモノだ」
人、という言葉に、ローナの予感は星の見えない夜の雨空のように暗くなった。
「先々代の名はアリシア・マスレイ。先代の名はオガル・マスレイ、そして当代の名はロード・マスレイという」
瞼は静かな衝撃にひらかされ、瞳孔は反比例した。彼女のこの瞬間の想いは壮絶で、多分にルークが森林区画で味わった絶望的パラダイムシフトと同様の衝撃だった。
とっさに、久しぶりに、彼の腕輪を見た。
「
金色に輝く、彼の人の形見だった。
「それと、僕があまり使わないのに持っている、例の鉄槌が
膝に頬杖をつくズボラな姿勢でぼやく彼は、吐き出してしまったからか、一段と冷静になって虚空すら見ていなかった。追憶しているわけでもなく、思考が面倒な調子でそうしている。
「オガルおじさん、生きてるんじゃなかったんですか。どうして教えてくれなかったんですか」
「君が今想像していることを想像させたくなかったからだよ」
「知らずに笑って生きているよりましです」
「僕は僕の我儘において、そう在って欲しかったんだ。それにね、ローナ、確かに父さんは君を助けに街へ出て喰われた、けれどすべて父さんの選択だ。誰かに責めがいく話じゃない」
当たり前のことを当たり前のこととして語るように、彼の声調は淡然として安らかだった。そろそろ眠くなってきたのかもしれない。
「でもそれは私のためです」
「君は恩讐に義務感を覚える質だから苦しい。あくまで人付き合いのノウハウとして考えればいいのに」
「そんな考え方はいやです」
「世界は綺麗な人の心と優しい神の手で運営される完璧な構造体だと、まだ信じているのかい?」
「信じてます。だって、ジーナは故郷や家族を亡くして、でもお兄さんたちに会えました。悲しいことも、きっと幸せになるために必要なことなんだって思ってます」
もう一度頬をポリポリ掻いた。このあたり、アクラ・トルワナのように納得してくれないのが彼女だった。
「まったく、ここの見解で君と僕とは致命的に噛み合わない。そう思い込むことしかできないものだと、僕は思うけどね。まあ強いるまい」
「……そうですか」
未明の空はすっかり白んでいた。霧の晴れる日らしく、窓の外では、晴天の放射が朝露に濡れる草原を光らして、一滴零れる雫は七色に輝いてみせる。そよ風が吹くと野の絨毯はその宝石をふり投げて、燦然の輝きたるや、窓を開け風を感じねばならぬ気がする。
きっと今日のアクラはおっかなびっくりで山を下る。それでルークの手を取ろうとして、逡巡数回繰り返すのだ。ロードにはこういった問題が妙に客観的というのか、遠かった。ゆえに思考は平然調で、いつもの朝の平和ぶりだった。
「おはようございます」
「おやルーク、おはよう。珍しく遅起きだね」
美しい青年が現れて、有神世界の無神論者たるロード・マスレイもさすがに、天与の神秘を認めそうになった。彼ほど白く綺麗な人を、アクラとスピナともう一人しか見たことがない。半数が白色人種のジェネレイカ民主共和国人ですらこんなにも純然ではない。
「流石に訓練疲れが出たのかもしれません」
「あの、おはようございます、ルーク」
着衣のシワに気を付けながら立ち上がり、恭しく一礼し、先刻とは全く違う細い声音で言った。
「おはよう。……どうした、寝癖とは珍しいな」
「へ? ……あっ」
ロードにもたれ掛かった部分が即座にはねたらしかった。
「あの、これは」
「同居人にその手の気を使わなくてもいいだろう。しかし、本当に珍しいものを見た」
悪いような優しいような純粋なる彼の破顔は、ローナの胸をいつだって特上の一矢で射貫いた。
「直してきますっ!」
「あ」
勢いそのままにルークの脇を抜けて、彼女の髪色くらい真っ赤な顔は伏せながら、トテトテ言わせ御手洗いに走っていく。ルークは何故かそれを目で追いかけて、くすと切ない風合いで笑った。
そのとき背筋が凍ってしまった。
「ぁ」
「ルーク、君も思春期の少年だ。仕方あるまい。しかし……」
萌葱色なる悪魔の瞳が全精力の気迫で、強い朝日の影の中に煌々爛々と輝いていた。普段の微笑は普段のままに、一挙動ごとの風格が制圧力を擁して、ルークの全神経に命令を発した。曰く、そこを動くなと。
間合いは瞬間に食い潰されて、ルークは高い影に覆われた。
耳元に息がかかる。
「適当なことをしたときは、おわかれの覚悟をしなさい」
何とお別れしろと言うのか。
一瞬間ののち、ロードはソファに楽然ともたれていて、やっとルークの筋肉は弛緩を許された。
「は……ははっ」
「おや、そんなに笑ってどうしたんだい。何か面白いジョークでも聞いたのかい?」
「あ、いえ」
「なに、君という十五歳への期待さ……重いかい?」
ローナが最後に淹れていったらしい一杯をスィと飲み干す。その間に、というより即断で答えを決めていたらしく、ルークは一服を済ませた師とまっすぐ見合わせる準備をしていた。
互いに笑んでいた。
「はい。しかし、背負うことに意義を感じられるのはそれゆえです」
「そうかい。なら君は君の使命通り……答えはどうあれ、万事適当にしないことだね。それを望んでいるんだろう? 可否はどうあれ」
例のトテトテ言う足音がかえってきた。勘付いたルークが道を譲り、するとローナのチラ見と目が合い、お互いすぐさま逸らす。ルークに関しては蛇睨みに戦慄してのことだった。きっとこの御仁は、清い関係までなら認める振舞いをして、心根では一切合切承知しないつもりでいる。
と、恐れてはみたが予想外に、ロードの眼差しはくたびれていた。
「では失礼します」
「少し待ちなさい」
「え……はい?」
師の向かいに座ると、ローナはいつの間にか三杯ほど運んできて、穏やかに並べた。そそっかしい彼女だが、この手の話には滅法強いらしい。
その後ルークの隣に座ろうとして、怯えるような顔で止まり、ロードの隣に逃げた。思い人に向けるような顔ではなかった。
「最終日の岩山区画、司祭について知っているかい?」
「はい。土塊の自動人形・ゴレムです」
「如何にも。サンダータイガーみたいな見かけ倒しよりは余程強い……おや君たち、嫌な顔をするじゃない」
ロードの作為性というのか、心情を操作するような声音がルークとローナの胸元を暗くした。不快感というのはあたらない。二人の心情は閉塞的で、五感をすぼませるからである。
続く言葉はそちらにずれた。
「そういえば、漢詩、書いていないだろう」
「へ」
思わず漏れたローナの声に、ルークの頭は少し下がった。
「君ともあろう者が貫徹を出来ないとはどうしたことだい、頭でも打ったのかい……あるいは直感、あるいは隠しこんだ本音がそれを阻むのかい?」
握り込まない。握ることは全失敗のもとである。故に何よりも、握り込まない。
火柄吾朗の教訓を守ろうとして、黄金の彼は小刻みに震えた。
「話を戻そうか。ゴレムについては
サテと立ち上がる彼に対して、ルークは無理矢理顔を上げた。それもかつての師の教えだった。
至極優しいままの冷笑を湛えるロード・マスレイ。先ほどの教本をしまって、「小説・欧州」とある本棚を辿っている。
「司祭というのはしばしば似たもの全部をごった混ぜにしてできる。特に、共有されやすい思念は強く入り込む。こういったわけで、有名な物語の登場人物が惹きつけられるのさ。それも、執念と絡みがあれば一層にね。
そこで人造の怪物……となると外せない『怪物』がいるだろう、ローナ」
「えっと、ヒント下さい」
「そうだねぇ」
指先が背表紙を滑っていく。滑らかな指だった。
「旧世界はイギリスの小説家、メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリーが西暦1818年に発表したという、ゴシックロマンスの……」
「あ、わかりました」
立ち上がって本棚に駆け寄り、「ここですよ」と、整理整頓が出来ないロードにその一冊を手渡した。
『Frankenstein: or The Modern Prometheus』という、旧音の題。
『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』である。
「うん、正解だ。ローナはよく勉強しているね」
「はいっ」
それでルークを、そう、「しばらく古典の勉強を欠かさないで欲しい」と彼女に言ったルークをチラと見る。
果たして彼は彼女を見なかった。だから伏せ目をするしかなかった。
「ルーク・ヒラリオ、それはあまりにも衰弱がすぎる」
もう一度間合いが食い潰された、けれど、今度のロードの眼差しは決して恐怖を催さない。至極優しいまま冷笑していたのが、今、憐憫の視線に移り変わっていた。せめて目を逸らすまいと視線をあげたとき。
「それもかつての師伝かな。焼き付いた行動理念が立派なのは、実に素晴らしいことだ」
一分たりとも侮蔑を含まぬ文言が、最大限の嘲笑として彼を刺し貫いた。
「ルーク、ここまで来ればそのケモノの執着、希求するところもわかるだろう。君はそれを叶えられるというのかい? 君の『正義』はそれを選択出来るというのかい? そもそも、君に叶えられる願いかい?」
彼の誇りはその才覚にあらず、その自発たることである。万事己が精神を以て決定し、付随して生じるすべてを自ら背負う。大人の基本則であるが、彼はそれを絶対則の域まで突き詰めてきた。そうして行く道は己が道であって、先導者の気まぐれに振り回されることなく、すなわち守られる人間であることはない。
王と王の財産を守るヒラリオが、長年守ってきた誇りでもある。
彼はその嫡子として宣言を済ませた。
「そろそろ作為的盲目はやめなさい。君の精神は現状に耐えかねているんだよ」
ロードの影は、天まで続くように高かった。
朝の準備がゆるゆると過ぎ去って、六人出発しようというとき、ロードだけに聞こえるよう、トウカが小声でこう言った。
「根本的なことを必要以上に強く突きつけるその異常性癖、治されたほうがいいですよ」
ロードはポカンとして、「ふむ」と頬杖をついた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます