09. それはロマンなのか①:フロートモスの毒
フロートモスは、『モス』と付きながらガではない。それは水上に咲く猛毒の花である。かつ、『幻想漏出』によって現れた人類の敵であるためケモノとされている。
紫の花弁が二枚、外に垂れるおしべが二本。いかにもガの体裁を成している。
その花粉の毒性は凄まじく、細胞内に入り込むとセントラル・ドグマに介入し、触媒として細胞分裂を促進しつつも部分的に自身の塩基情報を転写させ、「拒絶反応をおこす細胞の塊」を作り出す。影響を受けた多細胞生物はみな紫色の腫瘍となって死に至るため、フロートモスの周囲には草木一本残らない。
生物としての弱点は栄養を独占し、繁殖しすぎること。その上、成長に要求する養分量が多いため、食物連鎖の釣り合いをとって減少することとなり、個体数が不安定である。
「ふぇええ……」
「せっきにーんしゃ! せっきにーんしゃ!」
芸出しも締めの頃、不運にもローナまで当てられた。女神と悪魔のデュエットとでも言うべき歌唱の後、尻すぼみの尻にされたことになる。
まずもって彼女は親指消しマジックを披露して会場を凍てつかせた。そこでこのように責任者コールが始まる。アッチコッチを向いてどうしようと思案するローナは、しかしどうしようもない。
「はは」
と乾いた笑い声の責任者ロード・マスレイに、傍らのアクラが手渡された赤ワインを注いだ。例の麗人の再共演を口笛で煽る音がする。
ロードは受け取った杯に遊女の口付けのような艶めかしさで唇を当て、白い喉を立てて澄まし、飲み干す様は見ていられないほど色気だっていた。
「んっ……ありがとう」
コトン、と杯を置く。そのゆったりとした仕草と手先の細さ。白い肌は灯の乏しい町の灯が景色の中で浮き上がるのに似ている。
「大丈夫ですか。顔、いっきに真っ赤ですよ」
「アルコールは苦手でね。まあ、そろそろ慣れたい」
「水とか、用意しときましょうか?」
「ありがとう。そうだね、多分これは酷い目に遭う」
側に居るアクラは見ていて耐えがたかった。ローナの件は自分のせいだとかいう自責の意味ではなく、艶めかしい彼の姿は、見ていいものかと戸惑いすらする。
「先生」
「なんだい?」
舞台上のローナが、今度は小道具を借りてトランプマジックを披露している。
毎度いちいち視認性に欠ける。
「先生は選ぶのをやめた、って話でしたよね」
「そうだね」
「何があったんですか?」
「なんだ、よくある話だよ」
責任者コールが再開した。ローナは泣き出すかと思いきや、「よーしそれじゃあ」と根性で声を張り上げていた。
そしてまたアクラがワインを注いだ。多めにいけぇと聞こえてくる、「まあまあ」と抑えておく。
やはり彼は艶めかしく飲み干して、目を逸らすアクラの方は向かず、わずかに残るワインの色を愛でながら微笑したまま、
「大事な人を立て続けに喪って、自分にも世の中にも期待しなくなったのさ」
コトン、と置いた。
「……?」
ロードは喉が溶けるような違和感を覚えた。
「アクラ」
「はい?」
「とりあえず、頭を打たないようにしておくれ」
「え?」
その影がふうっと傾くのを、アクラは見た。
「先生!?」
未だ開発が続くバーバラビルの鉄骨を、カンカンカンと駆ける音がする。
足下は手掌に冷や汗を催すほど高く、眠らぬ街バーバラが一望できる。夜空にはそんな街だというのに、高所故か星が見える。藍色の空と河の比喩が最適当な大銀河が広がっていた。
駆けているのは靄がかった影だった。
「よっと」
軽やかに追いかけるリシオン、その軽いかけ声と共にヒョウンッと放たれた矢が殆ど瞬間移動の速さで影の近くにカァンと打ち当たった。外しても足取りは軽いまま、アクロバティックに宙返りしてもう一射、外す、ギリギリもう一本の鉄骨に足を着いた。
一方、影は逃げ回るばかりで攻撃をしない。
「リシオンさん」
「んー?」
傍らに立つ、スピナ。
高所の風に流される白金色の髪は、彼女が顎を引くのに合わせてより高い角度で吹き上がり、瞳はバーバラの夜空ではない銀河を映して怜悧に目映く光った。
「すり抜けています」
「だよなぁ、俺外さねえし。んじゃそういうのは
「行ってもいいですか」
「おっけ。スピナちゃん、行ってヨーシ」
無言で駆け出すスピナに、リシオンは後ろから「速えー」と茶化した。
スピナは一切の反応を示さない。迷い無く細い一本道の鉄骨を、躍動する足腰で打ち鳴らしていくテンポは影などと比べものにならない。引き抜いた硝子の剣は、その瞬間から内に宿していた白金色の光を溢れさしている。
「白磁斬」
踏み込む。斬り込む。
一気に引き締まった膝が一気に広がり砂埃をあげながら、影に斬りかかる。太刀筋は完全に一直線を描いて、力がどこぞにぶれる事もない。
確かに剣と光は影を斬った。
「ありゃ」
しかしリシオンはこう漏らした。
影はまたすり抜けて逃げてしまう。
「どういうことだよ、それ幻惑とかお構いなしじゃねーの?」
「……」
と、彼の腰の無線機からブザー音が鳴る。
「はいはいっ、こちらリシオンおじさんですゥー……んだよ、グリーンかよ」
『早く戻って下さい。貴方がたの弟子が死にかけですよ』
「はっ?」
走り回る影、追い回すスピナ。リシオンはそちらに向かって、「はいやめーっ!」と叫んだ。
「?」
その隙をつくようにして、影は消えた。
比喩無しに消えた。
「……」
スピナはもう一度斬り込みたかったところ。
彼女は目つきすら変わらない無表情、だというのにその視線の持続だけで雄弁に不満を物語った。
「馬鹿、一大事だよ」
『聞こえますか。ロード・マスレイが倒れました、多分に毒を盛られています。今近くにいる者では手に負え』
「もう行った。壁面下ってるぜ、あいつ。あの速度をさっきも出せよなぁ……」
リシオンは一人残された。
冷たい体を抱きながら満天の星空を見上げると、空だけで照らされて、一瞬冷感が失せるように魅せられた。
『神速のリシオンは、返上ですか?』
「おうおう、養成学校行ってねー身元知れねー、そんな野良狩人にゃ勿体ねー二つ名よ」
通信は切らないまま、彼も動き出した。
背後には天を衝く無数の白円柱が、不点灯で闇を保って屹立している。
それはエレベーターで、周りに建てるべき店だのオフィスだのは完成していない。それらの内すぐ後ろに立っている柱のボタンを押すと、そこだけ一気に空まで点灯した。高く、果ては見えない。
「大広間」
【畏マリマシタ】
「便利だねェ」
チン、と戸が閉まり無重力感が襲う。
『任務中のところお呼び立てしてすみません』
「いんや。どうせエラい事態なんだろ。で、容態は」
『苦悶の声すら上げません。呼吸はあります』
「病変は」
『頬に紫の斑点が』
「フロートモスじゃねーか。道理で対処できねーわけだ。
……待て、ロードが直前飲み食いしたもんにフタしただろうな」
『はい、そのワインはすぐ密閉しました』
「そりゃよかった。アレが一定以上気化したらパンデミックだ。そこにきてアルコールかよ、こえー」
彼の脳裏には、雨の翌日、細粒になって風に乗り猛威を振るう材木系花粉の様が浮かんでいた。
『恥ずかしながら、私は貴方ほど医学に明るくありません。説明をいただけますか?』
「即死するような毒じゃないが、持って三時間。使えば大型動物でも死ぬ。
しかも、解毒薬が開発されてないんだわ」
『馬鹿な。持ち込んだ阿呆は、毒を用いるに薬を持ち歩かなかったのですか』
「どーすんだこれ」とぼやきながら、エレベーターでしゃがみ込む。浮遊感が気持ち悪い。喉の奥から暗い未来の暗示じみたものがせり上がってきて、白い壁が誘蛾灯に似て気持ち悪かった。
『神速のリシオン、貴方だけが頼りです』
「けっ、都合いいな。さっきはなんて言ってた?」
『韋駄天はスピナ・アリスですが、矢勢と臨機応変なら貴方が群を抜くでしょう』
「まァ数少ない取り柄なんでね」
言いつつも、彼の背はエレベーターの壁沿いにヒューと滑り落ちていく。
が、よっこらせと立ち上がった。三角座りしている間にエレベーターが開いて学生たちに見られたら、一生ものの恥になる。
「だから今日の歓迎会はやめといた方がいいっつったのに……いや、しゃあなし。
なあ、一昨日の脅迫状、関係あると思うか」
『さあ。ただ、我らが貴き大神アルゴルの指揮下で行われる神聖な行事を穢す蛆虫が、一晩に三匹も湧くとは思えません』
「三匹?」
嘆息が聞こえてきた。
『ドラム・アーガロイド・ヒラリオをお忘れで?』
次に嘆息したのはリシオンだった。
「許したってよー、親心なんだから」
『無理ですね。シュトルムの名と我が信仰にかけて、必ず彼を裁きます』
「キビシーッ」
チン、と音がした。グゥッと体が重くなる。
「着いた。八番エレベーターな」
「わかっていますよ。行きましょう」
無線機の先の声の主が、エレベーターの戸の向こう、すぐ目の前に立っていた。
そこで歩み出した瞬間リシオンがハッとした。
「ロードの呼吸、続いてるか」
「確認します」
グリーンは名の通り緑の髪を耳元だけかき上げ、語調の通り峻険でクマのある顔を歪ませながら、無線機にぼそぼそ語りかけた。
その目元がピクッとくるのだから、リシオンは気が気でなかった。
「何? たった今呼吸が止まった?」
「だーっ、経口摂取しちまったもんな。
今すぐ喉にへばりついてるダマを全部掻き出せって伝えてくれ」
「だそうだ、頼むぞ」
「丁寧にな。脳に近い血管が傷付いて毒が循環しだしたらまずい」
了解の声が爆音で、リシオンの所まで聞こえてくる。グリーンは顔をしかめもしなかった。
「どういうことですか?」
「どういうことも何も、あの毒は付いたとこならどこでも悪性腫瘍を作るんだよ。喉に付着したのが小粒の腫瘍を作りまくって、拒絶反応で剥がれて、気道詰めてんの」
駆け足が速くなる。廊下の脇に数百はあろう扉の列に、リシオンは頭が痛くなってきた。しかしその中で、グリーンは迷いなく扉を引いた。
「お兄さんっ、お兄さんっ!」
「先生、私の声が聞こえますか!? 先生!」
会場はパニックだった。
「師匠! よかった!」
歓喜の声を上げて、ミレントが駆けてくる。先日リシオンの弟子になったらしい。
「容態はどうだ?」
「呼吸は回復しました、でもドンドン血色が悪くなります」
「血管に詰まりだしたか……心臓動いてるな?」
「はい」
「よし、あとは俺に任せろ」
ポケットに手を入れたリシオンが歩み出すと人は脇に逸れた。円形に群がっていたのが道を開けて、彼の前にロードと、傍らで白い光を放って彼を包むスピナの姿が映った。
近づいていく足が、左右揃わぬうちに止まった。
「師匠?」
「……手ェ合わせるしか、ねぇかもな」
視線が彼に集まった。
「頭に近い斑点の色が濃すぎる。
もうちょっと良けりゃ手もあったんだが……こりゃもう俺の手に負えん」
ここでリシオンという男について注釈を。
まずバーバラには王都三傑と呼ばれ、他を圧倒する三人の狩人がいる。一人はスピナ・アリス、一人はロード・マスレイ、そして最後の一人がリシオンである。それぞれ『
その中でリシオンは最年長を誇る。出自も謎、養成学校も修了していない、そんな彼は誰よりも知識・経験・柔軟性に溢れ、かつ弓に長け、国家の一大事を両手で数えられないほど退けてきた。彼を英雄と呼ばないなら、おそらく歴史に英雄はいない。
彼が、さじを投げた。
「リシオンさん」
「スピナちゃん、これ以上は法力の無駄だから、回復はやめていい」
「嫌です」
「苦しますだろ」
スピナの無表情顔は、そうだったものは、死人のように口を開けて虚空を見ていた。
リシオンはもう、手を合わせる気になっていた。
「お前まで逝っちまうことねえだろ」
スピナを横目に言う。彼女は今足腰に力が入らないらしい。虚空からロードの顔に視線を落とすと、ロードの髪色より濃く広がった紫が彼女の瞳の中ではぼやけだして、次第にぐらつき、こぼれた。
ローナがすぐ後ろで声を上げて泣いているのが聞こえる。
誰の後ろかと言えば、アクラ・トルワナの後ろで。私がつまんない芸ばっかり出したから、なんて言っている。
「あの!」
アクラはもう出ていくしかないと思ってしまった。
「ん?」
「私には水の恩恵があります! 何とか出来るかもしれません!」
人の輪が薄らざわめいた。
「アクラ、待て!」
「ルークもちょっと手伝って」
「お前、死ぬかもしれないんだぞ!」
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