08. 言葉の虚なること③:それが僕らを惑わすとしても

「ルーク! さっきの凄かったですよー!」


 鞠のように跳ねる声がする。


「あ」


 小さな彼女はすぐに声を抑えた。


「仲直り、したんですね……アクラ綺麗です」


 誰もが彼女の方を向いていた。年代差も男女も隔てなく、引力がそうするかのように惹きつけた。

 ドレスの水色は、ここが青空の下なら必ずや馴染み天高く見える。急いで作り直した雑目のポニーテールはその遠すぎる歯がゆさに丁度噛み合って、快活なアクラ・トルワナの人物像を落とし込んでいる。例えばそれを下ろしてみたなら、尊さのあまり昇天ものに違いない。


 誰もしばらく思考できなかった。

 彼女はしばしばこうして、時の流れを止めてしまう。


「まさか例の件、ローナに話したの?」


 彼女が音を発した瞬間、人はその声音にまた深く停止され、しかしその平素な内容で我に返る。


「喧嘩した、とだけな」


 並び立つルークはアクラの神秘的なありように一瞬の忘却を受けたものの、やはり精緻なる美と雄然たる気を惜しげなく晒している。大神が人に権を譲る時があるならそれは彼ならんと、天上天下彼ひとりならんと、王気のほどを伺い知れる。


 この二羽の鳥は、重なって飛ぶために生まれたように見える。人の身ながら耽美の対象にしても余りある二人が同じところに在って、運命でないはずはないと誰もが思う。


 ローナは一歩を踏み出すのも躊躇った。


「ローナ、いいか」


 流れ星のようにその声は降ってきた。


「え、はい?」

「ああ、いや、踊ってくれないか? 明日から先生と弟子四人、同居するわけだからな」


 差し出される手に躊躇った。

 ローナにはそれがある種の冒涜にすら思え、手は震え、視線は低くなった。


「いっちゃえ、ローナ」


 雨だれのようにその声は降ってきた。


「先生、よろしいですか?」

「ああ……こちらこそ、僕と踊ってくれるかい? アクラ」

「喜んで」


 そうして彼女は手を取った。

 去り際、ローナの方を見ず、背中に回した左手で愉快にサムズアップしている。


「アクラのやつ、余計なことを……」

「あ、あの!」

「ん? ああ、すまない」


 直き振る舞いで跪く騎士を前に、ローナは呆気にとられながら、いつの間にか差し出していた手を真っ青な顔で見た。


「あっ」


 ひっこめる直前、彼の手は彼女の手を包んでいて、はっとするほど温かい。


「……ルーク」

「どうした?」

「私、ずっとルークのこと見てたんです」


 流れ星のように人の願いを背負う彼が眩しく、次第に涙ぐんで、少し前の涙のあとがまた光った。乾いたその道筋が微かに冷たく痛んだ。反して、青かった顔はもう紅く熱している。


「観客席や画面の向こうで、遠くからですけど、ずっと見てました」

「そういうことだったのか。ありがとう」


 彼が手を取って立ち上がると、その顔がぐっと近くなって、ローナはそこに微かな、自分と同じを見つけた。


「アクラと、付き合ってたんですか?」


 口を突いた言葉がまた、今度は二人の間だけ時を止めた。


「ローナ、僕の瞳を見てそういう質問をしないでくれ……僕はそれを誤魔化せない」


 ローナは自分の痛々しさに泣きたくなった。もうわかったような事を聞くために、彼があの荘厳な銀河とともに背負ったものをつついた。


「そうだ、付き合っていた。サンラーナを出る前日まで、僕たちは付き合っていた」

「ごめんなさい」

「過ぎたことだ、仕方ない。何より、僕も一遍あの廃教会で、お前にやった」

「本当に、ごめんなさい。泣くくらい辛いことを聞くなんて」

「……よく見ているな」


 どんな宝石よりも美しい彼の瞳は、今、より輝いている。


「大好きだったんですよね」


 今度は目を逸らして聞くと、ルークの自嘲的な笑いだけが聞こえる。


「あいつだけが頼りだった」


 小さなローナの手が、小さいなりに、彼の手を包んだ。


 もうワンペアは対照的だった。


「それで、君はどうして泣いていたのかな?」

「え? ……ああ、わかっちゃいます? これでもかってくらい顔洗ったんですけど」

「これでもかってくらい洗ったあとがあるんだよ」

「あー、盲点でした」


 ふわり、ふわりと舞う髪。こつん、こつんと舞う足。ドレスもマントも寒色の二人は、蠱惑的かつ軽快なステップを打ち続ける。

 互いに予め練習した定石を踏みながら、そのひとつひとつを噛みしめるでもなく、気楽に流していく。言葉のやりとりすらそうだった。


 軽い。


「先生、一つ聞いてもいいですか?」

「おや、問い返しか」

「ああ、すみません」

「いいよ。それで?」


 軽いというのに、アクラは今聞かねば爆発してしまいそうなくらいだった。瞳の揺れだけがロードに教えてくれた。

 かつ、自分なら決定的な答えを出せるか、もしくは「それがわかれば苦労しません」と苦笑いするかのどちらかだと。


「『生き方の選択』って話、ありましたよね」

「ああ」

「正しさって色々あると思うんです」

「そうだね、無限だろう」

「はい。それでいて、全く相反したりして」

「当然だよ。ある人がYESと言うことすべてにNOと答える人がいる。逆方向かつ同質量の正義……というのは、誰の言葉だったかな」


 答えを出せる気がした、けれど、それは冬の硝子窓のように冷たい気もした。


「じゃあ結局、どの正しさも同じだけの価値があって……目指すべき場所なんて決まってないんですよね」

「そうだと、僕は思う」

「じゃあどこを目指せばいいんでしょ。みんな、どうやって選んでるんですかね」


 用意していた答えを吐き出す。


「ごめんね」

「何で謝るんですか?」

「僕にそういった期待をしてはいけない……あれは所詮、学生向けだよ。他人事さ。

 僕という人間は、君の言うようにまったく等価値な正しさの群れを前にして、選択を放棄したんだよ」


 廃教会で少女に語った原罪観、そして結びにした言葉。


『そんな時は選ぶんだ。罪を犯す覚悟をするか、何もしないかを』


 少女に刺した小さな針が、微かに刺さっていた。


「僕は何もしないことを選んだんだ」

「先生ほどの人が、ですか?」

「求められて、流されて、それだけだよ……いやぁ、そうなるとルーク・ヒラリオは大した男だ。僕の弟子には勿体ないな」


 世間の事物に受動的で居ていいのは餓鬼の内だと彼は言った。ロード・マスレイは拍手した。アクラは布団に顔を埋めていじけた。


「僕と君の違いを言っておかねばならないね。君は諦めていない」

「絶対正しい何かを、ですか?」

「いいや。選ぶことを、だよ」

「……」

「諦めない内は大丈夫、なんて言葉を信じてくれるかい?」


 未だ二人の足取りは軽かった。顔をうつむけながらするような会話を、ちょっと笑いながら続けた。


「正直無茶な気がします。どれを選んだって変わらなくて、どれを選んだって間違いなんですよ?」

「よし、ならくじ引きでもするかい?」

「えー……」

「わかってるよ。そんな決め方じゃ認められないんだから」


 いつの間にか、二人は残り全曲まで踊りきっていた。こんなどうしようもない話を、延々と続け堂々巡りしていたらそのまま末になってしまった。


 会釈して別れ、彼の後ろ姿を追うアクラ。送辞を担当する名誉を頂戴した、とのこと。

 一瞬アクラは彼に運命的なものを感じかけて、「私は尻軽女か御馬鹿」と思い直して、ルークの方を向く。どうやらローナと最後まで踊ったらしい。


「うわ、キレそう」


 というのが一瞬。

 直後、ローナの笑顔とルークの笑顔に、破顔と微笑の温度差を感じて、


「汚いなあ」


 と独りごちて終わる。


 舞台が騒がしくなった。


『ご歓談中のこととは存じますが、これより送辞に移らせていただきます。

 送辞、ロード・マスレイ君』


 見ていたルークが答辞の準備で舞台袖に歩いて行く。アクラは彼を右から見ていて、そのキッとした背の立ち方たるや、こんな男に勝つべくもないと脳みそが言う。


 かつ、柔らかい。


「さすが火柄吾朗先生のお弟子さんね」


 火柄吾朗という男は、英霊である。


 旧世界が滅んで百年も経たないころ、すなわち殆ど二万年前から消えたり現れたりしている。好好爺で、英雄の器ある者を見つけては修行をつけているらしい(らしいというのは、弟子達しか彼を見たことがないためで、その辺りが実在を疑わせるところである)。彼の弟子になる人物は必ず世界を救う英雄になり、かつ証として「火柄」の刻印が施された武具を渡される。

 ルークの佩く真白の剣ノンカラーはそういう経緯で得たらしい。


 ロードが舞台袖から現れた。


「高いところから失礼します。

 甚だ僭越ながら送辞を務めさせていただきます、バーバラ管轄狩人三年目、ロード・マスレイです」


 アクラは彼の顔を見て仰天した。

 あの時、そう、あの廃教会で感じた覇気というものを彼から一切感じなかった。もはやルーク・ヒラリオの直前で物を言うには不釣り合いなほど、どこか影が見えてしまう。これでは何を言ったところで、重みも厚みも湯葉ほどのもの。

 しかしそれを、周りの誰もがキラキラした目で見つめているのだから世話がない。


『僕という人間は、君の言うようにまったく等価値な正しさの群れを前にして、選択を放棄したんだよ』


 アクラは、自分が彼に失望しているのだと気が付いた。

 優しく失望しているのだと。


 結局最後まで彼女の中に、ロード・マスレイの印象は残らなかった。


『答辞、ルーク・ヒラリオ閣下』


 ロードの時と同等に歓声が上がった。しかしアクラはこの時やっと感動を得た。


 惚気話の類いではなく、気迫がまったく違う。その立ち振る舞いの堂々たること、自分に泣きついていたあの青年とは思えず、かつ先ほどの師の様子と比ぶるべくもない。

 ルークは軽く挨拶を済ませると、それだけで王気が溢れる。


「僕はここに来るまでの六年を、サンラーナという辺境の村で過ごしました」


 ああこれは無理だな、とアクラは思った。

 先ほどまで盤面を冷静に眺めていたつもりだったけれど、ここから先の話はもう、そうはいかない。


「小さな湖の多い平地です。常緑の森が八割で、それを切り開いてつくった湖のない居住区が二割の寂しい村でした。人気も開発もないのです。

 ご存じの方も多いでしょうが、ニルシア養成学校はここにあります。どうやら精神修養のため、とのことで。初めて来たときは実際、常識が崩れる音すら聞こえたものです」


 とのことで、と彼は言った。


「同級生など、卒業式で『やっと文明地に出られますよ閣下』と泣いていました」


 笑いが起こっていたけれど、ルークは微かに笑ったけれど、アクラだけはピクリとも笑わなかった。


 目が合った。


「ただ僕は、あの森を最も愛おしく思います。慣習も不便さも、乙なものでした」


 そらした。

 これ以上見ていると、耐えられないのは自分だと気付いた。


「常識が崩れる感覚は、サンラーナで二回目です。一回目は王都でした。怖かったものですが、二回目になって、『嗚呼世の中かく在るものか』と諦めが付いて。結局好いてしまった。

 とどのつまり、僕たちは何を選んでもよいと思っています。常識と呼ばれるものは数多あって、そのどれも、こういうものかと思うことに決めれば、面白味の出るものだと」


 どうしてあなたはそうやっていつも、私が欲しいときに欲しい言葉をくれるのかと。


「思うに、勇気一つで岐路に立つのも悪くはなさそうです。新しい選択をする僕たちを案じて下さる諸先輩方への答辞としては、どうかご心配なく。多分に行き止まりはありません。

 これで以上です。ここからは趣旨から外れますが、この場で同期に一言送らせていただきます」


 彼はマイクから離れ、大音声を張り上げた。


「道を悔いることはなくとも、死ぬかもしれない!

 分かれ道の途中で出会えたなら、死なないうちに一杯やろう! 以上!」


 拍手があがって、アクラはまた泣いていた――



『ありがとうございました!

 それでは恒例、新人歓迎! ランダム抜き打ち芸出し大会を開催しまーす!』

「ひゃっほーーーーーーう!」



 ぶち壊しになった。


「は?」

「来年の学生に言うなよォ~!」


 おっさん連中が騒ぎ出すと、アクラの涙も逆流するくらいの勢いで引っ込んだ。


「えっ何なの?」

「知らん」


 戻ってきたルークも困惑気味なまま言う。

 と、舞台上にガラガラ言いながら何かが運ばれてきた。どうやらいわゆるエアー抽選器らしく、アクリルボールの中でくじがグルングルン吹き上がっている。


 静粛は蜘蛛の子を散らすように吹き飛んで、すっかり盛り場になってしまった。参加者の平均年齢は大方二十一、かつ都会っ子。成程納得がいく。


「どうしよ!」

「まあ落ち着け。あのくじで引かれなければいい。今年王都で弟子入りした学生は二百人、全員芸だし出来るわけでもないのだ」

「まあそうよね、何分の一よって話で」

『エントリーナンバー1……アクラ・トルワナ!』

「頑張ってこい」

「ちょっと!」


 アクラの名を聞いて反応した学生がそこかしこにいる。彼女はとっくに有名人だった。


「ヤダヤダヤダ、恥かきたくない!」

「一曲歌ってこい。この手の舞台は美少女が歌えばどうとでもなる」

「流行りの曲とか知らないわよ! でもありがとう!」


 兎に角駆け出す以外なかった。

 ドレスが邪魔で仕方ない。歓声が鬱陶しく、この空気が苦手でしょうがない。どこもかしこも居心地が悪く、納得できない。よいものを見つけられない。

 それでも走るしかなかった。


「う、歌います!」


 歓声がもう一段上がる、けど何を。

 そういえば、王都に来たとき街で流れていて、ルークと二人で歌った曲があった。旧世界から歌われ続けている、不朽の名作らしい。どうしてか泣きたくなったあのデュエット曲は、確か、かつて夢想した、遠い自分の姿を歌っていた気がする。

 そんなもの、もとよりあっただろうか。


 そういえばこの曲、『ロード』と付くのか。

 根性曲がりのロード先生、とでも訳そうか。


「はい、それでお願いします……すーっ」


 カラオケマシンのセッティングがすむと、その曲は前奏もなしに始まる。少し静かな時間はあるだろうけど、と準備を整えて――『デュエット曲』であることに気が付いた。


「あ、待――」


 と言うわけにいかなかった。この場の空気を壊したくない。


 苦手なのにどうして?

 違う、苦手なのは、楽しいなりに私が壊さないか怖いからだ。


 ルークの方を見た。


『どう? これでも、私はルークに頼るだけの弱い女?』


 はいそうですごめんなさいと、今からでも謝ってこようか。

 嫌だ。けれど、誰かに頼らないことにはどうにもならない――


「……先生?」


 その時、すぐ側に萌葱色の彼がいて。


「やべえっ、あいつに歌わせるな!」


 ああ、相当歌下手なのかなと思いながら。


「先生、いいんですか?」

「いいんだよ、僕が歌うのはウケるし。

 それにこの曲、僕の名前が入っているじゃないか。そうだね……捻くれロード、とでも訳そうか」




 彼が歌うことの何がまずかったかと言えば、予想に反する天賦の楽才だった。田舎ではずっと音楽ばかりの暮らしだった、らしい。

 この後の芸は当然尻すぼみになり、結局アクラは苦い、申し訳ない思いをしたのだった。

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