10. それはロマンなのか②:あともう一滴だけと
『恩恵』は幻想に属さない。幻想と違い、科学研究の手垢が付いていない。解析は不可能であり、三位一体の盾の如く論理学原則を拒み、「そういうものだ」という理解しか受け付けない。
神与であることは確かで、かつこれを与えられたなら、その運命は往々にして超越的存在の圧迫を受ける。
彼らは選択の権を生来奪われている。それをどこかで、何かをきっかけに気付く。
「ルーク」
歩み寄ってくる足に、しかしルーク・ヒラリオという男は決意の都合上、たじろぐわけにいかなかった。彼女の白い手が
アクラに引き抜かれる剣をルークはついに抑えた。
「私やるから」
「駄目だ。僕は騎士だ」
「嫌なら私、歯でやるわよ」
「今ここでお前を気絶させてもいいんだぞ」
「ルークはやらないでしょ」
「そんなことは……ああ、目が合っているんだったな」
「合ってなくてもわかるって」
抑える手の弱さで、気丈を取り繕いながら折れている自分に気が付いた。
彼女のことなどすべてわかっていて、何がどうなるかわかっていて、何故止めようとしたのか。わかっている。どうなるかわかっているからだった。
引き抜かれた剣を見た。それを自分に手渡すのが彼女なのだ。
「上手い具合に、痛くないように頼むわよ」
剣と共に向けられた左手。これを引き寄せて抱きしめてしまいたかった。しかし彼女の手掌は閉じていて、手を取らす気などなくて、差し出される前から、やはりそんなことはわかっていた。
彼女のことはすべてわかっていた。
「ルーク君、私がやろうか」
白金の、自分など到底敵わない剣士が肩に手を置いてきた。柔にではなく、握りしめるように、どこか急かすように。それでもそれが中途半端で、彼女の体温というものを感じた。
「いいえ。僕がやります。僕でなくてはならない」
剣を取った。
真白の剣は、使い主の理性、意思、悟性、即ち法力の丈に従ってその鋭さ・硬度を決める。ここで彼は納得せねばならなかった。そうでなければ最悪紙以下のナマクラになってしまう。
「目を閉じなくてもいいのか?」
「はやく」
左手を横に構える彼女が、もう笑っているようにすら見えた。
構えたものを、振り上げる。
真白の肌に、その先だけを走らせた。
「……痛く、なかったか」
「ちょびっとだけね」
「すまない、やはり僕ではなく」
「駄目駄目、ルークじゃなきゃ」
純白の剣身には一滴の赤すらなかった。
数秒してやっと、柔らかい真白の手首に「すっ」と、赤い一本筋が走った。
「あなた、一体どういう」
「シュトルム閣下、ごめんなさい。説明は後にさせて下さい」
アクラはそのままロードにかつかつ歩み寄って、口を開かせるや否や、手首を噛ませた。
「っ」
「何をしているんですか、彼の口には毒が」
「待てグリーン、事情読めたわ」
事情が読めたというリシオンの顔は、決して緩みやしなかった。どころかすぐさま腕を組んで、小さな歩幅でアクラに近づいた。
「ようアクラちゃん、俺リシオンな。よろしく」
「アクラです。よろしく、お願いします」
「なあ、アクラちゃんの血には浄化の作用があるんだよな」
「はい」
「まあ水の恩恵ならデフォだな」
思案顔が続いた。そうしている間にも血は流れていく。唾液と混ざり、固まることがない。一滴も零さぬようにしている、といっても流れ方は、滴と数えるに適さない。
言うべきか言わざるべきかのところを、リシオンは言うに傾けた。
「で、この背丈の男を綺麗にするにゃァどんだけ要る」
「完全にしようと思えば、多分、1250ccは」
医学的見地のへったくれもない者は狩人にいないので、騒ぎが起こる。
「聞いちゃ悪いが、体重は」
「49.5キロです」
「かーっ、やせてやんの」
抱えたいままに頭を抱えた。
血液は体重の7~8%を占め、男性は多く女性は少ない。その30%を失うと死のリスクが伴う。
「しじゅーくーてんご、カケルさん、カケルなな……1039.5ミリリットルが本来の関の山、個人差あり、と」
リシオンはのびをするような声で呻いた。
頭を抱えたまま、座るアクラに合わせて膝をつくと目が合った。
「俺のこと知ってるか?」
「はい、国一番の大英雄様ですから、サンラーナにだって聞こえてきます」
「そらどうも」
そのまま彼はアクラが血を流すのを、凝視でもなく、しかしじっと見ていた。効果てきめんなのは、斑点の色がみるみる薄くなっていることだけでわかる。けれど彼は覚悟というものができなかった。
少し血色の戻ったロードが、何かを呻いた。
「……レシー」
リシオンは立つことにした。
「アクラちゃん」
「はい」
「俺が丁度いいところでここだと言う。完全な解毒にはならんが、暫くどうにか出来る。その瞬間に手首を離して、スピナちゃんに傷を塞いで貰え」
意識が解けていくのがわかる。それも段々とわからなくなってくる。
冷えてくる。消えていく。
「……」
流れる赤色が意識を繋ぎ止めた。自分の手から出ている。風呂桶に傷を浸す類いの自殺に似ている。
ちょっと顔をつねってみようとして、その手があまりにも重かった。
失血しているのに重い。なんて冷静な思考が一瞬出来た。思考にカロリーが燃えた瞬間、持って行かれそうになる。
「……」
瞼が少し閉じた。ルークとローナといろんな人の声が聞こえる。
「アキ」
意識が浮上した。
その呼び方はもう絶対しないって、あの時決めたんじゃなかったっけ。
リク。
「アキ」
繋ぎ止められるなあ、と思った。
リク、と返事をしたかったけれど、できなかった。勇気も気力もなかった。
「アキ、行くな。行くなよ」
その変調を今も覚えている。
思い出した瞬間に例の鼓動を再生し、血の気を奪う。
血の気を奪う? やめてよ。血の気が引くじゃない。
もう知ーらない。
「……ここだ」
「リシオン君、事情を聞かせて貰おうかな」
「はい」
「私はこのバーバラビルで、六十年医者やってきたんだ。塩梅ってもんには自信がある」
「……」
「いや、こういう時にふざけないトコ。君のそういうトコは好きなんだけどね。
でもねぇ、医者としちゃ今回の話、許せないなぁ」
すべてを有するバーバラビル、その2階には緊急性を鑑みて大病院が配置されている。
二人だけの部屋は窓もない密閉空間で、真っ白だった。憎らしいほど真っ白だった。かえって潔白でないものを浮き上がらせるくらい真っ白だった。
真っ白だった。手首を裂いたあの剣のように真っ白だった。
「君ぃ、ちょーっと多めに持ってかせたろう、血」
真っ白なテーブルで頬杖を付く彼の姿に覚悟が決まらなかった。むすっとしたように歪む彼の顔、歪むことがない目。リシオンはその目をそらすわけに行かない。
「直前がパーティで、よく食べてたのがよかったね。これも大神アルゴルの思し召しだ。でもあんた、本当に酷いことをしたよ。危ないところだった」
「はい、あってはならないことをしました。それを、良しとしました」
「何のために?」
「俺の家族のためでした」
「……」
何も変わらなかった。不機嫌も何もない、あるべき会話としてそれが続く。バーバラビルの医者は仕事人だ、とリシオンは不謹慎な感心をした。
「まあ、これで医者として私の言うべき所はおしまいだ。さっきも言ったように、ロード君の容態は未だ油断ならないところにある。意識はすぐに戻るだろうがね。
ああ、個人的な話なんてないよ。そういうのは、向こうの御仁から聞きなさい」
「はい」
頭を下げて、戸の前に立って、彼にはその間のことがすっぽり頭の中から抜けた。ぐるぐる渦を巻くものが邪魔だった。
「あ」
ふと思い出したように、医者が言う。
「個人的な話ってやつ、ひとつあったよ。
会って間もない相手でも善性を振りまけるような子に、あんなことをしちゃだめだ。君はそんなことをしないって、決めたんだろ?」
今度は笑っていた。
「昨日は本当に、ありがとうございました」
彼は他の返し方を知らなかった。「お大事に」と医者は言う、どうやら病気だと思われているらしい。
戸を開けてみると予告の通り、金髪金眼の美青年が爛々と光る気迫で待っていた。英雄と呼ばれたリシオンなりに、その将来が見えた。また、怒髪天を衝く力みが見える。
廊下は案外に暗かった。金の瞳がよく光る。
「……どうぞ」
拳にリシオンの体は打ち上げられて、戸にぶち当たった。
きっと中では医者がビックリしたことだろう、それで多分に「あーあ」といった具合で、あの退屈げな顔をするのだろう。
ルークは追撃しなかった。拳を引き収めて見下ろして、煌めく銀河は誰がどこからどう見ても正義で、凡庸な茶髪の青年、に見える中年などどうしても正義にならなくて困る。
埃をはらってホイホイホイッと立ち直すと、ルークは案外小さい。リシオンと相対するに見上げて目を合わせているあたり、妙に小動物的ですらある。
「閣下」
「結構です。あなた程の人に使われる敬語は癪だ」
「そか。割と冷静だな」
時間差で垂れてきた鼻血をポケットティッシュで止めて、その時にはもう平静だった。
「もういいのか」
「僕があなたなら同じ事をしたでしょう」
「冷静だな、マジで。この戸の向こうにいい医者いるぜ。紹介しようか?」
笑いかけると、口角だけの笑いが返ってくる。そのルークが不意にふらついた。
「寝ずの番か」と訪ねれば、「ええまあ」と素っ気ない返事で、これ以上話すものではないなと諦めた。この少年ならば我慢をきかすかも知れないが、如何せん目に見えて分かってしまう。
彼は白すぎる。漂白された白ではなくて、寧ろ重ね、併せ呑んだ光の白が目映い。それが世界から自分に対する絶対的な非難に思えて、リシオンは今日の件に限らず、己の汚点を思い返した。
『行かないで』
汚点と呼んでいいのかわからないことすら、そうだと断言されるような弱気が襲ってくるのだから質が悪い。
「最後に二つ、聞いていいか」
「何ですか」
「アクラちゃん、起きてるのか」
「はい。もうケロッとしています。心配して損をした」
一晩の徹夜程度であのルーク・ヒラリオがこうも疲弊したあたり、本音が垣間見えた。
「俺が行ってもいいか?」
「それをアクラからの伝言で、伝えに来ました」
「そりゃ手間かけた。お前も寝ろよ」
「まだやることがあります」
「ほい、無理すんなよ」
それで別れて、一瞬間の後、廊下の暗さをやっと実感した。暗さは彼に安心を呉れた。それでいい、そういうものだという類いの薄汚れを許してくれる暗さが彼にはありがたかった。
「あーあ、ばれちまった」
出来れば要求血液量の話も口にしたくなかった。誰ぞの制止を受けたくなかった。
聞いても制止がなかった時、彼女の決意が大の大人を黙らせていたとわかった時、都合が良かった。
それでも止まりたかった。彼女に英雄たる自分について問い、気付け薬のようにして、眠る自分を引き上げねばならなかった。けれどそんな答えが返ってきても吾是足知に至らず。
『……レシー』
きっとロードがそう呟かねば、あの善性ある少女を殺していた。今日まで彼が愛し続けている、この世で誰より美しい少女が引き留めてくれた。
それも本当か己が知れない。
「ここだ」は嘘だ。遅くなった。傍らで、必死に聞いたこともないほど柔く温い声で、あの貴公子が語りかけるのを見ていながら。それでいて、生気が損なわれていく彼女を誰よりもじっと見ていながら。
あともう一滴だけと、鎌首擡げる欲望に従った。
「入っていいかい」
「はい、どうぞ」
その声が聞こえて躊躇が湧き出ようとして、それを許してはいけない気がした。真っ白で黄金の輝きが罰のように背を押すのだからしょうがない。彼はすべて見抜いていた。
戸を引いた。
「おはよう」
「おはようございます」
まずもって目が合う。高い空のような水色の瞳がまた、あの裁きのような感覚を呼び起こした。彼女の傍らには真白の剣が置いてあって、「そういやあいつ丸腰だったな」なんてことを思い出す。
次に、毛布の掛かった丸椅子が隅に転がっている。それを取って座ると温かかった。
「凄いあざですね。殴るなって言ったのに」
「いいストレート貰ったよ」
「せめて蹴るくらいの知恵出さないかなあ」
「確かにな、素直なやつ」
「あとでキツく言っときます。すみません」
ルークは事情を知っていて、つまり彼女はそれをよく聞いていて。
椅子も冷めないくらいの急ぎで呼び出された、ということらしかった。
「謝るのは俺の方だ。すまなかった。俺の勝手になることなら申しつけてくれ」
アクラは丸目の素っ頓狂な顔で驚いた。彼女はリシオンという人間性を大英雄の印象で捕まえつつ、一人間として、ひょうきん者と見ていた。それがこうして真っ直ぐ背筋を伸ばすと、若すぎる見た目も相まって、途端、誠実な青年に見えてくる。
思えば彼の規矩は、感性的な話ではあるが貴人に近いほどのもので、茶化した振る舞いが誤魔化しに思える。
「頭上げて下さい」
どうしてと聞かれればアクラには答えられない。ただその強烈な人間圧というのか、そういった力に気圧されて口から零れ出た言葉だった。
「強いて言うなら、あの、握手とか、ですかね?」
今度はリシオンの方が素っ頓狂をした。
「まあ、俺の手なら一番勝手になるな。こんなもんでいいのか?」
差し出した手を取る速度が案外に速いので、そうされたリシオンと、誰よりそうしたアクラ自身が驚いた。顧みればこの人は史上最高の大英雄で、その成果は彼女の師たるロード・マスレイを軽快に凌駕する御仁だった。
アクラは彼に大分なもので、目が煌めくほどだった。
「ああ、そういや俺は和弓を使うんだが、和弓術じゃ右手のことを勝手っつーんだ。知っててやったのか?」
「いえそんな、私、ウィットの類いはてんで駄目なんです」
アクラは自分が真白の剣を撫でていることに気が付いた。柄をなでなで、何かを探っている。母親の乳首を探す赤ん坊に似ている。
「それ、ルーク君が置いてったのか」
「あー……」
「アクラちゃんが頼んだんだな」
「はい」
アクラにはそのことが非常な自己嫌悪に繋がった。甘酸っぱい羞恥心よりも深々と、罪悪感と呼んだ方が相応しいくらいで、さりげなく美しい景色は見逃してしまいそうな閉塞心情に包まれた。
「イイ剣だよな」
「本当、ルークみたいで……あっ、今のは」
リシオンは茶化し笑いのニヤつきをして、今度のアクラは本当に羞恥心から視線を落とした。
「甘えたっていいじゃないの、恥じんなよ」
「あれ、分かっちゃうんですか」
「たりめーよ、俺何歳だと思ってんの。自分で全部選んで進むなんてな、無理だ」
「ルークは」
「してないしてない。アクラちゃん、君がいるからそうできんのよ」
爆発的感情がアクラを襲った。
彼の大英雄が、慧眼の人が、ルーク・ヒラリオを見て「これは英才」以外の評を口にするのが新鮮であり、かつ彼を純白の選択者としないところに今までなかった崩壊の感覚を覚えた。
そしてアクラが支柱だと言う。
「私、ですか」
「他にいないだろ」
アクラの笑顔を見て、リシオンは満足げでもなく、素直に嘲笑した。
「話、戻していいか」
「え? どこにですか?」
「いや、今回の件よ」
「あぁ」
今のアクラにとって、その話題のなんと矮小なことか。万事笑って済ます気でいた。
「アクラちゃんの恩恵だが、献血しながら使うことは出来なかったか?」
「駄目ですね」
「だよな。恩恵ってのはそういうもんだ、無限のリソースにしてやろうとかリスク回避してやろうとかいう話は許しちゃくれない」
「なんででしょうね」
「そういうもんだ、としか答えちゃくれねーだろ。
そうだな……俺は、この世界をシステマティックに創ってきた連中が、ちょっと情に流されてそこから逸脱したもんだと思ってる。だから感情論理解が適するわけだ」
いちいちアクラは驚かされた。このリシオンという人は、本当にどこの馬の骨とも知れないような狩人なのだろうか。経験という言葉では片付かないのではないか、そこらの大人よりよっぽど洗練された教育を受けて思想を積み重ねてきた英傑なのではないかと推論が進んだ。
リシオンの声が制止をした。
「ところであの力、昔ルーク君のために使ったのか?」
「はい。十一の頃、ルークも毒殺されかけたことがあって」
「うっはー、そりゃあいつも嫌がるわ」
「その時は私、こんなにはやく起きなかったんです。ルークったら、真っ赤に泣きはらしてました」
「当ててやるよ、そりゃ君もだ」
「うわー、正解です」
と、ケラケラ笑いが起こったところでバンと戸が押し開けられた。
「先生が、先生が起きました!」
真っ赤に泣きはらしたローナだった。
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