06. 言葉の虚なること①:それが僕らを惑わす
救世神話の後日譚を総括した書物は存在しない。それは伝記の主人公たるべき彼の人、大神アルゴルが只今も人の世を治めているからである。
永世君主としてガルターナの中心・バーバラビルの最上階に住まう大神アルゴルは、運命の日から二万年間、世界再興を御自ら進めてきた。大結界の要となってケモノの侵攻を食い止め、数多の文明を復興し、崩壊した世界の陰鬱を喝采に押し上げた。彼を救世主と呼ぶことに、反論の余地はない。
しかし世界にはガルターナ含め、四つの『生存地域』が存在する。
各々に三家ずつ大神アルゴルの駒を置き、合わせて『十二臣家』とすることでそれぞれ彼の庇護下にあるが、治世において大神に服従するのは、ガルターナ一国に限る。
「……いい時間だな」
試験から七日経った。
ルークは寝覚めがよく、ぱっと目を開けばすぐさま両の肘と掌底を支えにし、上体を起こしてしまう。
右側から薄いカーテンを透かす朝日がかかった。視線はそれがベッドにつくる影を辿って左側へと移っていく。傍らに、アクラがスウスウ息をたてていた。
王都に訪れこのホテルに来た初日、アクラは無理矢理ベッドを引き摺りルークのものに繋ぎ合わせた。ルークは寝に付こうかという時分だったのでよく覚えている。ただ滑稽なことに、アクラは毎度縮こまりつつ・ルークを押し込みつつ真横にやって来るので、ベッドは一つで事足りた。
ル―クは、下ろすと案外にポニーテールのクセが残らない黒髪と、穏和な寝顔にほんの少しだけ目をやって、小さな肩に手をやった。
「アクラ、起きろ。朝練の時間だ」
「んぅ…………今日くらい……」
「馬鹿を言うな。休む理由を考えるのは、本当は望んでもいない者がすることだ」
「きびっしいなぁ」
布団から、しょうがなさげな右手がモゾリと出てくる。
「何のつもりだ」
「おきれません。おこしてください」
「いくつだお前は」
「じゅうごちゃい児」
「……頭は回っているようだな」
ルークは既に寒そうな手を、しょうがなさげに、両手で包んだ。
アクラは、へへ、と笑う。
「手ぇ、あったか」
「早く引け」
「ん……しょおおおっ……ふあぁあぁあぁ」
ドサッ、ともたれ掛かるアクラの頭を肩で受け止めた。
耳元に間抜けな欠伸が伸びた。「あぁ」の音は一回ごとに低くなって、呼吸音とそう変わらなくなった。
「あ。今日、お洋服あわせるんじゃなかった……?」
大義そうにぼやく声。
「……そうだったな」
「わぁい、朝練休める」
「疲れるぞ、あれは。それと、今起きねばならんのは同じだ」
「やぁー」
眠いなりにジタバタして、特に、もたれ掛かっている頭が左右に滑る。彼女の髪が肌の上でざりざり擦れて妙に痛く、ルークは面倒になった。
「わかった。僕が朝風呂を取っているから、お前の番まで寝ていろ」
「お、やった」
というのが、二十分前のことだった。
「ルーク、入っていい?」
「絶対に駄目だ」
「ちぇー」
アクラは結局寝付けなかったらしく、ゴロゴロした末、ルークのいるユニットバスの戸の前で丸まることにした。
「何度も言っただろう。男女で風呂を共にするのは相手を選ぶものだ。本来は寝床もな」
「サンラーナでは普通だったじゃない」
「あそこはそういう伝統だったのだ。王都は違う。
森で水浴びや野宿をすることがないなら、男が見張りで共にあることもない。そもそも、お前に水辺の警護など要らなかったのだ」
「気持ちの問題よ。女一人で水浴び……お風呂とか、けっこー不安なんですけど」
「受け入れろ。文化の違いだ」
「……こっちに来てからずーっとそう」
戸に張りつくとヒンヤリして、ザーザーと風呂桶を打つ水の音が聞こえる。力を抜くと背中は戸の上を滑っていき、戸のフチのせり出した部分で頭がつっかえた。
そのままじっとして、退屈そうな半目をした。
「ビルとか。車とか。お店とか。スマホとか……すごいよ? すごいと思う」
「……」
「でも、すごいって正しいの? 一番偉いの?」
「一番でなくとも、偉いのは確かだ。素晴らしいものだ」
「じゃあその偉いもののために、服も、しゃべり方も、食器も、寝床も、お風呂も、ぜーんぶやり方を変えるの?」
「そうだ。郷に入っては郷に従えと言う」
「わかってるわよ……でもつまんない」
「条理や道理に、つまらんも何もない」
きゅっと締まる音と共に水の音が止んで、少ししてバサバサとタオルの音がする。
「なんで私たち、別れなきゃいけなかったの?」
その音が止まって、たった一瞬だけ無音になった。
すぐにまたバサバサと音がする。
「何だ、いきなり」
「いいから」
「……それが最善だからだ」
「その目の命令でしょ?」
向こうの彼は、木偶のように何も答えない。
「どうするの? そんなファンタジーな理由で『しょうがないね』って別れてくれる子、私くらいよ?
ルーク君ってば一生独身だー」
「構わん。ヒラリオの当主は力で選ばれる。別に子をなして継がせずともよいものだ。今日まで世襲されてきているが、各人の努力によるものでしかない」
「……はー、これだから」
背に圧力を感じ、横に退く。その方向に戸が開くので、アクラは高い影に覆われて、ルークが見えなかった。
「そうやって、ずっと誰かの言うことを聞き続けるつもりなの?」
「誰ぞに選択を委ねた覚えはない。世間の事物に受動的で居ていいのは餓鬼の内だと、あの時言っただろう」
「ふーん」
アクラはこれで一気に拗ねてしまった。邪魔な扉が閉まると、ルークの方は見ずに、ベッドの方へパタパタ走って行って、ボサッという音をたてた。ルークが「風呂に入らないのか」と問うと、「入るから先に行ってて」と不貞たまま言う。
「僕は騎士として、今の主たるお前から離れるわけにいかない」
「じゃあ主命令。行って」
「戸の前で見張らなくてもいいのか。怖くないのか」
「いいわよ。そうしなきゃいけないんでしょ。お利口なルーク君がそう言うんだもの」
「怖いんじゃないか」
「……」
「何度も言わせるな。お利口などと……僕は奴隷ではない」
「早く行って。今日忙しいんでしょ」
「……この部屋は今日引き払うんだからな。片付けの時間を考えておけよ」
アクラの耳は数秒、足音に敏感になった。それはルークが去って行くまでで、戸が「バタン」と音を立てると、急に寂しさが押し寄せてくる。
「ばかやろー……わぁってるよぉーだ」
ある変調を今も覚えている。
あの破局の日、ルークとアクラの二人だけで大切にしていた呼び名をやめた。呼び名だけでなくて、ルークはその時から、日だまりのようだった声音を月のように淡く冷たくした。それは彼女の心臓をドゥンと沈むように鳴らして、呼吸を絞った。
『アクラ』
その変調を今も覚えている。
思い出した瞬間に例の鼓動を再生し、血の気を奪う。
「すごいすごい。ルークはすごい」
彼は決して正義の味方ではなく、己の主義が正義と王道の上にあるだけだった。誰かの道を後ろから進むことがなく、先頭を走っていた。誰かの道を後ろから進んだのはアクラだった。
『じゃあよろしくね、騎士様』
誰にどれだけ肯定されたとしても、ミレント・アーラが正しかったのだと彼女は思う。狩人として正しかったとしても、きっと、どこかの誰かの正しさの網にかかっている。世間で「道」と呼ばれるものに反した。所詮狩人の試験に受かっただけだ。
アクラはその思考に至って己を恥じた。あの九十余名が欲しくてたまらなかったものを馬鹿にした。間違っている。
『それは誰のための願いかな? 皆のため? それとも、君を飾るための願いかな?』
今の自分がどこか必死だと思うと、不意に「先生」の言葉が浮かんだ。
自分の中に自分を壊して回る何かがいて、それも自分で、そいつはあたりをキョロキョロ見回しながらビクついている。そいつを隠そうと笑っているのも自分だ。けれどそいつを放してはいけないと、何か高潔なものだとも思っている。
そいつは正しくないものを捨てていって、最後にはきっとなにも残らなくなってしまうのに。
あの言葉は、自分のためにある。
『世間の事物に受動的で居ていいのは餓鬼の内だ!』
ルークは高潔で、常に委ねず選んできたとわかっている。
「お利口」なんて、妄想だとわかっている。
なら、ルークは自分を、アクラ・トルワナを意思で割り切ったのか。心から決別してしまったのか。
「お利口」の一言で、ルークがいかに傷ついたかわかっている。
その傷は、理解者であるはずの自分に裏切られたからだとわかっている。
それだけルークは自分を必要としていると、愛したまま決別したとわかっている。
わかりきっても問いただすのは、その理由だけはわからない。ルークのことならなんでもわかっているけれど。
「……お風呂はいろ」
バーバラビルの大広間は今日、絢爛豪華な料理に装飾、立ち並ぶ白いテーブルクロスと、しかしながら華麗さに欠ける正装の人々で溢れかえっていた。ステージの横断幕に『新人狩人歓迎会』と題されるところを見れば、成る程、無骨・不格好・ニワカ御洒落が散見されるのも無理はない。
ルーク・ヒラリオはその中で、黒地の縫い目に金をあしらい、真っ赤なマントを翻す騎士の正装をして絢爛に映えていた。
「ルーク!」
「ローナ。久方ぶりだな……ほう」
ローナはと言えばルークの晴れ姿に見惚れながら、しかし彼女自身可憐な装いをしていた。丈・袖ともに長い真白のレースドレスは貞淑で、手袋や右耳の上の薔薇飾りすら白く、赤い瞳と髪によく映える。
「ウエディングドレスのようだ」
「いえ、私なんて背伸びしてるだけでルークの方がウエディング!?」
「そうか? 至って普通の騎士の正装だが」
声を裏返すローナをよそに、ルークは身だしなみを気にしだした。これはローナにしてみれば都合のよいことで、「あっ」などと言って硬直するような恥をかかずに済んだ。ルークの方はひたすらに、「どこか珍妙なのか」などとぼやき、端々を探っている。
「あ、えー……今日の答辞、新人代表はルークですよね」
「ん? ああ。それと……」
「それと?」
「いや、何でもない」
上手く話題を振りかえた流れで、ローナは勢いづいた。
「何でもあるって目に書いてありますよ」
「ないことにしてくれ」
「この借りは高いですよ?」
「何かしら埋め合わせよう」
「へへ、やった」
ルークは彼女に対してつい、眉間の辺りから眉を低くしながら、どこというわけでもなく全体を眺めてしまった。彼は自分のそういった性質を酷く嫌っていた。
笑いっぱなしの女性に対面すると、その心中を看破することが億劫で目を合わせない。そういった性質を小心と唾棄し、かつそれによってアクラに楽を見いだした覚えがある。
「トウカとは会ったか? 見ないが」
「私もです……アクラはどこに行ったんですか?」
「別行動だ。つまらん口喧嘩をしてな」
ちょうどよくファンファーレが鳴った。
「十二臣家の儀、始まりますね」
「そんな時間か」
「
「今日はいらっしゃらない」
「え? でも十二臣家の儀……もしかして、さっきの『それと』って」
「お察し通りだ」
十二臣家の儀とは、神事である。何を意図し如何なる神に捧ぐかといえば、発展を期し、永世君主アルゴルに捧ぐ。国家の大事に際しては必ず行われ、二万年にわたり受け継がれてきた、揺るがしがたい伝統を持つ。
これに出席しないということは、十二臣家の地位を捨てることと等しい。そのような場で、ドラム・アーガロイド・ヒラリオの姿がなかった。
「それって、つまり」
「そうだな、そうなる」
正装の騎士はキリッとした背筋を少しも揺るがさず、舞台に向かって人をかき分けることもなく直進していく。人はその威迫ゆえ自ずと道を譲り、左右に割れながら、その気の正体がルーク・ヒラリオであるとわかった途端あんぐりとした。
「ドラム将軍がついに腹を決めたな」
こんな言葉が漏れ聞こえてくる。
「ルーク、本当に……」
「よう」
「あ、リシオンさん!」
すれ違うように現れたタキシードの青年は、小気味よく笑っていた。容貌はいかにも陽気で、無造作に整えられた髪型も含め、タキシードという格好があまりにも似合わない。
背丈は高くスタイルに優れているところを見るに、彼のパーソナリティが根本の原因であると見て取れる。
「こんばんは、ジー……んん、ローナちゃん」
「はい、こんばんは」
彼の後ろから付いてくる者が二人いた。
片方が特に異様で、肘あたりまで伸びた白金色の髪の華美なこと、同じ色の瞳も澄み渡っている。かくもうら若く美を象徴しておきながら、彼女はドレスではなく、ルークがしたのと同じような騎士の正装をしていた。
「こんばんは、スピナさん」
「こんばんは、ジーナちゃん」
淡泊な返事をするスピナの表情はこれまた淡泊で動かない。そこに一切感情はないように思え、憂いの姫君と呼べば愛らしい。
そんなスピナに、ローナは相も変わらず笑顔でいた。
「こんばんは、スピナさん」
「……こんばんは、ローナちゃん」
「へへ」
「……」
スピナはやはり笑わず、しかし目を逸らした。
そして二人目は、藍色のマントに身を包む彼の人、ロード・マスレイだった。
「こんばんは、先生」
「こんばんは、ローナ……事情を説明してくれるかい?」
「何のことですか?」
ローナの笑顔はスピナの無表情に勝るとも劣らない、鉄壁の守りを見せた。
「……手助けしたのはリシオンさんですか? 僕に分からないよう戸籍まで弄って……」
「ちょちょちょ、何のことだよ! こんなか弱いおっさんが何したってんだよっ」
「そうですよ先生! この人見た目が若いだけで、本当は今年で四十三歳のインチキおじさんなんですから!」
「コレッ! ローナ之助ェェ~!」
「きゃーっ!」
芝居がかった二人のやりとりを、ロードは眉一つ動かさず見ていた。
「ジーナ」
こう呼びかける。ローナは、口笛を吹いてとぼけている。
ロードはこれで決心して、大きく息を吐いた。
「ジーナ」
「ぁ」
今度こそローナは動きを停め、強ばった。彼の声音が、その変調が冷徹であったためで、かつそれは「そうそうない」ことだった。
「あの」
「君がジーナでないというのなら、あの山の家で暮らした覚えもないと言うんだね?」
叱るにしては冷えた声がする。
「あそこで食べたサラダの味も、何度も読み聞かせた物語も覚えていないんだね?」
「私は」
「では、初めましてというわけだ。ローナ・マルセラン」
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