03. セカンド・コンタクト①:悪魔降臨

 2万年前、星には鉄と火と言霊の文明が栄えていた。

 それは果てに命を焼き星を割り、持ちうる総てを自壊に尽くした。この救いようのない世界を救った大神の神話を救世神話と呼び、大筋を三分割にして語り継がれてきた。


 「地球展開メルカトライズ」。

 「幻想漏出リアライズ」。

 「災火封印ディスビリーフ」。


 救世以前を旧世界、以後を新世界と称するのは、これらの天変地異が世界の在り方を全く変えてしまったからだった。




 王都北方を覆う山脈は、暫く晴れていた霧を久々に纏って見通し難い。不運なのは、その日この山をどうしても上らねばならない少年少女たちだった。


「手を貸せ」


 アクラは突然差し出された手に若干狼狽した。差し出した側のルークは真顔で、これが少しでも不思議なことだと思う素振りがない。アクラからすれば山登りで手を引かれる狩人など呆れ果てたもので、ましてあのルーク・ヒラリオが容認するとは思えないことだ……と、実際はこうも考察したわけではなく、


「どうしたの、急に」


 感覚的違和感からただちに問いを投げた。


「この山、おかしい。ほんの微妙に、色濃く粘性の強い魔力の霧だ。声と距離の感覚がずれてきているのがわかるか?」

「……気付かなかった」


 言われてみればというほど微かに、大気のぬめりがあった。ただの湯と温泉の湯では肌に残り付く度合いが異なるような、そんな感覚を大いに薄めて隠してある。


「流石、感知は完璧ね」

「少しずつ濃くなっている。僕は、万が一にもお前を見失うわけにいかない」


 腰に佩いた直剣にほんの軽く手を添えて、瞳の奥の銀河は霧の中でも霞まないほどはつらつと輝いて、かつ静かな夜のように厳かに見えた。そんな端然とした火のような気勢が不意打ちでアクラを囲い込んで、どうにか冷まさなければ口付けでもしそうなほど熱い。


 アクラは和らげるつもりで、手を伸ばしながら、万人が振り向くほど可憐に破顔した。


「じゃあよろしくね、騎士様」


 彼が騎士に名乗り出たのは、彼の父である現ヒラリオ当主ドラム・アーガロイド・ヒラリオ将軍の意向による。

 というのも、アクラには両親がない。母代わりの女性と共に住んでいるというが、彼女を見たものはなく帳簿にも名がない。結局のところ、アクラ・トルワナには保護者・後見人がなかった。

 これが試験自体に差し障ることはないが、下らないことに、王都行きの馬車を使うのには後見人が要るのだった。


「妙な感覚だ。ここらで強い変化が起こるぞ、気を付けろ」

「わかった」


 そこでドラム将軍は『幼少より続く練磨の親交に感謝を』とて、王都行きの息子を側に付けさせた。どうやら三年以上前からの約束だったらしく、これを以て彼女の後見にヒラリオ当主の名が刻まれることとなった。


「っ! ……声は、聞こえるか」

「聞こえる。けどくぐもってる」

「試験会場に辿り着くまでがまず試験ということか。手を離すなよ」

「道、わかるの?」

「明らかに力の流れが異なる場所がある。会場は確か廃教会だったはずだ、廃れていても法力が溢れている」

「了解」


 『幼少より続く錬磨の親交』との言はその通りで、アクラはルークの勇を、ルークはアクラの優を知る。


 今は前で手を引くルーク、後ろで手を引かれるアクラだが、何度となくその役割を入れ替えてきた。彼女は彼に無理を任せ、彼は彼女に思考を預けた。指揮と戦士としての共演は数えきれない。


「ルーク」

「何だ」

「霧、払っちゃおうか。ちょっと願うだけだし」

「駄目だ。試験前に技を晒して……実戦形式だったらどうする」

「はーい……ルークだって気力使うくせに」


 そのやりとりに両者、思うところがあったらしい。


「ねえ、別に」

「今のは別に」


 濃霧の中でも分かるほどに目が合う。


 あの火を二人で思い出す前に、笑いあった。


「……アホらしいな」

「本当、何なんだろーね」


 それからしばらく歩き、魔力の霧は自然のそれに変わった。後からわかることだが、例の濃霧は教会までの経路の内50メートル程もなかった。ただし、感覚において直進していても実際は右往左往しているという悪辣さで、使い手の意地の悪さが伺える。


 道中の話題には事欠かない。アクラにもルークにも楽しい話は要らず、話が楽しかった。霧はいつの間にか、すっかり晴れていた。


「ここだ」

「うそ」

「嘘も何もない。いやしかし、早出してよかったな」


 雲一つない晴れ空の下、深緑の中に廃教会はあった。


 屋根はない。脇に山をなす瓦礫がそうだったものに見える。かわりに全面を蔦に覆われ、倒木や嵐で割れた窓、錆びて朽ち落ちた扉から侵入を許している。絶好の日当たりらしく、植物は活き活きと天を衝いている。


「これが、教会なんだ」

「普通はこんなじゃない。しかしまあ、皮肉の効いた生えっぷりだな」


 扉の残骸を跨いで入ると、思いのほか蔦がない。外だけを走っているようで、清潔に保たれていた。特にベンチとステンドグラスは未だ教会の面影を残している。


「皮肉って、何が?」

「それは……いや、ここでこれ以上は言うまい」

「何よ、尻切れトンボね」


 と、


「閣下は敬虔な方なのですね」


 隅のベンチから声がする。


「先客がいたか」

「運良く霧の浅いところを抜けまして」


 立ち上がった青年は焦茶のマントに身を包み、目深にフードを被っていた。露出しているのは手先と口元だけで、小綺麗なのがわかる。どことなく中性的な印象を受ける声音は、その言葉に深長な響きを乗せる。

 神秘的で隠者のようで、かと思えば長年の友人のように自然すぎて、それらすべてを形容するにはミステリアスと言う他ない。


 青年は言葉を続けた。


「許して差し上げて下さい。ヒラリオ氏は基督キリスト教の流れも汲んでいるので」

「えっと……はい」


 口元の笑みはどこか老い果てて、穏やかで、痛ましいほどに優しい。アクラが口ごもったのは急な会話に戸惑ったからではなく、むしろ自然すぎて、思わず「うん」と答えかけたからだった。


「基督教は人間中心主義を唱えています。人が自然を管理することは神が認めた権利たり義務たる、とのことですが」


 不意にフード越しの視線が窓辺を向く。教会を侵食する蔦の葉の先、今にも落ちゆく朝露に彼は意を注ぎ、柔かに見守る。その視線を2人とも無意識に追いかけてしまう。


 その時、こぼれ落ちた。


「形無しですね。どうやら僕ら人類には難しい任務だったようです」


 彼の言葉はアクラにとって恐ろしいほど腑に落ちた。本当に恐ろしくて、何か得体の知れない、しかし心持ち、最も本質的な何かに触れている。もしくは触れさせられている。


「基督教における緑は永遠を象徴する善き色ですが、同時に御しきれぬ存在、悪魔の象徴でもあるのはそのためです……見当は合っていますか?」

「……あ。合ってるの?」

「ああ、見事な説法だった」


 ルークは目を丸くしていた。何せ出会って10秒も経たない相手にただの一言で真意を見透かされたのだから、手品を見ている心地に違いない。

 アクラの方はそれを物珍しげに脇見しつつも、実はより深刻な気分に陥っていた。今まで彼と知り合わなかったことを疑わしく思うほど、まるで慣れ親しんだ衣服のように、このローブの青年を馴染み深く感じていた。


「きっと僕たちは名乗りあうべきだな。ヒラリオ家十二代当主ドラム・アーガロイド・ヒラリオ征南将軍が三男、ルーク・ヒラリオだ。以後よろしく」

「トウカ・ロト・ミラーシオンです。身に余る光栄です、どうぞお見知りおきを。そちらの方は?」

「私はアクラ・トルワナ。一緒に頑張りましょ」


 3人の自己紹介は、胸中に湧く無意識の予見を映していた。教会に注ぐ温かな光条の下、心は何故か運命を見出した。彼の存在は外来ではなく寧ろ内在していて、三人それぞれの内には生まれたときからそれぞれの姿があったようにすら思え、精神世界に複雑な絡まり方をした毛玉があったなら、ずっと解きたかったそれを解いたとき、中には間違いなくそれぞれが居る。


 こういった、神秘的で運命的で奇跡的な感覚は、万人に共有できるほどよくあるものではなく、特殊な才能の覚醒に似た何かと言えばそれらしくなる。


「ところで、ご関係は?」

「あ」

「あ」


 その不思議な世界を破る彼の手法は、二人の例の下手なごまかしと違い卓越していた。トウカは惰性か他の何かで繋がれていた二人の手を、目を見せずとも頭の向きで存分に「見ていますよ」とからかってみせる。


 両者同時に振り払うようにして離れながら、また思うところがあったらしい。


「ごめん、別に」

「すまん、別に」


 目が合って、一拍おいて、また阿呆らしくなって、笑う。


「あのね、別に恋仲とかじゃ~……ないの」

「ああ。王都行きの馬車に後見が要るのだが、アクラは事情が複雑でな」

「例の騎士騒ぎはそういう事情でしたか」

「ああ。そういう訳で…………いや、末恐ろしいな」


 またこの感覚だ、とルークは戦慄すら覚えた。アクラも一瞬遅れてその意味を理解し、ついに違和感の正体を理解した。


 彼は客観視を極めている。


 計ったように落ちた水滴も、芯を見抜き一をして十に至る洞察も、彼が常に他者を指向しているからなのだと、説明不要なほど胸に刻み込まれた。

 その呆然から先に抜け出したのはルークだった。


「では僕からも聞きたい。そこで寝ている女性とはどういう縁だ?」


 どうにか言葉を返すに至る。


「寝てるって? ……あ」


 トウカの座っていた場所の少し左から、起き上がる影があった。光を浴び毛布をずらしながら、その赤毛があらわになる。


 少女は少女然として、おかっぱで、目も髪と同じように赤く、狩人にしては華奢な可愛らしい女の子。眠たげな目がぱっちり開くと本当に幼げで、師弟制試験を受ける十五才の少女と思うとあまりに幼く見えた。


「初対面ですよ。僕が来る前からずっとここで寝ていらしたようです」

「誰か来たんですか……?」

「おや、起こしてしまいましたね」

「んぅ……うそ」


 この教会のように、その子は、居るだけで人を和ませる。


「ルーク、君?」

「ん? いかにも、僕はルーク・ヒラリオだ。よろしく」


 少し残っていたまどろみが、その時すっかり醒めたらしい。目頭をこすっていた右手はパタッと落ちて、黄金銀河の瞳を食い入るように見つめて、だんだん紅潮していく。


「いつかどこかで、会ったか?」

「え、いえっ……でも何度も……えっとっ」


 アクラやルークのように取り立てて見目よいわけではなく、けれど慌てふためく彼女の姿は小動物じみていて、思わず手を差し伸べたりしたくなる。


「失礼しましたっ、閣下、私はジ」

「ローナ・マルセランさんですか。穏やかなお名前ですね」

「ふぇ? ……そ、そうですっ! ローナ・マルセランです!」


 初対面と言った彼だ、けれどローナがひっしと握っている封筒に、小さくその名が記されていた。


「私はアクラ・トルワナ。よろしく」

「ひえ」


 今の今まで気付かなかったらしく、ローナの仰け反り様は並でなかった。なにせアクラの美麗さ、可憐さは群を抜いている。

 白く華奢で柔かで、きっと気を抜けば触れてしまう。艶やかな黒髪、目鼻立ちは神の恩恵か呪いか、甘と美の中庸に在って、気を強く持たねば呑まれてしまう。

 そんな少女が『ルーク君』の隣で明るく笑っていた。


「あうあうあうあ――」

「僕はトウカ・ロト・ミラーシオンです。よい縁になるといいですね」

「あうあう――え?」


 ローナもまた、彼の隠者然とした気配に魅入られてしまったらしい。差し出された右手に呆け半分で己の手を差し出した時、その軌道があまりにも自然で、その握り心地があまりにもぴったりきたから。

 その神秘に対する驚きを、彼女はそれきり言葉にしない。ほんの些細な偶然に思え、話題にするようなことではないと流してしまった。けれど、珍妙なまでに無抵抗な握手は深層の記憶に焼き付いた。アクラからしても、ルークからしても、見ているだけでそれは不自然なほどに自然だった。


「よろしく、お願いします」


 それきり彼女は動揺も焦りも払い落とされたようだった。何事もなかったように座りなおすトウカの他は呆けてしまって、少しかかって自我を取り返し、沈黙のまま四人並んで座った。


「しかし、同年代に閣下閣下と呼ばれるのは気味が悪い。もう少し平易な呼び方にしてくれないか」


 破ったのはやはりルークだった。


「いっそ閣下ってあだ名にする?」

「勘弁してくれ」

「ではルークさんとお呼びしましょう」

「ルークでいいんだがな」

「あの、なら私、ルークって呼んでいいですか?」

「もちろんだ、気楽でいい」


 目に見えて嬉しげなローナは、アクラに微笑を誘う。よしっ、よしっ、と口には出さず、けれど聞こえてきそうなくらいガッツポーズして、ふふふ~と笑っている。小さくて不安定で、きっと多くに一喜一憂する少女なのだろうと思わせる。アクラは微かな嗜虐心を、ルークに対して持つのと同じような心地を誘われた。


 同時に、分け隔てられていたものがまた一つになった形のような心地がある。果てなき旅の果てに辿り着いて得た何かのような、はたまた拍子抜けな方法で導き出した答えのような。例の覚醒の感覚は、もう一つ高い次元まで突き詰めた。

 あきれ果てるほど、この四人の組み合わせが「正解」に思えてしまった。川辺の石を組み合わせて、ちょうどよく噛み合ったときの思いによく似ている。




 結局二十分もの間、四人は雑談にふけり、やっとのことで十人ほどまとまってやってきた。例の霧の迷宮は相当悪辣だったらしく、足下をぬかるみに取られたり虫や蔦に顔面を襲われたりと災難に遭ったことが見て取れた。

 以降、似たような酷い目を見た学生たちがおぼつかない足取りで入ってくるたび、アクラの背中は丸まっていく。性分が克己的なだけ、ルークを案内にしたことが胸の凝りになっているらしい。突き刺さるほどに視線を縫い止めて離さない、彼女の可憐さもよくなかった。

 遂には「私、下山してやり直してくる」などと言って立ち上がり、三人がかりで引き留められる始末。試験開始まで三分を切る頃合いだった。


 また、そんな時間になってなおロード・マスレイは現れない。


「お兄さん、大丈夫かな……」


 と、ローナが小さな声でこんなことを言う。


「どうした?」


 はっきりと聞き取れたわけでもなく、しかし意味ありげな様子を、ルークは毎度の如く一番に感知した。


「あ、いえ、何でもないんです」

「嘘を言うな。人生最大級の心配事をしている」

「え?」


 この脈絡から「嘘だ」と指摘されるなど、常人には不可解極まる。ローナは常人の範疇に在って、これを受け入れがたかった。

 トウカはこういった感知に通ずるため聞き流し、アクラは事情を説明する側だった。


「ローナ、ルークの目に星が見えない?」

「星ですか? ……はい、なんだか銀河みたいです」


 彼の黄金銀河の瞳は、神秘の真体であった。その不思議な眼球にローナはまたしても吸い寄せられる。その距離がパーソナルスペースに侵入してなお、彼女は気付かなかった。


「んん!」

「……」

「ローナさん」

「アッ」


 アクラの咳払いとトウカの呼びかけで、やっとローナは戻ってきた。

 目配せの先は後方。貴公子ルークは注目の的であり、その近くもよく注目され、「すみません」と引き下がるローナは耳の先まで、頭蓋にランプでも突っ込んだみたいに赤い。


「いや、別に不快ではない。ただ、僕の目は珍奇な性質が多い。引き込まれぬようによく気を付けてくれ。あまり人に言うのも、控えて欲しい」

「そういうわけで不思議な目なのよ。相手の目を見ると、嘘とか幻とかわかるんだって」

「なんだか便利ですね」

「いや、ところがな。かわりに僕も、目を見られると言葉の真偽を見抜かれるのだ」

「深淵を覗く者は、というわけでしょうか」

「大仰な。言ってしまえば虫眼鏡だ」


 返しつつ清らかに笑うルークは、永世君主のガルターナにおいてはあり得ないことだが、風格・素質に王のそれを備う。彼の声音は周波数がよいのか、あるいはこれも黄金の神秘なのか、人に心地よさを与え、服従の意思を呼び起こす。貴人への畏怖と朋友への親愛が、聞く者すべてに湧き上がる。


 と、ここまで話が進んで、ローナの嘘は隅に追いやられてしまった。些事を吹き飛ばすのもまた王気と、人は言う。


「さて、そろそろ試験開始の時刻だが」

「人が来る気配は……ああ、一人、別の人が走ってきますね」


 教会の壁の割れ目から、全力疾走する青年が見える。目は真っ黒で、例の萌葱色ではない。彼は時計を確認する暇すらなく、ギリギリの秒読みに心臓を跳ねさせている、そんな必死の形相をしている。


『さて、頃合いかな』


 その時、虚空が声を発した。

 老熟した、低く優しい声を。


 彼らは再び出会う。

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