【大神編】
第1章:セカンド・コンタクト
01. 魂乞いの雨
その夜、サンラーナ村にはむやみに雨が降っていた。
果て知れず星も見えない闇の下、激流は暴風を伴って岸を蝕み、柵を流し、畑に溢れた。
雨滴を通し見れば、空間と物の輪郭がぼやけていく。形あるものが押し流されていく音は、闇の奥で、どんな音も併せ呑んでしまう。
「どうか、お願い」
金冠の麗人はひとり、灯の点る小屋の軒先に寄り、五体を濡らし立ち尽くす。腰まで届くたっぷりとした髪はしっとりと水を含み、長いまつげに雫をこぼし、伏せた目にあの曖昧な世界を映す。
辺りは夜の暗さと、激しくも単調に続く濁流故に宇宙を思わせる寂しさであったが、彼女の存在感がその立ち位置一点のみを明確に線引きしていた。
と、小屋の中で産声があがる。麗人は打たれたように顔をあげた。
「女の子ですよ」
と人が言う。露走るガラス窓の奥に、健康な稚児が抱えられていた。なんとも可愛らしく、小さな赤ん坊。麗人はぽかんとして見つめ、心ここにあらず、
「宿ったのね?」
思わず空に問う。
「やった、やったわ……ああ、可愛い」
気持ち投げやりで今はただ、その子の誕生が喜ばしく、先に待つ運命すら知らんぷりをしてみせた。
それを、少女は側で見ていた。
『グレイス様?』
『あの子供は私? うん、あれは私』
『でも私じゃない』
『これは現実?』
『ううん、違う。これは嘘』
然り。
此れは嘘。
此れは夢。
「……」
声も上げず、瞼も開かず、身じろぎもせず、ただ意識だけを浮上させる。
少女は見ずとも、自分が大切な人の、夢の麗人の膝の上にいると分かった。
「望み通りにはいかなかったけれど……」
目を覚ましてはいけないと気付いた。身を固くするのも憚られた。それで少女は小さく動いて、狸寝入りを続けた。
「accurate……もっと精密に、オリジナルに……だからアクラと……けれど……」
聞きながら、何故か目頭が熱くなる。
「けれど……」
グレイス様、泣かないで。
グレイス様、ごめんなさい。
私、何がいけなかったの?
私、どうあなたの思いに沿えなかったの?
「あなたは……」
グレイス様、ごめんなさい。
私、もっと。
「ふあ……」
「気張れ。もう少しだ」
それもまた、夢だった。
まばゆい窓の外を見れば、土手と、その向こうに広く大運河が走る。
揚々と桜舞う晴天の下、馬車はゆっくり轍を踏んでいた。遠くに連なる橋が見えて、景色の先には霞んだ摩天楼が映る。
「なにこれ、多重夢……?」
「疲れているんだろう」
腕を組んで左隣に座る青年は、呆れるほどの美男子だった。線が細く、色が薄く、冷たさすら感じさせる凜とした金髪金眼をしている。
しかし瞳をよく見つめると、黄金の銀河が広がっていた。そう形容する他ない星々の如き輝きが散りばめられて、無限の果てに吸い込まれそうになる。かえって現実味がなかった。
「……また夢……?」
「そしてこれは、現実のはずだ」
「たたたっ!」
頬に現実の痛みが走り、まどろみが醒めた。
「だから昨日はちゃんと寝ろと言ったのに」
「……寝たわよ。寧ろルークの方がはしゃいだんじゃない?」
「そんなわけあるか。王都に行くのはこれで八度目なんだからな」
「ふーん、流石お貴族様」
窓の外を見ると、橋はじわじわ近づいてくる。これらはすべてガルターナ王国王都・バーバラに続く。
さて、ガルターナ王国は円形の孤島で、文化の多様性をよく言及される。この特徴をギガ・トラディションと呼び、外周ほど顕著になる。それは旧世界の四大文明に始まり、中央の王都に近づくと分化・システム化されつつ、さらに近づけば統一・整序されていく。
あらゆる文明が外周に残存しつつ、中央へと圧迫されるにつれて集約されていく、それがこのガルターナ王国だと、初等教育で誰もが習う。
その影響は様々在るが、ほんの些細なことのひとつに、上京の衝撃は格別なものとなる。
「ルーク」
「何だ」
「呼んだだけ」
「……」
「るー、くっ」
「ええい鬱陶しいっ」
「ねえあの橋、事務局行きから何番目?」
「12番目だ。それがどうした」
「へえー」
かっぽ、かっぽ。
「……あっ」
「よく数えてるのね」
青年の顔は一気に紅くなってしまった。
「これは、違う!」
「ねえ、そんなに楽しみ?」
「これは」
アクラはにやついてしまって、もう遅い。長い付き合いになる御者を見ればなんとも微笑ましげで、お上りさんをかわいがる大人の顔だ。
「くっ、おもちゃ扱いしおって……!」
「ごめんって」
膨れるルークを面白がるアクラ。
「若いっていいなァ」
彼女に誤算があったとすれば、御者が微笑ましく思ったのは決してルークのことだけではないこと。そんなことには気づきもせずに、ルークはあーだこーだ悶えながら隣を睨み、アクラの方はくすくす笑って済ます。
「そんなに楽しいか?」
「楽しい。すっごい楽しい」
「お前な……いやまったく、素直な奴め」
「何笑ってんの」
「それでお前は、どうして笑っているんだ?」
互いに見合わせ、呆れ顔になった。
美麗な少年少女の姿は、桜の舞と温和な光を背景にして映え、この世のあらゆる幸福を享受したかのような優しさを纏っていた。
と、その時、車輪の音が変わった。
「あ」
「あ」
車輪は向きと音を変え、土手を外れ鉄橋に踏み出す。
キィキィ軋む音に被さって、ゴロゴロ、ガラガラ、車輪が重く鳴る。
「すごい」
そうアクラが漏らしたのは、前窓に映る景色の転変。王都バーバラの誇る摩天楼だった。
乗り出して見れば、比喩なしに天を摩する鈍色のビル群。
馬車はついに、その中へと潜っていく。
「……お城だ」
遠目にも壮観を誇った王都摩天楼は、中に入って見上げるにしても異形世界を形作る。天と地を繋ぐ楔の柱はここにあったのだとすら思え、先述した多文化共存ゆえの衝撃は、辺境のアクラ・トルワナに最大値でたたきつけられた。
その想像しがたい落差を例えるならば、タイムスリップに近い。真っ当な国家ならば味わい得ない、数千年分の隔たりに膝が折れそうなことだろう。
「王都って、神様のお城なんだ」
「もしくは永世君主、大神アルゴルの神殿だな」
アクラは友人の声で我に返った。
「ねえ、ルークはどう思った?」
「ん?」
「初めてここに来たとき」
「……そうだな」
彼の幼少期の回想は、腹に響くような『前提の崩壊音』で始まった。
解釈できるものなど、既知と連関し紐付けられるひとまとまりの世界でしかない。納得のいく理由も説明もなく、ただ『そういうものだ』という理解ならざる理解を強いる未知の濁流は、彼に思考の余地を与えず、強いて言うならこう思わせた。
「家に帰りたい、というのが少し」
「そう? 私は……」
「お客さん、揺れますよ」
「あ、はい……わっ!」
「馬鹿ッ!」
乗り出したまま前に振られた彼女の腰を、ルークは右腕一本で引き戻した。アクラの方はその力に任せ、真っ直ぐ後ろに倒れ、
「びっくりした。ありがと」
「礼を言う前に退け」
「あ」
彼の膝の上に収まった。
「えっと、大丈夫?」
「いいから、退け」
「ごめん」
言われたとおり腰を上げながら、ふいと後ろを見てみると、王子のような青年はかわいらしく照れている。目を閉じてそっぽを向いて澄まし顔に見せて、それでも震えて紅くなっている。
「何、今さら私で?」
「しょうがないこともある」
「みたいね」
「お前もお前で、自覚はすべきだ」
「何を」
「もういい」
照れも一瞬のことで、ルークはすぐ本当の澄まし顔になって腕組みに戻った。
「……」
「……」
その静けさに、ふぅ、と花びらが舞う。
「桜って、都会でもきれいなのね」
「どこでも儚く散るからな」
土手の桜から馬車の二人へ手向けられた、ちいさな一枚だった。
「この世界って本当に平らなのかな」
「何だ、急に」
無為に、アクラはそう問う。色濃い黒髪を日に透かしながら、揺られながら、桜を惜しみながら。
「2万年前、星は粉砕され、大神アルゴルによる救済の折、平面に変わった。3歳児も聞かされるような話だろう」
「何でわざわざ平らにするのよ。平らだとして、季節があるのはおかしいわよ」
ルークはたったの一瞬だけ目を丸くした。
「花びらに連想を誘われたのか……平らになった理由は知らん。だが、季節は大神アルゴルの恩恵だと、救世神話詳説にある」
「恩恵っていうなら、季節は私たちに何を恵んでくれるの? 夏とか冬とか、全然恩恵じゃないし。その季節にしか育たない植物だって、強いられただけよ。本当は平穏に育ちたいはずでしょ?」
少女の疑問はもっともらしく、しかしルークは一考もせずに答えを出した。
「美しかろう」
そう、不敵に笑うルークの背中の窓から、遠くなった桜の並木道がきらめいた。どこまでも、せめてもと見送るように、未練がましく桜が舞う。ルークは気づきもせず、振り向きもしない。彼は風景の中心で、やはり不敵に笑っていた。
「確かに、美しいかも」
「ああ。付き合っていくのは骨折りだが、あると心地いい」
「まあ、そうね」
「なら恩恵でよかろう」
「じゃ、そういうことにしとくわ」
「お客さん、止まりますよー」
「はーい」
今度は振られまいと壁に右手をつくアクラ。ルークは少し吹きだした。
「何よ」
「いや、健気なものだと思ってな」
「またヒップドロップしてもいいなら、そうするけど」
景色は移ろってしまった。重い車輪の音が止まる。光は様々なところから乱反射して、目映い。
「お疲れ様でした。王都バーバラ、事務局前です」
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