メルカトルワールド
和菓子辞典
At First
At First
古聖堂に十時の光条が差していた。薄色のステンドグラスが淡く透けて、穏やかさと優しさをとかし込んでいる。
それがあまりにも居心地よくて、すみのベンチのロード・マスレイは、瞼の重さに堪えかねた。人のでない優しさが有り難くて、気力がとろとろ溶けていく。
軽く抵抗を試みながら、微かに夢想が見えた。
「……」
湖の底。冷たく、光の届かない彼方。
もがく度、だんだん軽くなっていく身体の感覚を今も覚えている。
やっと止まった身体と穏やかになれた心と、そのとき湖底まで差した熱い光。
出会ってしまった、あの水色の瞳。
あの時出会わなければよかったと、何度でも思い返す。あれが運命の出会いなら、運命はろくなものではないのだ。あんなにも美しくて、優しくて、愛おしいものに触れるのなら、決して素手で触れるものではない。
あの色彩を今も覚えている。あんなところにあっていい光ではなかった。気付かないまま朽ちることが出来たなら、どれだけ美しい終わりだったろう。それが今、こうして3年、永らえている。
彼女からそれを奪いながら。
「お兄さん、罪って何?」
鼓動が跳ね上がった。
「え、あ」
カッぴらいた両目に真っ青な空の光が注ぐ。息が詰まって、全身から冷や汗が噴き出したのはその後しばらく。
驚嘆が済んでから、背後に座る声の主に恐る恐る振り返る。
「おにいさん?」
ニコニコ笑う、ツインテールの小さな女の子。夢の悪魔でも何でもない、子供の問いかけだった。
「こらエリー! 申し訳ない、うちの娘が……ああ、あなたは!」
ロードはじっと、少女に意識を注いだ。決して子供を猫かわいがりする柔らかい、嘘のような目ではなくて、飾り気なく疲れ切った目で見つめた。悪魔を象徴する萌葱色の瞳に見つめられながら、少女は無垢な笑みのまま、恐れも暗さも罪も知らない。
ステンドグラスと空の光だけでなく、それもあまりに柔らかくて自然と緩んでしまう。世界の優しさを享受していたロードはそれをそっと取り出すように、少女にあわせて腰を落とした。
「ロードさん、どうかお気遣いは」
「少し、時間を下さい……わざわざこんな所に来る、となるとエリーちゃんは
「うん!」
永遠にこうありたかったと、深く眼の奥で暗く想う。背負わず、自責せず、生の苦しみから無知なままに守られていたかったと。そんな、世間に一蹴される生き方をしたかったと。
「原罪の話がいいかな。昔、アダムとイヴという最初の人間が作られた」
「それがわかんないの。リンゴ食べただけなのに、なんで神様そんなに怒るの? わかんない。モヤモヤする!」
「エリー……本当にすみません」
「大丈夫ですよ……なるほどね。君はもともと原罪のお話が疑問だったわけだ。それでそもそも罪って何、と。そういうわけか」
こくこく頷くエリー。本当に、この子には邪気がない。
「じゃあエリー、質問だ。君は、神様にとってリンゴが何だったか知っているかい?」
「ううん。何だったの?」
少女は天使のようなまま、首をかしげる。ずっと真っ白であって欲しいけれど、ロードはごまかしをしたくなかった。いつまでも罪の穢れを知らずにいることはできなくて、その覚悟を少しでもさせられるなら、この子の人生に何かあげられるかもしれないと、年長者じみたことも考えていた。
「僕も知らない。だから、そうだね、大事な友だちだったとしよう。おしゃべりな友だちだ」
「え! リンゴしゃべるの!?」
「そう。とってもおしゃべりなんだよ」
「どんなおしゃべりさん?」
「例えば彼は気さくでね、神様だって彼のジョークには大笑いなんだ」
かたいところをみんな溶き落とした暖かな光の中で、二人は優しい言葉を紡いで柔らかな笑顔を浮かべ、水面のように静穏な所で慈しみあう。ロードはふと現れた隣人が、やはり、生き方を拒まれない天使に見えた。
「さて、そんな友だちを食べてしまったアダムとイヴだ。どうしてくれようか」
目に見えて少女の表情が曇った。凍てついた湖面を音もなく割るようだった。
優しい女の子に、チクッと刺した針。こんなものは見せたくないけれど、この子は天使ではないから、いつかこの針を刺されなければいけないのだから、罪の痛みを知らなければいけないのだから。
「……アダムとイヴ、酷い」
「ふたりのしたことは、悪いことかな? ふたりはリンゴが神様の友だちだったなんてしらなくても……罪かな?」
「うん、絶対、罪」
きっとこの子は強い子だと、少しうれしくなる。
「よく言えたね、エリー。では本題といこう、罪というのは、向き合い方を誤ることなんだ」
「向き合い、方?」
「そう。罪について考えるなら、向き合う相手のことを、自分の事情より考えなければいけない。自分がそうだと知らなくても、いつの間にか相手のルールや願いに背いていたら、それは向き合い方を誤っている。罪だ」
「……そうなの?」
「ああ。……どうしたんだい、そんな悲しい顔をして」
この場所を濁らせているんじゃないかと、ロードは唇を強く締めた。温かくて、穏やかで、心地よい場所だけれど、この女の子の不安げな表情ひとつで何もかも台無しになる気がしてしまう。
暗くなって下を向くエリーはかわいそうだけれど、ロードはもう一度顔を合わせた。
「怖いよ」
「どうして?」
「私、たくさん罪しても、気付いてないかもしれない」
「……なんて賢いんだろうね、君は」
きれい過ぎたその場所が、若干陰ってきた。どうすればいいかわからないような、内にエネルギーがこもるような、陰鬱さを少しずつまとった。
「そんな時は選ぶんだ。罪を犯す覚悟をするか、何もしないかを」
「エリー!」
割り込むようにやってきたのは、元気な少年の声だった。
「リアス!」
陰気は爆風でするように吹き飛んだ。
エリーはここ一番の元気で喜んで、何もなかったかのように彼の方へかけていく。
ロードはぽかんとしてから安心したように笑って、本当に何もなかったかのように、光に溶けて消えてしまった。
「おにいさん! 私のともだち……あれ? おにいさん?」
「エリー、もう行くよ。リアス君もおいで」
「……はーい!」
優しい父親が呼ぶと、エリーはすぐに柔らかな光の中を抜け、朽ちて倒れた扉から、鮮緑の森に飛び込んでいった。父親は青年のいた場所に笑みを送って、二人を追いかけていく。
それから数拍おいて、温かい教会の光が綻びながらずれていく。姿を現したロード・マスレイは、消えていく背中を見送りながら、笑顔を寂しげに移ろわせた。
「選ぶ時が来るよ。罪だと分かっていても、向き合い方を誤っているとしても、誰かの世界を踏みにじるとしても」
意地悪な予告は、萌葱色の瞳も相まって、まるで悪魔の囁きだった。それをロードはよくわかっている。ある種の悪意だったと、向き合い方を間違えたとわかっている。
「さよなら」
目を伏せたくなる想いを払うように右手を広げた。その瞬間桃色の光が生じ、いくつもの真円になって彼を囲い足下に集まった。
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