最終話:死んでも良いわ

 11月21日の夜。Xデーの前日。海の働くバーで、最期の晩餐をした。


「……カクテルにはカクテル言葉っていうのがあるんだ」


「へぇ。花言葉みたいなやつ?」


「そう」


 海が作ってくれたのはギムレットという白いカクテル。


「……ギムレットのカクテル言葉は『遠い人を想う』それともう一つ『長いお別れ』」


「……長いお別れか」


「友人のにはぴったりだろう?」


「……今日まで協力してくれてありがとね。海」


「本当、助かったよ。ありがとう。海」


 カウンターの下で、帆波の足がパタパタと前後する。これから起こることが楽しみだと言わんばかりに上機嫌な彼女とは対称的に、私の手は震えている。

 静寂の中、時計の針の音がやけに大きく、不気味に響く。最期の日が、刻一刻と近づく。


「……ねぇ、海。この国の法律が変わるのって、何年後になるかな」


 ギムレットを一口飲み、一呼吸置いて、帆波が海に問う。


「……僕が生きている間には変わる。そう信じているから……僕にを託したんだろ?」


「……うん。あ、そうだ、海。これもお願いね」


 帆波はそう言って、カバンから二通の手紙を渡した。差出人はそれぞれ、私と帆波。宛先は美夜。


「……預かっておく」


「ありがとう。……ごめんね。こんな辛い役やらせちゃって」


「……僕はあの日、死ぬはずだった。いや、死んだ。今ここに居る僕は……ただ単に、寿命を迎えるまで死ねない呪いに操られてる屍だ。だから……辛いとか、そういう気持ちも、もう無いんだ。その証拠に、君達がこれから死ぬっていうのに——もう一生会えなくなるってのに、涙一つ流れない」


 海はそう静かに語り、空になったカクテルグラスにウィスキー注ぎ、一気に流し込んだ。そして一呼吸置いて、こう締めくくった。


「だから、罪悪感を覚える必要はない。僕は二人の選択を責めたりしないから」


 クズになってしまった彼女だけど、根の優しさは変わらない。だから私は彼女が美夜を利用していると知っても責められなかった。


「……相変わらず優しいね。海は」


「……優しくないよ。大切な人を大切に出来ないクズだ」


「大切な人って、美夜のこと?」


「……さぁね」


 カチッ、カチッ、カチッ……私達の命日へのカウントダウンをする時計を見つめる。


「……輪廻転生の周期って、どれくらいなんだっけ」


 帆波が海に問う。


「百年から二百年くらいだって言われてるよ」


「……そっか。じゃあ、またいつか、向こうで会えそうだね」


「……あぁ」


 時計の長針が、カチッと音を立てて、一歩先にいた短針に追いつき、重なった。


「……変わったね。日付け」


 海がぽつりと呟いた。


「……うん。行こっか。月子」


 帆波が立ち上がり、私に手を差し伸べる。

 ふーと長いため息を吐いて、呼吸を整えて、震える手を、恐る恐る帆波に伸ばす。帆波はその手を握って、優しく笑った。そして私を抱きしめ、これから死ぬとは思えないほど優しい声で、彼女は囁いた。「大丈夫。一緒だよ。月子」と。その言葉で、私の手の震えは止まる。


「……うん。……じゃあ、海。またね」


「……あぁ。……また」


 彼女と手を取り合い、店を出て行く。海は私達の方を見ずに、背を向けて手を振った。

 




「見て見て。月子。月が綺麗だね」


 マンションの屋上で、帆波は月を指差してはしゃぐ。まんまるな満月が、これから旅立とうとする私達を淡く照らす。不気味なほど大きな満月だったけれど、私はそんなことより気になることがあった。


「……それに対する返答ってなんだっけ」


「ん? 何の話?」


「あ、知らない? 夏目漱石がIlove youを『月が綺麗ですね』って訳した話」


「あぁ。……ふふ。ごめんね、今のは別にそういう意味じゃなかったんだ。けど、愛しているのは本当だよ。月子が好き。だーい好き」


「私も。愛してるよ」


「知ってるー。うふふ」


「……ああ、思い出した。『死んでも良いわ』だ」


 きっと他にも色々あるけれど、今の私に相応しい返事ならそれだなと思った。


「へぇ。素敵な返し。……月が綺麗だね。月子」


「……死ぬのは正直怖い。けど、君と一緒ならそんな恐怖も乗り越えられるよ」


「うふふ。……ありがとう。月子」


「こっちこそ。どうもありがとう。帆波」


「うふふふ。さぁ、月子。おいで」


 帆波は落下防止用のフェンスによじ登り、私に手を差し伸べた。手を取り、よじ登り、並んで座って月を見上げる。


「死後の世界ってさ、どんな世界だろうね。私達はどうなるんだろう。幽霊になるのかな」


「幽霊にはならないんじゃないかな」


「ならないかなぁ」


「だって帆波には、未練なんてないでしょう?」


「あー……なるほど。そうだね。私今、すっごくワクワクしてるもん。月子は? 未練ある?」


「……ううん」


「嘘だぁ。あるって顔してるよ」


「……うん。ごめん。ちょっとだけ。美夜にも……話すべきだったかなって思って」


 それから、残す家族に対しても少しだけ罪悪感がある。けど、少しだけだった。別に、家族仲は悪くない。普通だと思う。けれど、家族か帆波かと問われたら、迷わず帆波を選ぶ。それほどまでに私は、彼女に囚われていた。


「美夜は駄目だよ。あの子は絶対反対するし……きっと、あの子に必死に説得されたら、決心が鈍ってしまう。だから私は海を協力者に選んだ。私の計画には、私の中の僅かな希望を託す相手がどうしても必要だった。だけど、美夜にはその役は荷が重すぎる」


「……そうだよね」


「……」


 会話が途切れ、沈黙が流れる。

 帆波は月を見たまま、大きく息を吐き、呟くように言った。


「そろそろ、逝こうか。これ以上話していたら君の決心が鈍りそう」


「……大丈夫。もうここまで来たんだから、今更戻らない。戻ったって、君は一人でも行くつもりだろう?」


「うん。いくよ。人はいつか必ず死ぬ。だけど私の心にはもう、そのいつかを待てるほどの余裕はない。だからせめて、このクソッタレな世界に一矢報いてやりたい。その一心だけが、私を今日まで生かした。……例え最愛の君が何を言っても、私はもう止まれない。ブレーキはもう、とっくに捨ててしまったから。月子は?」


「……君だけがいなくなった世界か、君しかいない世界か。そんなの、天秤にかけるまでもないよ」


「……うふふ。月子は本当に私が好きね」


「好きだよ。愛している。さっきも言ったけど、君のためなら死に対する恐怖さえ乗り越えられてしまうほどに。君さえいれば、あとは何も要らない」


「やぁん。情熱的なプロポーズ。うふふ」


「受け入れてくれる? 私のプロポーズ」


「もちろん。私からプロポーズしたいくらいよ。月子と一緒に最期を迎えられるなら、これ以上の幸せはないわ」


「ふふ。ありがとう。私も同じ気持ち」


「こちらこそありがとう。うふふ。大好きな人にこんなに想われて、私って、幸せ者ね」


「そうだね。世間はきっと、私達を可哀想だと思うかもしれない。だけど、幸せは私達が決める。誰になんと言われようと、私はこの選択を不幸だと思いたくはない。後悔はしないよ」


「……ありがとう。月子」


「……手、絶対に放さないでね」


「大丈夫。離れないようにね、紐を持ってきたんだ。じゃじゃーん」


 そう言うと帆波は胸ポケットから白い紐を取り出して、自分の小指と、私の小指をきつく結んだ。そして、結ばれた小指を月子に見せて「これで大丈夫。ずっと一緒」と笑った。


「……赤じゃないんだ」


「あぁ、これね。敢えて白にしたんだ」


「え?なんで?」


「ただの白い糸を、私達自身が塗り替えるの。運命の赤い糸に」


「赤に塗り替える……あぁ、なるほど。そういうことか」


「そう。そういうこと」


 素敵じゃない?と、帆波はうっとりとした顔で言う。その狂った表情さえ愛おしく思えた。

 ただの白い紐を、私達の血で赤く染めて、運命の赤い糸にする。ロマンチストな帆波らしい。


「うふふ。ねぇ、月子」


「なぁに?」


「最期までついて来てくれてありがとう」


「どこまでもついていくよ。愛する君のためなら」


「うふふ。流石の海と並んでと呼ばれていただけあるわね」


「やめてよそれ……」


「いいじゃない。うふふ。私にとっては王子様というより、お姫様だったけどね。うふふ」


「私にとっての君はお姫様であり、王子様でもあったよ」


「うふふ。何よそれ」


「お姫様みたいに可愛いけど、王子様みたいにカッコいいところもあるから。そのギャップが、すごく、好きだった」


「えー? なんで過去形なの?」


「現在進行形だよ。好きだよ。今も昔も、これからも」


「うふふ。ありがとう。私も好きよ」


 見つめ合い、どちらからともなく唇を重ねあう。そして笑い合って、月を見上げる。


「さぁ、そろそろ参りますわよ。月子姫」


「……えぇ。参りましょう。帆波姫」


「うふふ。ありがとう、月子。これからも、よろしくね」


「うん。よろしくね」


 帆波は「うふふ」と楽しそうに笑いながら、私の手をしっかりと握って、背中をゆっくりと後ろに倒す。帆波の身体が重力に引かれて落ちていく。繋がれた帆波の手に引かれ、私も一緒に落ちていく。あれほど抱いていた恐怖は一切無かった。


「愛してるわ。月子」


「私も。愛してる」


 19××年11月22日。私は愛する人と、幸せな最期を迎えた。

 世間はきっと、私達の最期を悲劇と呼ぶだろう。だけど私はそうは思わない。最期の最期まで私は、彼女を愛したことを後悔したことは一度たりとも無かった。

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死んでも良いわ 三郎 @sabu_saburou

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