K君から 2通目
F先生、突然の面倒な相談事に対して、とてもていねいなお返事をありがとうございます。
ぼくが暴走気味に心配していた最悪の状況は杞憂だと明言していただき、それだけで気持ちがぐっと楽になりました。言われてみればもっともなことで、祖父が犬を殺したのではないかと考えてしまったこと、今は恥ずかしく、祖父に対しては申し訳なく思っています。
以下に、ご依頼のあった確認事項について報告します。
〈確認事項 その一〉
防犯カメラの性能は想像していた以上に優秀でした。
まず、犬が映っていたのと同じ時刻の午後十一時過ぎに、小森裕子さんの家の前を歩きました。
(小森裕子さんの家の前には、また何かの花が植えられたプランターが置かれていました。祖父は小森裕子さんに信用されているということがよくわかりました)
その翌日、お向かいの家(橋田さんというお宅です)を訪ね、F先生のアドバイス通りの台詞で、防犯カメラの映像を見せていただくようお願いしました。橋田さんの奥さんには、快く「どうぞ」言っていただき、録画された映像を専用のモニターで再生してくださいました。
映像はモノクロでしたが、解像度はとても高く、ぼくが着ていたトレーナーの背中にある小さなロゴや、ぼく自身の目鼻立ちまではっきりと確認できました。これはカメラの性能がよいことと、小森裕子さん宅の門柱の脇にある外灯の光がちょうどいい感じでプランターの周辺を照らしているためです。
以上のことから、犬が片脚を上げて小便をする様子や、しっぽの巻き具合が確認できたことは間違いありません。
〈確認事項 その二〉
まず、「私のシロちゃん」を読みました。
これ、すごい作品ですね。
物語は主人公の老女が膝に抱えたシロちゃんに語りかける場面から始まりますが、その描写からシロちゃんは猫なんだなと思いました。ところがその先を読み進めると猫ではなく犬だとわかります(くるりと巻いた尻尾と書かれていて、今回の犬を思い出しドキッとしました)。続けて読んでいくと、シロちゃんは本物の犬ではなく、ぬいぐるみの柴犬だということが明かされます。
(次々と読者の予想を裏切っていく展開はF先生の小説に共通の醍醐味です)
シロちゃんがぬいぐるみの柴犬だと判明したところで、それは同居している長男のお嫁さんからの誕生日プレゼントだったということが示されます。
「お義母さん、このワンちゃんは柴犬で、名前はシロっていうんですよ」
思いもかけないプレゼントに、最初、老女は驚きます。結婚当初からお嫁さんとの相性が悪く、何かというと口論になるぎくしゃくした関係だったのですから当然です。
このプレゼントをきっかけに二人の間にいさかいが起こることはなくなるのですが、なぜか老女の心境の変化については書かれないまま話は続きます(実は冒頭からずっと心理描写がなかったことは読み返して初めて気づきました)。
老女はシロちゃんを本物の犬、あるいは孫であるかのように可愛がります。足元がおぼつかなくほとんど外に出かけることはないのですが、来客があったときには必ずシロちゃんを胸に抱いて応対し、「シロちゃんっていうんですよ」と紹介するほどです。それを聞いた訪問者はなぜかみな戸惑ったような反応を示します。
このあたりでようやくぼくは何かおかしいぞと気づくことができました。そしてきっとまた仕掛けがあるんだろうなと思いながら読み進めますが、老女がシロちゃんをとても大事にしていて、人に会うたびに「シロちゃんっていうんですよ」と紹介するというエピソードが繰り返し語られるばかりです。
これはミステリーではないのだから、このまま良い話として終わるのかなと思ったところで視点が一人の訪問者のものに替わり、意外な事実が判明します。
老女は盲目だったのです。
もしかしてと思って最初から読み返しました。
音や匂い、手触り、暑さ寒さなどの描写はあるのに、視覚による描写は一切ありません。最初はシロちゃんのことをその毛並みの感触やぴんと立った耳の感じから猫ではないかと思わせ、さらに「吠えない」「散歩に連れていってやれない」という老女の独り言で、猫ではなく犬だったと軌道修正し、最後には取れかけた尻尾の修繕場面でぬいぐるみだということが判明します。
なるほど情報の出し方自体も伏線だったのか。
などと感心しながら続きを読むと、そこには、「シロちゃんは黒い柴犬だった」という衝撃の事実が書かれているではないですか。
えっ、白じゃなくて黒だったのか。
黒いのにどうしてシロちゃんっていう名前なんだ?
またまた読み返しです。
「お義母さん、このワンちゃんは柴犬で、名前はシロっていうんですよ」
そうだった。名前をつけたのは老女自身ではなくて長男のお嫁さんだった。
ぼくにはそれがどういうことなのかすぐにはわかりませんでしたが、しばらく考えて、あっと声を出してしまいました。
人に会うたびに、「シロちゃんっていうんですよ」と、胸に抱えた黒い犬のぬいぐるみを紹介する盲目の老女。少しとまどいながら「可愛いですね」と返す客。その様子をにこやかな表情を浮かべながら見ているお嫁さん。
ここまでの微笑ましい展開がくるりと裏返しになり、どろどろとした風景に塗り替えられてしまいました。
でもこれで終わりではなかったのです。
近所の主婦たちが井戸端会議をしているところに、おぼつかない足取りの老女がやってきます。もちろん胸にはシロちゃんを抱えています。
「あら、お久しぶりですね」
主婦の一人が老女に声をかけ、老女は話の輪の中に入ります。誰かが「かわいいぬいぐるみですね」とほめます。老女はいつものように「シロちゃんっていうんですよ」と紹介します。
黒なのにシロ? そうか目が見えないから――
色が違ってますよと言うべきか、黙っておくべきか。
主婦たちの間に微妙な空気が流れたところで老女が重ねて言います。
「嫁からの誕生日プレゼントなんですよ。名前も嫁がつけてくれたんですよ」
そして老女が柔らかな笑みを浮かべたところで物語は終わります。
背中がざわざわしました。
老女は全部知っていたんですね。
その上で自然体のまま毎日を過ごし、黒い犬のぬいぐるみをシロちゃんと呼ぶ自分を多くの人に印象づけ、最後にそう仕向けたお嫁さんの仕打ちを近所の主婦たちが集まっている場で暴露する。その直後に浮かべた微笑みが怖いです。
このあと二人の関係はどうなったのでしょう。それが書かれていないからこそすごく余韻が残ります。
すいません。
確認事項の報告をするつもりだったのに長々と感想を書いてしまいました。
仕切り直してここからは確認事項の報告です。
作中の老女と小森裕子さんの共通点と相違点については、祖父に聞けばくわしくわかるだろうとは思ったのですが、小森裕子さんへの思い入れが強いため、偏った見方をしている可能性があり、情報源としてはふさわしくないと判断しました。
祖父を除外すると、あとは母ぐらいしか思いつきません。ダメもとで聞いてみたところ、意外にも小森裕子さんのことをよく知っていました。祖父が小森裕子さんのことであれこれ動き回っているのが気に入らないという理由に加えて、どうやら近所の奥さんたちの間でいろいろ噂になっていて自然と情報が入ってくるみたいです。
というわけで、以下は母から聞いた話です。
まず共通点としては、小森裕子さんは今年七十四歳で、作中の老女(七十代半ば)と年齢がほぼ同じぐらいだと思われます。また長男のお嫁さんとは結婚当初から折り合いが悪く、その長男はお嫁さんに頭が上がらないという感じだそうで、この点も老女の状況とよく似ています。こう書くと、お嫁さんがきつい人のように感じられるかもしれませんが、うちの母を含めた近所の奥さんたちは「小森さんとこの大奥さんは変わってるからねえ。お嫁さんも大変よね」などと話しているらしく、どちらかというとお嫁さんの肩を持つ人が多いようです。これはみなさんがお嫁さんに近い立場にあることが影響していそうなので、あまり参考にはならないかもしれません。うちの母も亡き祖母とはあまり仲良くなかったと聞いています。
次に相違点です。
小森裕子さんは視力に問題はなく、耳も手足も特に不自由なところはないそうです。
長男夫婦とは最初同居しておられたそうですが、現在は別居されています。結婚後間もなくお嫁さんが同居は嫌だと強く訴えられ、長男さんは悩んだあげく、同じ町内にある古い一軒家を借り、夫婦でそちらに引っ越したそうです。同居されていたのは半年ほどで、以来十五年、小森裕子さんは一人暮らしをされています。
その他には次のようなことを聞きました。
長男夫婦に子どもはいません。長男さんは銀行に勤務されており、帰宅は深夜になることが多いそうです。また、長男さんは週に二回、安否確認をかねて小森裕子さんの様子をうかがいに実家に立ち寄るそうです。この長男さんと小森裕子さんとの親子関係は良好で、また長男さん夫婦の仲も良いそうです。うまくいっていないのは、小森裕子さんとお嫁さんとの間だけのようです。
母に聞いてわかったことは以上です。
どうぞよろしくお願いいたします。
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