番外編

番外編 年越しうどんを食べた日

伏龍街八丁目十二。


過去そう呼ばれた場所は、大晦日を迎えていた。年末年始は餅を詰まらせて窒息死した老人やら爆竹で怪我をする若者やらが訪ねてくるので、ニシナ医療研究所に休みはなかった。


「所長。帰らなくていいんですかあ」


去年の秋に雇い入れた看護婦が、所長ユキマサ・ニシナに話しかけた。


「帰るって、ここが俺の家だが」

「違いますよお。菩提樹街のほうに。奥さんとお子さん、待ってるんじゃないですか?」


隣の都市を「菩提樹街」と呼ぶのは、古くから伏龍街に住んでいる者の名残だ。そういえば彼女の出身はこの街だったなと関係のないことを考えながら、ユキマサは言葉を返す。


「ハヤテがかわりに世話をしてくれてる」

「でも、お子さん生まれたばっかりですよね? ここからそんなに時間もかからないですし、帰ってもいいんじゃないですか?」


たしかにユキマサは結婚して二年の新婚で、去年の夏には娘も生まれている。もう孫もいるというこの看護婦にとっては、気になってしまうものかもしれない。

それでも夏の休みに娘の顔は見に行っているし、なにより正月は繁忙期だ。


「三が日が終わったら帰る」

「でも、子供って案外、そういう節目のことは覚えてること、ありますよ」


覚えているわけないだろう、あの子はまだ一歳にもなってないんだぞ。ユキマサはそんな反ばくを口にしようとしたが、ふと自分の子供時代を思い出して口を閉じた。



子供の頃の行正は、正月が好きだった。

いつも仕事で忙しい母親が、唯一時間を気にすることなく自分に付き合ってくれるから。


七歳の正月、行正ははじめて母親のいない年を越した。いまの伏龍街で言う十七丁目で立てこもり事件が起きたとのことで、夜通し張り込みをしなくてはならない。大晦日の夜七時、それを行正に伝えに来たのは、幸恵の古くからの知り合い・誠二郎だった。


「帰れるのは元旦だってさ。かをりが行正くんのために、って雑煮を持たせてくれたから、朝はこれを食べなさい」

「……はあ」


彼が手に持った雑煮の鍋は、冷蔵庫に入れられた。そしてどこかで買ってきた惣菜の天ぷらを机に置くと、近くの店で買ってきたらしいうどんを茹で始めた。


「私が年越しうどんを作るよ」


寂しいだろうから一緒に食べよう。誠二郎はこちらを振り向いてそう言った。

きっと古くからの知己の息子に対しては、そんなふうに丁寧に接するのが正解なのだろう。しかし行正は、子供扱いをされるのが苦手な子供だった。


「……そうですか。母さんも大変ですね」

「初詣は私と行こう」

「母さんが帰ってから行きます。誠二郎さんも、優ちゃんを放っておいていいんですか」


今年確か二歳になった彼の娘を気にかけた。去年会ったときの彼女は一歳で、まだ彼女に名前を呼ばれたこともない。あれほど小さい存在を中々見る機会はなかった。


「優子と香も連れていけばいい」


厄介なことになったな、と行正は頭を捻った。断る合理的な理由がない。行正はどうにか察してくれないだろうか、とれてくれた湯呑の抹茶をすする。


「ふたりともきみに会いたがっているよ」


期待も虚しくそう返し、誠二郎は背を向けたまま茹で上がったうどんをざるに入れた。ばごん、と無機質な音がシンクから鳴った。


「うお。なんの音、これ?」


慌ててシンクの下を開けて覗き込む。たしか誠二郎の家は年季の入った日本家屋だ。シンクなんていうものはない。もちろん、そこに熱湯を注ぐと大きな音が鳴ることも。


「壊れているわけじゃないので大丈夫ですよ」

「そお?」


シンクを怪訝そうに観察している誠二郎の後ろ姿を見る。父とはまた違う大人の男が、父親のように振る舞っている。


多分この気まずさを、彼はわかってくれないのだろう。そもそも子供に「気まずい」なんて複雑な感情が備わっていることを知らない。


「あと、初詣は母さんが帰ってからふたりで行きます。母さんのおみくじの結果を見たいので」


我ながら稚拙な言い訳だと思ったものだが、誠二郎は察したのか、そう、と言ったきり口を開かなかった。初詣の話はもうしないらしい。

誠二郎は完成したうどんをちゃぶ台に置いた。現在伏龍街と呼ばれる場所の流儀とはまた違う、飾り気のないうどんだった。讃岐うどんというらしい。脇には惣菜のさつまいも天が置かれた。


「……あの」

「どうしたの?」


誠二郎が箸を行正の前に置きながら首を傾げた。行正の喉奥で言葉が引っかかったが、声を発してしまった以上訊かない訳にはいかない。


「年越し蕎麦じゃないんですか」


誠二郎は目を丸くした。まずいことを訊いてしまったか、と行正は後悔したが、誠二郎が笑いはじめたので杞憂に終わった。


「幸恵……ああいや、きみのお母さんは、年越し蕎麦を作ってくれたの?」


どこかからかうような声色で、行正に尋ねる。頷くと、そうかあ、と感慨深そうに吐息混じりの声を漏らした。


「私達の地元ではうどんだったんだ。幸恵もすっかりここに染まってしまったね」


なぜか嬉しそうにしていた。

この人のことはよくわからない。母のことを好いているのは明らかだが、母はこの人とあまり会いたがらない。しかし母も嫌っているわけではないらしい。


「うどんは嫌いかい?」


うつむいて丼の中を見下ろす行正に尋ねる。


「……いえ。蕎麦より食べごたえがあるので好きです」

「食いしん坊な子だね。大きくなる」


誠二郎は我が子のことのように嬉しがっていた。自分を弱みにして母を引っ張り出しているような状況だが、悪いことをしている人間には見えない。母もろくでなしだとは言っているが、本当にこの人と縁を切る気はないらしい。


なんだか居心地が悪くて、行正は早々に手を合わせた。


「……いただきます」

「私も。いただきます」


湯気立ちのぼるうどんのつゆに、箸を入れる。ほぼ透明に近いつゆで味も薄かったが、不思議と物足りない感じはしなかった。

太めのうどんをちゅるちゅると啜って、口の中で噛んでみる。つるりと飲み込めるこちらのうどんとは違って、ずいぶん歯ごたえがある。腹持ちが良さそうだという感想を抱いたが、これを口にするとまた食いしん坊だと言われそうで黙っていた。


しばらく、ふたりの人間がうどんを食べる音だけが響いた。誠二郎は背が高いからか食べるのが早くて、行正が半分も食べきらないうちに完食していた。

誠二郎は器を片付けながら、急がなくていいよ、と言った。それでも目の前に座っている大人の目線だけで焦ってしまうもので、うどんの半分くらいは味がしなかった。


「ごちそうさまでした」


食べ終えた器をシンクで洗い、そそくさとちゃぶ台に座りなおす。誠二郎はまだ帰る気がないらしく、ちゃぶ台で悠々と煙草を吸っていた。


「そうだ、お年玉いる?」


相変わらずの子供扱いだ。本当に、悪意のない善意は厄介だ。


「いりません。誠二郎さんには日頃からお世話になってますから」


本当は欲しかった。


「そう言うと思って、もう持ってきてるんだ」

「じゃあ訊かなくていいじゃないですか」


きっとここに母がいたら、誠二郎を一喝してお年玉だけ奪って帰らせているだろう。それをやっても彼は怒らない人間だ。そのことを行正も知っていたが、子供がやっていいこととは思えなかった。母はいちばん強くて、いちばん成りたい大人だ。


「はい、千円」


とても子供に渡す額ではない金を、誠二郎は手作りと思われる折り紙の袋に入れて渡してきた。行正は頭を下げてお年玉を受け取る。


「ありがとうございます」


お年玉を与えたあとも誠二郎は家に居座って、行正と話をした。警察の仕事はうまく行っているようだが、子供の前だからか、そんな話はしなかった。誠二郎が多く話したのは、母がそのときの行正くらいの年だったころの話だ。


「幸恵はよく、私の制服を借りて外に出かけていた」


話す誠二郎の顔は、嬉しそうだった。行正もなかなか自分のことを語らない母の話を知れるのが内心楽しみだった。

口では生返事をしながら、心は好奇心でいっぱいになっている。世の渋々生きている大人とは正反対だな、と気づくと、少し恥ずかしくなった。


「幸恵は私より力強くて、昔は男の子だと思っていた……今こうして子供を持っているのが、まだ信じられないよ」


そう言って、誠二郎は行正を愛しそうに見つめる。彼は行正を自分の子供のように思っているのだ、と気がついた。どこか痛みを伴うような視線は、全く関係のない知己の子供に向けられるものではない。


――たぶんこの人は、母さんのことが好きだったんだ。


母と結婚して子供を設けた未来を、自分越しに見ようとしているのだ。


「行正くん、きみのお母さんは優しい人だ」


どうしようもない現実だ。母はおぞましい知識を持つ他人と結婚してしまった。自分はその他人の血を受け継いで生を受けてしまった。誠二郎も子供ではないから、もうとうの昔に諦めたのだろう。


「大切にしなさい」


そういう人間にできることは、祈ることだけだ。



結局、誠二郎たちと初詣には行かなかった。七歳の正月はひとりで迎えた。

布団の外に、朝が来ている。


「……母さん?」


起きた布団から見える範囲に、眠りこける母親の顔があった。きっと朝近くまで仕事をしていたのだろう。それでも行正の手を握って、寝かしつけるような姿勢で眠っていた。

行正が静かに声をかけると、幸恵はくすぐったそうに小さく声を上げて、行正の手に力を込めた。


――あの人の言う通り、母さんは優しい人だ。


思えば誠二郎は、自分が寂しがると思ってなかなか帰らなかったのだろうか。だとしたら申し訳ない。それと同じくらい、いつまで子供扱いするんだと呆れもするが。


「ん……行正、もう起きたのか……」


幸恵の目が薄めに開いて、ひとりごちるように言った。行正は起きようとする母の身体をそっと手で制して、床から起きた。


「母さん。寝てていいよ」

「でもお前、朝食……」

「誠二郎さんがお雑煮持ってきてくれた。それ食べるから」


誠二郎の名を出すと母は不機嫌そうに呻いたが、やがて仕方なさそうにわかった、と返事した。


「餅は、焼くなよ」

「なんで? ぼく、七輪の使い方わかるよ」

「火傷するだろ」


誠二郎も幸恵も、自分のことを侮っているようにしか思えない。子供であることが嫌になる。行正の沈黙からそれを察したのか、幸恵は行正の手を優しくさすって、嬉しそうに微笑んだ。


「子供扱いされて、嫌か?」

「嫌だよ」


知ってるよ、と幸恵は笑って、行正の頭を撫でた。


「ごめんな。でも、子供はすぐ大人になってしまうから。今のうちに、できるだけ子供扱いさせてくれ」



思えば。

来年の今頃には、娘は喋れるようになっているかもしれない。最後に見たときろくに目も開いていなかったあの子が、自分の足で歩くようになっているかもしれない。


子供はすぐ大人になってしまう。昔母が口にしたその言葉は、すっと胸に入ってきた。


「……ああ、いや。それもそうだな。病院の臨時休診の報せ、出しておいてくれるか」


看護婦も楽ではないだろうに、周りを見回して了解を取ると、ユキマサに頷いてみせた。


「ええ。いってらっしゃいませ」

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伏龍街八丁目十二 夜船 @citrusjunos

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