最後の願い 世界を孕んだ乙女は



 セロを、そしてソフィアを巣立ちさせ。

 あの日連合の皆から身を隠した時のように、唯一人の男と旅路を共にします。


 魔王ダルタフォレス・アブソリュース。かつては【凶乱の魔王】と恐れられ、絶海の向こうの〝魔界〟より魔族の軍勢を率いて攻め入ってきた、人類連合軍の仇敵。


 その強大な魔力によって城を顕現させ本拠地とし、四天王以下強力な魔族を従えてその圧倒的な武威でもって、〝人界〟を絶望と混沌に染め上げた男。

 漆黒の双角を持ち濃い紫の髪を流して、黄金の魔眼にて全てを威圧し、睥睨する。魔導の頂きに立ち、剣のことわりを極め。絶対王者とも言うべき威風をもって、魔に属する者達を支配し君臨していた孤独な王。



「エルジーンよ、支障は無いか?」


「ええ、大丈夫ですよ旦那様。秋の風がとても心地好く感じます」


「ならば重畳だ。今しばらくは時が掛かりそうであるし、少し眠ってはどうだ」


「ありがとうございます、ダルタフォレス。ではお言葉に甘えさせていただきますね」



 そんな男が、幌馬車の御者席から優しく、わたくしを気遣う言葉を掛けてくれています。

 ただの男が愛する妻に掛けるように、気を回し労う優しい言葉。これがかの【凶乱の魔王】だなどと、一体誰が信じられるでしょうか。


 天を雄々しく衝いていた双角は切り落とされており、見た目には人間には珍しい髪色と瞳の色をしたただの男性にしか見えません。身体は鍛え上げられ引き締まっていますが、取り分けて筋骨隆々というわけでもありませんしね。


 そんな彼は……かつての仇敵は、からわたくしの、共に歩むべき伴侶となったのです。



其方そなたに、我が首を捧げよう』



 連合軍の陣幕から人知れずわたくしを連れ去った彼が、わたくしに言い放った言葉。

 戦場である魔王城を包囲し、翌朝には総攻撃が開始されるといった瀬戸際で、敗北を悟った魔王がその矜持を遂げようとのたまったその言葉は、わたくしを大いに混乱させました。


 敗軍の将がただ首を差し出すのであれば納得もできたでしょう。しかし彼は、わたくしに条件を課してきたのです。その条件とは――――【聖女】として守ってきた己の純潔を彼に捧げ、彼との子を身篭ること。そしてその子を育てること。


 この世に穿うがつ〝くさび〟として、魔王の子をはぐくめというものでした。



「ゆるりと休むが良い。夜には辿り着けよう」


「はい……。おやすみなさいませ」



 戦後に随分と整備が進んだ街道を往く、長年使い込んできたわたくし達の幌馬車の心地好い揺れに身を任せて、わたくしは荷台に敷かれたクッションへと身を横たえます。

 お腹に子を身篭っていた若かりし時分と、まったく変わらないこの状況で。わたくしは可笑しな気分になりながらも、聖女と魔王という奇縁でしかない夫婦の……わたくし達のこれまでを思い返しながら、眠りに就いたのでした。





 ◇





「あの最終決戦の地が、今や観光地とは……。月日の流れというのは残酷なものですね」


「そうだな。瞼を閉じれば未だに鮮明に浮かぶ戦場の光景も、今では早く忘れてしまいたいものだということか」


「語り継がれるのは美談や武勇伝、英雄譚。そうして憧れを持たせ将兵の増強を図るのも、政策の内なのでしょうね。あの日は松明の篝火かがりびの灯りでしたが、今は都市の……人々の生活の灯火ですか。良き事ではありますが、少し寂しくも感じますね」



 聖女にあるまじき、いくさを懐かしむ思い。


 確かに戦争の惨々たる有様ありさまなんて、戒めであればともかく、美談になどは到底なり得ません。しかし、あの戦争の最中さなか

 辛いことや悲しいことも、泥を啜り血反吐を吐き、大地を這いずったことも一度や二度ではありませんでしたが……それでもわたくしは、わたくし達は。志を持ち合わせ、願いを束ね、心を一つにして、あの日々の一瞬一瞬を確かに生きていたのです。


 敵味方それぞれの矜持や思いをぶつけ合い、命を奪い合い。譲れぬもののために、守るべきもののために、懸命に……文字通り命を懸けて、あの日々を生き抜いていたのです。

 その命の煌きは尊いものであったことは間違いなく、それらを護るためにわたくしとて奔走し、死力を尽くしていたのです。


 それら敵味方の、多くの命の上に建てられた都市のその栄えた様子は……少々、わたくしの目には眩し過ぎるように感じられてしまいます。

 この地に集った彼等戦友達の思いや、血や汗や涙。それらの命の輝きや嘆きや悲しみまでも、美談にし潰され塗り替えられているように感じてしまうのです。このような思いを抱くなど、聖女失格と言われても仕方ありませんね……。



「ゆえにだ、エルジーンよ。であるがゆえに、私達は子へと語り継いだのではないか?」


「ダルタフォレス……?」



 かつては敵方の総大将であったダルタフォレスが、世間には〝堕ちた聖女〟と語られるわたくしへと言葉を投げ掛けます。

 それほど酷い顔をしていたのでしょうか、殊更に優しいその声音は、温かくわたくしの胸へと沁み込んでいきます。



「だからこそ、全てを見聞きし知っているからこそ、私達はセロとソフィアに全てを話したのだろう。戦功や褒賞は華々しくも、戦とはそればかりではないと。正義の敵は悪などでなく、また違う正義なのだと。そして、真実とは時に歪められ、脚色され吹聴されることもあるのだと」


「……慰めてくれるのですか? あの都市で暮らす人々には何の責もとがも無いというのに、それを今さら舞い戻っておいて快く思わないような……こんな、醜いわたくしを?」


「誰が醜いものか。其方が悲しみ憂いた分だけ、この地に眠る多くの英霊の魂が慰撫されるのだ。数多の兵達を護り、慈しみ、癒し続けた其方の思いは、確かに彼等へと届いているはずだ。むしろ、責めを甘受すべきは私であろうよ」


「ダルタフォレス……」



 金色の憂いた瞳を伏せがちに、口元に浮かべるのは――――自嘲の笑みでしょうか。

 そこに佇んでいるのはかつての宿敵でもなく、世に混沌を巻き起こした魔王でもなく。ただ一人の、後悔と苦渋を刻み込んだ男でした。



「私がすべての原因なのだ。醜い嫉妬や羨望などで怒り狂いたがを外し、持たぬものを奪おうと攻め入ったのは……私だ。魔界より魔族をび寄せ、人類の生活を脅かした私こそが、彼等散った英霊達の怨嗟を受け、生者達の呪詛をこの身に受け入れるべきなのだ。そうしてこそ、命を落とした人類も同胞も、報われるというものだ」



 戦の切っ掛けは、彼が人界を訪れた時に見、感じた人類の愛情。それは魔界で生まれ育った彼が受けられず、与えられず、教えられてすらいなかったもの。

 弱肉強食が罷り通る魔界には無かったそれらの〝なさけ〟を、痛烈に欲したからこそ暴走した彼のかつての過ち。ですが――――



「それこそまさか、ですよ」



 聖女にあるまじき……いえ、あの日まで戦っていた人類としてあるまじき言葉。仇敵を擁護するその言葉に、ダルタフォレスが目を丸くしています。

 そんな彼を可笑しく思いながらも、わたくしは言葉を続けました。



「自然界の獣ですら、愛を子に伝えるもの。それをすら教えられず、ただ弱肉強食を是としていただけの魔界の民に、貴方に、一体誰が『愛を求めるな』などと言えましょう。本来与えられていて当然であった愛情を求めるのは、命と意思のある者として当然の行動。ただ、貴方の場合は――――少々、規模が大き過ぎたのでしょう」


「そのようなことを言って良いのか? そなたは女神メイジェルフォニアの使徒であろう? そうでなくとも、人類連合軍の旗印の一角であったのだぞ」



 呆れたような、怒ったような複雑そうな表情で、わたくしに言葉を返すダルタフォレス。そんな彼に対して、わたくしは上手に笑えているでしょうか。彼に、もう自分をゆるしても良いと……そう伝えられるでしょうか。



「以前にもお伝えしましたが、メイジェルフォニアは全ての生命いのちの母です。それは当然、貴方達魔族も含めて。そしてこうも伝えましたよね? 貴方達は瘴気に適応するために進化はしたものの、元はわたくし達と同じなのだと。等しい生命いのちなのだと。それに……」



 そうは言いつつも、わたくしの頭にはかつての連合軍での出来事が巡っていました。そしてそれ以前の教団での訓練の日々も。それよりも前の孤児院での日々も……。


 確かに、幸せとは程遠い半生だったかもしれません。親に捨てられその顔も知らず、血の繋がらない大人や弟妹達と暮らした苦労。戦争など無ければと、そう思ったことも一度や二度ではありません。

 神託を授かったがゆえに【聖女】となり、厳しく辛い教練の日々を過ごした時にも。戦場に出て流される多くの血や嘆きに晒された時も。戦争の主因たる魔族へ恨みの感情を持ったことは幾度もあります。


 ですがそれでも……。



「他でもない、貴方だからこそ。ダルタフォレスであったからこそ、わたくしはあんなにも誇らしい息子と、愛らしい娘を産み、育てることができたのです。貴方がわたくしを慈しみ、大切にからこそ、わたくしはあの子達をあんなにも立派に、優しく強く育て上げることができたのです。


 ダルタフォレス。〝愛〟とは、与えられるものが全てではないのです。わたくしも、貴方も。人として当たり前の愛情を受け取れなかったわたくし達であっても、あんなにも愛おしい子ができ、慈しみ愛することができたではありませんか。貴方は、セロやソフィアのことももちろんですが……あんなにも、こんなにもわたくし達を愛してくれているではありませんか。


 愛は、貴方の中にもあったのです。わたくしの中にも。そうして過去の己を嘆き、悔い改めようとしている貴方に愛されて……わたくしは今、間違いなく幸せなのです」



 告げる。彼が認めない……認めようとしない〝赦し〟の言葉を。

 世界に代わって、女神様に代わって他でもないわたくしが、目の前で愛に飢えていた孤独な男へと、包み隠さずに。



「わたくしは貴方を赦し……そして愛します。愛していると、そうお伝えしたはずです。セロやソフィア――貴方の子を孕み、産んで育み、そして彼らのすべてを認め背を押したことと同じように……わたくしは貴方を認め、貴方を尊び、貴方の味方でありたいと……そう願い続けているのです」



 俯いた、偽りの無い彼の姿は、初めて邂逅した時とまったく変わりはない。

 いつまでも若々しい精悍な姿で。彼の方がよほどよわいを重ねているにもかかわらず、彼に伸ばしたわたくしの手の方がよほどシワだらけで。


 わたくしだけが年老いて、彼を置いて去ってしまうのがとても悲しく、寂しく……どうしても羨ましい。

 言い放った言葉の通りに、これからも彼の味方であり続けたいというのに、それも叶わないわたくしの、ただの人間の身体。


 それこそが、愛する息子達を巣立たせた本当の理由。

 浅ましく醜い、ただの女としての独善的で利己的な、強欲な願い。



「ダルタフォレス……少し、試してみても良いでしょうか?」



 言の葉を、彼に届ける。

 どうか聞いてほしいと、この願いが叶いますようにと。


 彼に、助けてもらいたいと。



「……うむ。其方の願いだ、私が引き受けない理由があるものか」



 返ってきたのは、そんな痛ましくも、優しい言葉。

 今まで通り、いつまでも変わらない、わたくしを慈しんで下さるたった一人の旦那様の声。


 その声に勇気と自信を分けてもらって。

 わたくしは一度深呼吸をして気持ちを落ち着けてから、慣れ親しんだ所作をなぞります。



「いと尊き我が神よ――――」



 胸の前で手を組み、幾度も幾度も唱えた聖句をそらんじる。

 降り落ちてきそうな満天の星の下で。溢れ出しそうな都市の灯りの上で。


 空と大地の境界で、どこまでも届けと願いをうたう。

 この同じ空のもとに居る息子達にも届くように。そして何よりもわたくしの最愛へと伝わるように。


 神聖術の光が身体から湧き上がり、星になれとばかりに空へと立ち昇っていく。


 そうして聖句を唱え、光が去ったわたくしは、ゆっくりとダルタフォレスへと向き直りました。



「其方……っ!?」



 驚愕に目を見開くダルタフォレス。

 歳を取って少し見えにくくなっていたわたくしの目にも、はっきりと彼のその顔が映りました。その金の瞳に映る、姿



「神聖術の秘奥、【時間回帰】の術です。戦時中に使えていたら、どれだけの将兵を救えたでしょうか……。セロやソフィアの手解きをする傍らで、ずっと研鑽とお祈りを続けてきて、ようやく。ようやく……女神様が願いをお聞き届け下さいました」



 可笑しなところはないでしょうか。ずっと目を丸くして固まっている彼を見ていると、少し不安になってしまいます。

 己の手を見れば、瑞々しさの戻った綺麗な皺ひとつ無い手が見えます。頬に手を当てれば張りも戻り、やはり刻まれていた皺も無くなっています。どうやら正しく、わたくしの全盛であった頃の姿へと若返ることができたようです。


 だというのに。

 そうだというのに、ダルタフォレスが浮かべているのは――――後悔の念でしょうか……?



「其方は……私は、それほどまでに……」


「ダルタフォレス……?」



 苦渋をありありと顔に浮かべて、そう言葉を漏らすダルタフォレス。

 要領を得ずに戸惑っているわたくしにゆっくりと近付いて、彼はその手を頬に翳しました。



「時を戻したいと願うほど……それほどまでに、私は其方に辛苦を強いていたのだな……」


「え……?」



 その言葉に思わず、気の抜けた声がこぼれ出てしまいました。

 困りましたね……。わたくしの言葉を、この人はちゃんと聞いていたのでしょうか。



「ダルタフォレス……旦那様、聞いてくださいませ。何度もお伝えしていますが、わたくしは貴方を受け入れたことを後悔したことなど、一度もありません。これは、わたくしの意地なのです」


「エルジーン……?」


「魔族やエルフ、ドワーフや獣人もですね。ずっと……羨ましかったのです。寿命は人間族よりも遥か長く、若い全盛の姿も長く保っていられます。貴方も、半魔半人であるセロ達でさえも、わたくしなどよりもずっと長い時間を若いままに過ごすのです」


「羨ましい……其方がか? そんなことをか?」


「そんなことなどと軽く仰らないでください。貴方も寿命の違いは分かっているとは思いますが、それでも考えたことがありますか? ただ一人老いていく、その寂しさが。わたくしだけが死へと向かっている、その恐怖が。貴方は出逢った時から変わっていないというのに、わたくしはもう、祖母となってもおかしくない歳や見目なのですよ?」



 なんだか、少し悔しくなってきてしまいました。

 せっかく若返ることができたというのに、どうしてわたくしはお説教じみたことを捲し立てているのでしょうか。



「わたくしが愛した方と同じ時を生きられない、その悲しみを……貴方は考えたことがありますか?」


「ッ……!!」



 こんなつもりではなかったのに。貴方を責めるつもりなど無かったというのに。

 ですがどうしても我慢ができず……言葉と共にわたくしの頬には、涙が伝っていました。



「そうであったか……。それほどまでに……想ってくれていたのだな」



 何度も伝えたはずなのに。悔いてなどいないと、愛していると伝えたはずだったのに。

 それを後悔だなどと……なんて酷いことを言うのでしょうか。


 悔しさが募り、思わず俯いてしまいます。そうしている間にも、わたくしの頬を涙が濡らし続けていました。



「エルジーンよ……」


「なんです――――きゃっ!?」



 そんなわたくしに声を掛ける酷い人。それに返事をしようとしたわたくしでしたが、急に身体が温かなものに包まれました。


 驚いて目を上げてみれば、そこにはたくましい彼の胸があったのです。



「其方はあの頃から変わらずに、ずっと美しいままであった」


「な、なにを……っ!?」


「本当だ。其方がいくら齢を重ねようと、其方の美しさは微塵も翳りはしておらぬ。いや、それどころか……歳を経た今この時こそが最も美しいのだと、私はいつもそう思っていたのだ」



 何を……貴方は一体何を言っているのですか……!?

 突然の告白に、顔に血が集まっているのを感じます。とても熱く火照り、彼の言葉が頭を混乱させ、心臓が早鐘のように鳴り響きます。だというのに彼は……ダルタフォレスはその言葉を止めもせずに。



「我が最愛の人よ……何よりも愛しき乙女よ。何度でも言う。私は其方を戦場で見初めてからずっと、日々其方に惚れていた。毎日毎日、一昨日よりも昨日よりも強く、ずっと其方への想いを募らせていたのだ。少女から妙齢となり、熟年へと至ってもなお、私の其方への想いは強くなる一方なのだ。寿命など、老いなどまったく関係なく……私は其方を昨日よりももっと愛している」


「わかっ……わかりました……! わかりましたから……っ!!」



 抱きすくめられ、耳元で囁き続けられ……先に音を上げたのは、わたくしの方でした。

 若返った十八の頃の姿だからまだともかく、こうまで臆面もなく五十手前の女に愛を告げるなど……恥ずかしさで胸が張り裂けてしまいそうです。



「だが其方は疑っていたのだろう? しかも神聖術の奥義を会得までして、時までも巻き戻してみせた。ならばその分できた時間だけ、私の想いをしかと伝えねばなるまい?」



 若干、声音に勝ち誇ったような気配を感じます。とても今は見られませんが、見上げればそこには、やはり変わらずに自信と力に満ち溢れた彼の顔が見下ろしているのでしょう。


 しかし――――



「……残念ですが、それは叶いません」


「……どういうことだ?」



 彼の言葉を、何よりも嬉しかったその言葉を、否定する。

 いぶかしむ彼の声に、少しばかり戸惑いが混じります。



「この姿は一抹の夢。わたくしへのメイジェルフォニアの最後の慈悲であり、加護を失くすまでの仮初の回帰でしかありません。そしてその〝時〟は……もうすぐそこまで来ているのです」



 奇跡はそう易々とは起こり得ません。それも人の時間を巻き戻すなど、ともすれば死者をも蘇らせることができる規格外の奇跡。そんな力は、人の身に許されてはならないのです。

 戦時中にどれだけ願っても叶わなかったのは、きっとそれがことわりを歪めてしまうからでしょう。人の生と死とは……すべからく尊く、どちらも正しく生命いのちり方なのですから。



「だとすれば、なんと残酷なことだ。それではぬか喜びではないか……! こんなにも女神に尽くしてきたエルジーンをもてあそぶなど……っ!!」



 まるで我が事のように怒ってくれるダルタフォレス。ようやく落ち着きを取り戻したわたくしは、そんな彼の頬に、そっと手を添えます。



「わたくしの、最後の願いなのです。この生の最期の時を、貴方と出逢った頃の乙女のままで、一緒に語らい過ごしたかったのです。お願いしますダルタフォレス。もう……あまり時が無いのです……」


「其方は……かたくな過ぎる……」



 見詰める彼の目からは険が取れ、女神への鬱憤を晴らすかのように強く、強くわたくしを抱擁しました。

 それを受け入れ、しばらく抱き合ってからわたくし達は……かつての戦場を見下ろして、ポツリポツリと語らい始めたのでした。





 ◇





「セロとの手合わせも、随分と手こずるようになりましたね」


「だが、まだまだだ。力で抜かれようと、まだ私には何百年もの経験がある。そうそう遅れはとらぬさ」


「ふふっ。きっと彼の負けず嫌いは、貴方に似たのでしょうねぇ」


「ぐむ……っ!」



 愛しい息子の成長を喜び合い。



「ソフィアが抱っこさせてくれないと、嘆いていたこともありましたね」


「狩り仲間の父親衆にも聞いていたのだがな。娘の反抗期があれほどとは……正直甘く見ていたな」


「ダルタフォレス? あんなもの、反抗期の内にも入りませんよ? もっと大きくなれば洗濯物も別にされたり、同じ部屋に居ることすら嫌がる子も居るそうです」


「なん……だと……!?」



 お転婆で可愛らしい娘のこれからを夢想し。



「――――そろそろ、時間のようです……」



 わたくし達家族の軌跡をなぞらえて、語り尽くせぬ想いをなんとか言葉にして伝え合い……。


 手を見てみれば徐々にですが、瑞々しさが失われ始めていました。

 ダルタフォレスも、わたくしに起きた変化に気付いたようです。



「ダルタフォレス……」


「なんだ、エルジーンよ」



 声を掛けるわたくしに振り向くダルタフォレスの顔は痛ましく、これからわたくしが何を告げるのか、すでに察しが着いているようでした。


 心が痛みます。わたくしを愛してくれている彼に、残酷な願いを告げる罪悪感。自身の願望を優先させようとしている己に抱く嫌悪感。それらに苛まれながらもその願いを成就したい、どうしようもない焦燥感。

 引き裂かれそうな心の、胸の痛みに涙が出そうになります。しかし彼のことを考えると、ここでわたくしが泣くなんてことはとんでもなく烏滸おこがましい……罪深い行いでしょう。


 緩みそうになる目頭に力を入れぐっとこらえ、まっすぐに愛しい旦那様の金の瞳を見詰めます。



「わたくしの……最後の願いです。ダルタフォレス、聞いてくれますか?」


「…………ああ。聞かせてくれ、エルジーンよ」



 その瞳には……彼の美しい金の瞳には、あの時から変わらずにわたくしが映っています。

 あの時からずっとずっと…………彼はわたくしを見続けて、護り続けてきて下さいました。そんな彼にわたくしの心からの願いを伝えるため、一度深く息を吸い込んで、ゆっくりと声にして発します。



「わたくしの〝時〟を……このまま止めて下さい。どうか若いあの頃のままの姿で、貴方に見初められた時の姿で。このままで、この気持ちを抱いたまま眠らせて下さい……」



 懐からひと振りの短剣を取り出して、その刀身を抜き放ちます。それは子供達の……セロとソフィアの角を切り除いた際に使用した物。断腸の思いであの子達に突き立てた、しかし大切な品。

 わたくしの願いを聞き届けたダルタフォレスへと、柄を差し出して身を寄せます。その切っ先が、わたくしの心の臓の真上に来るように。



「エルジーン……」


「あの頃には、貴方に感じていた思いは愛情ではありませんでした。しかし今は違います。どうしようもなく愛おしく、狂おしいほどに、わたくしは貴方をお慕いしています。だからこそ、わたくしの想いをこのまま受け止めて、この〝時〟のままに眠らせて下さい。貴方を愛しているわたくしの、最も美しい姿のままでいさせて下さい」



 短剣の柄を握った彼の手に、自らの手を添えます。

 その手は徐々に、また若さを失いつつありました。


 お願いします、ダルタフォレス。どうしようもなく自分勝手ですが、わたくしは貴方の前では美しいままでありたいのです。あの日から変わらない貴方のそのお姿に、相応しいままでいたいのです。


 今だけは、聖女でもなく。子供達の母親でもなく、ただ一人の貴方を愛する女として――――



「……エルジーンよ。我が生涯たった一人の愛しき娘よ。其方はいつも、眩いばかりに輝いていた。今もこうして、私が見惚れたあの頃のままの姿となって、私に微笑んでくれている。其方は紛うことなき歴代でも最高の聖女であり、セロやソフィアの良き母親であり…………そしていつまでも、私の最愛の乙女であった」



 月の光、星の光に反射する短剣のやいばほの白く、それ自体が光を放っているようで。そんな明かりに照らされたダルタフォレスの顔は……悲しそうで、しかし優しく微笑んでいました。


 ゆっくりと……彼が短剣を押し出してくるのが、わたくしの手と胸に伝わってきます。

 不思議と、突き刺す痛みはほんの一瞬で、その後は何も感じませんでした。


 ――――その短剣の刃は真っ直ぐに、痛みも恐れもなく、わたくしの胸へと埋まったのです。



「ありがとう……ございます、ダルタフォレス……。わた……くしの、愛しい旦那……様。ただ一人……わたくしが愛した人……」


「ああ。今まで本当に大義であったな。ゆっくりと休むが良い。私もすぐに後を追おう」


「それは……いけま……せんよ……」


「いいや、こればかりは聞かぬ。其方の願いを聞き届けた、憐れな夫の願いも叶えてほしいのだ。共に眠ろう、エルジーンよ。終わりと始まりであったこの場所で、私達の愛するセロとソフィアの一部と共に……」



 掠れていく視界の中で……ダルタフォレスがわたくしの胸から短剣を引き抜いて、自らの胸に突き立てたのが見えました。そうしてから、わたくしの手に二つのお守りをしっかりと握らせて、その上から彼の大きく温かい手が包み込んできたのが感じ取れました。

 もう、痛みは何も無く……丘に横たえられたわたくしの目には、朧気になっていくダルタフォレスが、を行使している姿しか見えませんでした。



「愛……していま……す……ダルタフォレス……」


「私も愛している、エルジーン。これからも、ずっと一緒だ。これからはこの丘の一部となって、共にこの世界を見守ろう。其方と私の子供達が生きるこの世界を、その一部となって……」



 それは……とても素敵なことですね……。愛しい旦那様に抱かれてこの大地の一部となれたなら、これほど嬉しいことはありませんね……。


 何も感じなくなってしまったわたくしの身体。徐々に身体の芯から寒くなってきましたが、それでも……ダルタフォレスに抱かれている感覚だけははっきりと分かりました。


 お守りを持った手を握ってもらい、身体を強く抱きしめられて…………わたくしはゆっくりと、もう見えない眼を閉じたのでした。


 わたくしは、最後の最後まで。


 確かに、幸せでした。





 【世界を孕んだ乙女は 本編完】





あとがき


 連載版・世界を孕んだ乙女は(通称セカハラ)にお付き合い下さいまして、まことにありがとうございます。作者のテケリ・リでございます。


 今話を持ちまして、セカハラ本編は完結でございます。エルジーンの波乱に満ちた人生はいかがだったでしょうか?

 ダルタフォレスとの夫婦生活や魔王と成した子を育てる苦労、育まれる絆や愛情が上手く描けていましたら、嬉しく思います。


 主人公エルジーンのお話は終わりを迎えましたが、今後はその子供であるセロやソフィアのその後などを、番外編として掲載していけたらと思っております。

 その時は、どうぞまた手に取っていただき、聖女エルジーンが愛した子供達の活躍を応援していただけましたら幸いでございます。


 本作はカクヨムコンテストに参加しております。

 読者の皆様におかれましては、ぜひともページ下部の☆からご評価いただけましたら幸甚です。応援コメント、感想もいつでもお待ちしております。


 それでは、また番外編か別のお話でお会いできますことを楽しみにしております。


2023.02.07 テケリ・リ




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【連載版】世界を孕んだ乙女は テケリ・リ @teke-ri-ri

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