おばあちゃんと孫たち

木沢 真流

おばあちゃんに会いにきた

 シゲは家の前をほうきで掃いていた。サッ、サッ、という切れ味のいい音が住宅街に響く。曲がった腰のまま、ふと天を仰ぐと昼に向けて上り始めた太陽が、まだじんわりとした日差しを降り注いでいた。少し休もうかね、そんな声にならない声を漏らしてから、玄関の前に、よっこらしょ、と言って座るとシゲの視線の先に人影が見えた。

 人影は数人。近くに住む皆吉タマと話をしながら、何度も頭を下げていた。タマがシゲの方を指さした。それを見て、数人の人影もこちらをみた。


(あら、今日は孫たちが来る日だったかねぇ)


 シゲの心臓が気持ちよく鼓動を早めた。思わず皺だらけの目尻が垂れた。それとタイミングを同じくして数人の一人、20歳前後の女性が大きく手を振った。合わせてシゲも手を振り返す。


「ばあちゃん!」


 女性が駆け寄ってきた。それをみてシゲがうんうんと頷く。


「いらっしゃい、今日は何人ね」

「3人の孫、連れてきたよ。ほらみんな早く」


 女性の後を追って来たのは1人の女性と2人の男性。みな年は同じ20歳前後だった。


「えぇ、えぇ、よくきたね。私のかわいい孫たちよ。さ、中でお茶でも飲もうかね」


 女性以外の3人は初めて来たらしくあたりをキョロキョロしながら、軽く会釈をした。


 孫たちが案内された部屋は落ち着きのある和室で、畳の上に丸いちゃぶ台、部屋の隅には仏壇と梁にはおそらく旦那さんであろう方の白黒写真が飾ってあった。


「おばあちゃん、さっきの人おばあちゃんにそっくりだったから、間違えちゃった」

「ああ、タマさんね。昔っからそっくりだってよく言われてたんだよ」


 シゲはそう言いながら、4つのコップに麦茶を注いでいった。4人はみなパーカーや、ジーンズといったいわゆる普段着を装い、中には正座をする者もいて、緊張の面持ちをしていた。そんな堅苦しくならなくていいんだよ、足崩さんね(っ崩していいんだよ)、と言われ、正座をしていた男は足を崩した。


「ばあちゃん元気だった?」

「もちろん、先月ちょっと肺炎になりかけたけどね。すーぐ良くなった」

「入院したの?」

「いんや、抗生剤点滴したらすーぐよくなったよ」


 そう言って、はっ、はっ、はっ、とあっけらかんと笑い声を響かせた。


「そっちはどうだい、ちゃんと進級してるかい? なあ、初めて来たお孫さんたち」


 初めて来た3人は一瞬はっとしてから、うち2人が一人の男を見てから、少しくすっと笑った。


「ばあちゃん、彼留年が決まったばかりなの。ゆっくり大学で学びたいんだって」


 あら、とってシゲが男を見ると、男はすんません、といいながら頬を赤らめ、うつむいた。


「いいんだよ、人生長いんだから。気にするこたあないよ」


 そう言ってシゲはと変形した手で、男の頭を撫でた。


 その後しばらく取り止めのない会話が終わった後、しばしの沈黙が訪れた。それをきっかけに女性が口を開いた。


「じゃあばあちゃん、お話聞かせてもらってもいいかな」


 女性は少し顔をキリっとさせて、その台詞を吐いた。ここからの話はおそらくシゲにとっていい話ではない。しかし、この4人はそれを聞きに来た。大学のサークルメンバーである3人は先輩であるこの女性に誘われ、体験学習の一貫としてわざわざここまで来たのだ。聞かないわけにはいかない。

 そんな不安をよそに、シゲはまったく表情を崩さず、ニコニコとしながら小さく何度も頷いた。


「そうだね、そろそろ始めようかね」


 そう言ってシゲは、留年についての会話と全く同じトーンで話し始めた。


 シゲはハンセン病患者だった。

 今でこそ治療薬もあり、怖い病気ではないことは分かっているが、当時は激しい偏見の目に晒された。感染力は非常に弱いにも関わらず「らい予防法」という法律まで出来、ハンセン病患者は合法的に隔離され、差別され続けた。

 シゲは12歳の頃、このハンセン病に罹ったことを家族に気づかれた。ハンセン病患者は指などが変形してしまうことがあり、それがきっかけで見つかってしまうことがある。しかし実はその指や足に負担のない生活を送らせればそういった変形は起きないことが分かっていた。また、シゲがハンセン病に罹患していることが知られた瞬間隔離施設に送られることがわかっていたので、家族はシゲに手足に負担のかけない生活を送らせ、そして本人がハンセン病であることは信頼のおける人のみが知ることとなり、そのまま20歳を迎えた。

 しかしシゲがハンセン病に罹患していることはどこからか少しずつ広まり、ある時関係者が訪れ、「2ヶ月治療したら帰れるし、生活は補償するから療養所に行きなさい」と言われ、それならとシゲは療養所に入ることになった。まさかそれから死ぬまでそこから出られないとも知らずに。

 療養所の暮らしは悲惨だった。

 逃げられないよう、持参した金品は全て没収され、施設内は独自の硬貨で生活をさせられた。人手不足を理由に、園内の労働は入所者に強制し、シゲの手足の変形は一気にひどくなった。施設内でのプライバシーはなく、常に監視の目の元にあり、それはまるで牢獄のようだった。

 そんなシゲも施設内で伴侶に恵まれた。しかし喜ぶのは束の間、そんな二人にも監視の手が緩められるわけでもなく、夜の営みですら何人か同じ部屋に寝泊まりしていたその部屋でしかなされなかった。それだけではない、身籠ったシゲは妊娠7ヶ月頃、突然呼び出された。特に話もなく、突然眠らされ、気づけば堕胎させられたのだ。これらが国の政策として法律に基づいて行われていた、たかだか70年前の我が国日本の話である。

 

 気づけば西日が部屋に差し込んでいた。

「あら、もうこんな時間だね」

「シゲばあちゃん、ありがとう。すごく勉強になったよ」


 シゲは皺だらけの目尻を垂らした。


「いえいえ、いいんだよ。あんたたちは私の孫だから。また遊びに来てね」


 4人が去る時も、シゲは沈みかけた夕日に照らされながら、いつまでもいつまでも、その姿が見えなくなるまで手を振り続けた。自分の孫たちの姿をずっと見送っていた。その4人のうち1人が数年前の私である。


 現在は科学が進歩し、親子という形に変化が訪れている。長年親子として接してきた関係であっても、DNA鑑定で親子ではないという判断をされてしまうこともある。確かに遺伝子という絆の強さは何事にも替え難い。しかし、人間というものだけはそれとは別の親子関係があってもいいと私は思う。DNAといった遺伝子とは別の「心」で繋がった親子である。私たちの想い、感情が強い意味で繋がり、そこに親子、孫関係があるとお互いが認識したのなら、もうそれは親子なんじゃないか、と。

 シゲさんは子どもを作ることを許されなかった。それどころかできた子どもを目の前で殺されたのだ。しかし、シゲさんは私たちを孫だと言ってくれた。その想いを引き継ぎ、私たちもそうだと言えば私たちはシゲさんの孫であり、シゲさんは私たちのおばあちゃんなのである。


 玉城シゲさんは2017年3月15日に亡くなった。98歳だったそうだ。その人生の中で、シゲさんは沢山の孫ができた、私もそのうちの一人なのである。 

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