ミモザの悲しい旅第9話
葉っぱちゃん
第9話 鳴門で一夜を過ごした二人は、大塚美術館へ
朝食を終えた二人は、開館と同時頃『大塚国際美術館』に着いた。
「ミモザ見てごらん、美術館の頭の上に山が生えてるよ」
「山が? あっ、本当だ。美術館の上に山が載っている」
「変ってるなあ。面白そうだ」
竜道は二人分の入場券を買い、お釣りを財布にしまいながら、
「今日は、三時までに銀行に行こう。カードだからいつでもおろせるけど、まあ、それくらいまで見たらいいだろう」
と言った。
入口を入ると、いきなり見上げるように長いエスカレーターに、度肝を抜かれた。
「なんてすごいの?」
「こんなエスカレーターがあった美術館が他にもあったな。えーと、熱海だったか」
「熱海?温泉じゃないの。誰と行ったの?」
「これも、慰安旅行よ。ツァーの中にその美術館が入っていたから行ったけど、個人だったら行かないよ」
そうだ、竜道さんは絵なんて好きではなかったんだと、ミモザは思い返した。その竜道さんが、大原、夢二、大塚と付き合ってくれている。感謝しなければならないのだわと、ミモザはエスカレーターで登りながら思った。
エスカレーターを降りると、また入口だった。入口に『ここはB3です』という大きな字の看板がある。
「えっ!道からエスカレーターでこんなに登って来たのにここがB3? どうして?」
「わかんないよ。だけどB3って書いてあるからB3なんだろうよ」
ドアの中に入ると、真正面に輝くばかりの色彩の、装飾的な壁画が目に入った。「『システィーナ礼拝堂壁画』って書いてあるよ」
と竜道が言った。
「ミケランジェロが描いたらしい」
と、礼拝堂に入って竜道がまた言う。
ミモザは、祭壇の後の壁画や、天井の絵を見上げながら、色に魅せられてこれを装飾的壁画と思ったことを恥ずかしいと思った。よく見るとそこには恐ろしい地獄絵もあるのである。《最後の審判》にかけられたとき、勲を裏切り、陽一を捨て、大勢の人に迷惑をかけたことで、地獄に落ちるのだろうか?
朝一番に来たせいか人影もまばらであったけれど、ふっと若いカップルが入ってきて、彼女を祭壇の前に立たせて写真をとっていた。この人たちは汚れがないと、ミモザは羨ましく思いながら、二人を見守っていた。
竜道が興味を覚えるのは、裸婦の絵が一番のようである。今にも動き出しそうな、ふっとその柔かそうな体に触ってみたいような透明な白い肌の裸婦たち。
「ここの絵は触ってもいいんだよね。しかし、触ってみても陶板だから、げんこつでたたいたら、コチンと音がするくらい硬いよ」
ミモザは笑いながら、さっきの若いカップルを真似て、自ら進んで竜道の手を取り、手を繋いで歩いた。
二人が順路に従って歩いていくと、「ゴヤの家」に迷い込んでしまった。一歩足を踏み入れてその恐ろしい雰囲気に鬼気を感じたミモザは、竜道の手をぎゅっと握り締めた。
恐ろしい我が子を食い殺すサトゥルヌス。子供の手の先や足の先はもうない。切り口からは赤い血がにじんでいる。父は子を頭から呑み込もうとしている。
ミモザは自分が子供を呑み込んでいるように感じて、吐気を催しそうになった。
父親なら、まだ、自分の体から産み落としたという実感がないから、子を食い殺す事もできるだろう。私は私の胎内に宿し、胎内で育て、この体の中から産み落とした陽一を捨てたのだ。我が子を食い殺すサトゥルヌスとなんら変りはない。いやそれ以上に罪深い事をしているのだ。
ミモザは、子供が喉につかえながら胃の中に落ちていく時の、喉のぬるっとしたような感じを実感して、吐きそうになった。
泣きたい。周りに人が居なかったら、竜道の胸に顔をうずめて泣きたい。誰の胸に顔をうずめて泣きたいかというと、勲でもなく、父や母でもなく、竜道の胸だった。
二百年前、耳の聞えない七十二歳のゴヤが、専制王の進歩的知識人迫害を予想して隠棲したという『聾者の家』の壁に描いた十四枚の暗い絵が、そっくり『ゴヤの家』の中に再現されている。こんな絵に取り囲まれて暮らしていれば、気が狂ってしまうに違いない。ミモザは老年まで笑いさざめいて生きていたい、こんな暗い孤独な境地とは無縁で生きていたいと思って、慌ててゴヤの家を出た。
『裸のマハ』の絵の前に来た時、竜道は後から来ているミモザを手招きした。
「ちょっと、これ見てごらん、作者はゴヤとなっているよ。さっきの絵もゴヤでなかったかい? どうしたんだこの違いは?」
「美しい肉体も永遠ではないということ? いやだ。わたしは、あなたによって、いつまでも若やいだ体でいたいの」
ミモザは、我が子を食い殺す絵と自分が重なる恐怖からのがれようと、だだっ子のように甘える口調で言った。竜道はミモザが怯えているとは知らない。
「こんなポーズでミモザの写真撮りたいなあ。ミモザとマハとの違いはミモザがもうちょっと細めで、ボインちゃんがもうちょっと中に寄っているよね」
「聞こえるわ」
ミモザは、人が入ってきた気配に、竜道を軽くつついた。竜道は急に話題を変えた。
「おっと、ミモザの言っていた大睡蓮の絵ね。あれはB2にあるとパンフに出てるよ。行ってみよう」
竜道も、聞こえたと思ったのか、その場から足早にミモザを連れ出した。
「ありゃりゃ、B2ってでていたのに、ここは外だよ。お日様が照っている。おっかしな構造だね。本当の睡蓮もある。花が咲く季節に来ると綺麗だろうね」
蓮池はよく手入れされていたが、小振りだった。ミモザは、モネの屋敷にあるという、水辺に草花の生い茂る睡蓮の池をイメージした。美しい田舎の風景が想い浮んだ。いつか自分の眼で池と風景を見てみたいと思った。
竜道は池の周りを二回まわると、池から見える喫茶室で休憩して昼食をとろうと、ミモザを促した。
喫茶室に入ると、竜道は美術館の構造の研究に没頭してしまった。
「絵はどれを見ても同じだけれど、この建物は曲者だね。調べてみる余地がある」
竜道は取って来たパンフレットをあれこれひっくりかえして見ていた。
「なになに、地上一階には別館があってそこにレストランがあったのだ。本館は現代美術で、『ゲルニカ』?」
「えっ、『ゲルニカ』があるの?」
ミモザは動揺した。
「知ってるの? ミモザ。『ゲルニカ』って何?」
「ピカソの絵です。陽一が中学の時、美術部の先生が、ピカソは偉大な画家だ、自分が獲得し到達した所に留まるということをせず、得たものを打ち壊し打ち壊しして、新しい境地を切り開く。そこがピカソの偉い所だと言ったというのよ。そして、なかでも、内戦や戦争に対する抵抗の絵として『ゲルニカ』はすごいと言ったことがあるの。本物を見たいと何度も言っていたわ」
ミモザは陽一の名前を口にしたことで、陽一のことがひどく心配になってきた。娘のことや家のことを何もいわない竜道の前で、動揺したくなかった。ミモザは心配は心の奥底に隠し、姿勢を正してレモンティのカップを口に運んだ。
「行ってみようか、その、ゲルニカとかに」
ミモザはその絵を見て、竜道の前で涙を出さないようにできるかどうか自信がなかった。でも、涙を見せれば竜道の負担になる、それならいっそ最初から竜道に体を預けて少しでも安心した方がいいと、ゲルニカを見るときは竜道の肩に手を乗せてもたれかかるようにして、絵の前に立った。
「ほう、これが、それか。牛と馬がいて、どうなってんだ、馬の体は。この手、これは剣持ってんのか? それでこの手は切れて飛んでるよ。ここには目みたいな電球みたいなものもある。牛の顔もなんか人間っぽくないか? 結構面白い絵ではないか」
竜道はもたれかかたミモザを意識してか、何時もより饒舌だった。ミモザは陽一が図書館から本を借りてきて、母のミモザにその絵を開いて見せた時のことを思い出した。
「ほら、お母さん、この間言ってたのはこの絵だよ」
と、わざわざ料理している母の所にまで持って来て本を開いて見せたときの、陽一の顔が迫ってきた。
ミモザの目に涙がじわじわと浮んだ。ミモザは竜道の背中にまわり、ハンドバッグからハンカチを出して、気付かれないように涙を拭いた。
「もう、銀行に行きましょう。三時も近づいてきたわ」
ミモザは俯きがちに駐車場へ歩いた。
竜道は鳴門市街まで車を走らせ、銀行の前で車を止めた。
「中で待っててすぐだから」
ミモザは大阪に比べて人が格段に少ない町を眺め、こんな所で竜道と夫婦になって隠棲してみたいと思っていた。陽一と両親にだけは許されて、時折連絡もつく状態で、近所の人には本当の夫婦と見られて、仲良く静かに暮らしていかれたらどんなにいいかと思ってみるのだった。
もの珍しそうに車の中から周囲を見回していると、銀行の自動ドアの中から、懐かしい竜道が現れた。スポーツマンのように贅肉のない筋肉質な体、長い脚、若者にも負けない上背。家を出てきた時のままのグレーのスーツに身を包んで、銀行の自動ドアから出てきた竜道を見て、ミモザは外国の俳優のような雰囲気に恋心をかきたてられるのだった。二人の関係を竜道の妻に注進したという沢山が、
「会長の周り、半径十メートル圏内に入った女性は、それだけでもう濡れてしまうって評判よ」
と言っていたが、少し距離をおいて見た竜道は、惚れ惚れするような男ぶりだった。 そんな竜道を、PTAの全女性を差し置いて、自分が独り占めにしていると思うと、ミモザもしっとりと濡れてくるのだった。
竜道が車のドアを開けて入ってきた。
「どうだった? お金はおろした?」
「それが、大変な事になった。ともかくホテルに帰って善後策を考えよう」
「おろせなかったの?」
「うん」
竜道は慌てた様子でエンジンをかけ、ホテルに向かって車を走らせた。
部屋に入ると竜道は上着も脱がず立ったままミモザを抱きすくめた。
「ミモザ、よく聞いておくれよ。三百万円普通預金にしていたのが、五万円しかなかったのだよ。ワイフの仕業に違いない。ワイフが通帳を見つけたのだ」
ミモザは言葉を失って、竜道の腕の中で震えていた。
「ワイフの奴め、おれの机をひっくり返したんだな。机の引出しの奥の外側に、通帳を貼り付けていたんだが、引出しまで抜いていちいち調べたんだな。そうとしか考えられない」
ミモザは我に返って竜道の腕から抜け、ベッドの端に腰掛けた。
「判こもいっしょに?」
「いや、判は、会社の他の通帳にも使っていたので、引き出しに入れたままだった。ワイフの罵声に逆上して出たものだから、引出しの裏の通帳までは取り出せなかった。部屋の入口にはワイフが箒を持って仁王立ちしていたのだ。判こだけでも、取り出せる状態でなかった。まさか、ワイフが引出しの裏まで探り当てるとは思わなかった」
「ここの払いが出来なかったらどうなるの? 私、一万円くらいしか持っていないの」
「一人だけいい奴がいるんだ。親友とでもいえる奴が。そいつに電話かけて、ここに送金してもらうよ」
竜道は上着を脱いで、携帯をかけ始めた。
「しまった」
「どうしたの?」
「北京に商用で行って、月末まで帰らないので、用の方は留守電に入れておいてくれと言っている。困った!」
竜道はソファーに座り込んで頭を抱えている。
ミモザは、お金のないままここに何日も逗留する恐怖や、ミモザだけを置いて、竜道が大阪に金策に帰る恐怖をかみしめていた。こんな時に定期預金を役立てないでいつ役立てるのだという思いがわいた。
「竜道さん、わたし、結婚の時実家から貰ったお金を定期にして持っているの。それを使って。でも、郵便局だから、四時までに行かないと・・・」
「ええっ? そんなもの持っていたの。神の助けだ!ミモザ貸しておいてな。すぐ返すから」
時計をみたら三時二十分だった。二人は又車に乗って郵便局に走った。
定期を解約して四十万円おろした。はたちの時本間家からいただいた結納金を、竜道と自分のために使うのは、後ろめたかった。陽一の留学や学費に困った時に役立てようと思っていた。実際には、それくらいのことに困るような家ではなかったけれど、気持としてはそうしようと思っていた。でも、竜道が窮地に落ち、自分も不安になったとき、今使わなくていつ使うんだと思ってしまった。竜道を支え、竜道となんとかして添い遂げたいと思う気持が、陽一を思う気持を上回ってしまったのだ。勲とのお見合いが決まった時、何とかして勲に気に入られたい、もし結婚が決まれば勲に愛されるように仕向けたいと心はずんだ遠い昔の感情が思い出され、親から持たされた結納金に手をつけたことに、後ろめたさをおぼえたのだった。
ホテルの部屋に入ると、竜道は、
「ミモザ申し訳ない。必ず、家に帰ってワイフから取り返し、借りたお金は返すからね。助かった。ありがとう」
と言って、ミモザを抱きしめた。
「家に帰るって? 家に帰るんだって? あなた、どうして家に帰るの?」
ミモザはもう泣き出しそうになっていた。
「定期預金の千七百万円の方も、おろされている可能性がある。お金がなくては新しく不動産屋を始められないし、ワイフに使われてしまわないうちに取り戻さなければ、ミモザとの生活が始められないのだよ」
「どこかに雇ってもらうことはできないの?」
「この年でもう雇ってくれる所はない。若い人が一杯出てきているんだから・・・」
「私も最悪の場合、パートで働くわ。どんなささやかな暮らしでも、あなたがいれば我慢できる・・・」
「お金のない暮らしはきついよ。おれは、おやじが交通事故で死んで、おふくろだけで育ったんだが、弟妹もいたし貧乏のどん底だったという思いがある。もう、あんな生活だけはしたくないし、ミモザにもさせたくない。あがいてあがいて、ようやくつかんだお金なんだ。可愛いミモザには絶対にあの苦労はさせたくない。おれは何が何でもお金を取り返してくる。ちょっとの間だから、ミモザ、おれを信じて待っていてくれないか」
「いや! あなたを離れてどこで待つの?」
「すまない、ちょっとの間、お父さんやお母さんの所に帰っていてくれないか? 三日もあれば決着をつけて戻ってくるから」
「そんなのいや! 大阪に帰ってまだ残っている私の貯金で安いアパートを借りて、勤めを探して! 私も働く」
「ミモザは、貧乏ってものが、どんなに人間を蝕んでいくか知らないのだね。可愛いミモザ」
そう言って、ミモザを引き寄せ、胸のボタンを外し、乳房をそっと撫ぜた。
「貧乏ゆえに家族に争いがたえず、母は年がら年中いらいらして、子供たちを怒鳴りちらしていたのだよ。あんな暮らしに二度と戻りたくない。今思えば母もかわいそうだった。いつもイライラし通しで、結局早死にした。ミモザにそんな苦しみはさせたくない。二千万円は取り戻し、ワイフと離婚し、絶対にミモザと新所帯をもつ。すまないが、ほんの二、三日のことだから、実家で待っていてくれないか」
「いやよ。竜道さんと離れるなんて。いや。いや」
「可愛いミモザ、子供のような・・・」
竜道はミモザを強く抱きしめた。
「いや。駄目!」
ミモザは、はじめて竜道の腕から逃げようとした。竜道はひるまなかった。尚一層ミモザを強く抱きしめると、風のように身にまとっている空色のスカートを脱がせ始めた。ミモザは目をつぶって、竜道さんに勝つ事はできないわと感じていた。否応なくしばしの別れがくるかも知れないと思うと、いつも以上に竜道を体の中で感じるのだった。
「ああ、ミモザの中に、この可愛い体の中に、おれの足跡を刻んでおきたい。おれのことを絶対わすれないように」
竜道は永遠に愛の行為が終らなければいいというように、ミモザを愛した。ミモザはこの世のものとは思えない世界に自分を連れていってくれる竜道に感謝の気持ちをおさえることができなかった。
「ありがとう、タツミチ」
と、窓から入って来る波の音にまざって、ミモザはあえぎながら言うのだった。
さっぱりして前向きになったような竜道に対して、ミモザの方は、現実に戻ると、不安が波のように押し寄せて来るのだった。これっきり竜道に会えなくなるという最悪の事態を想像してはベッドの上で涙ぐんだ。父の家のしきいも高かった。もう竜道と一緒に外国にでも行きたいと思った。
「ミモザ、こんな明るい昼の光の中でも、ミモザの体はマハと同じだよ」
「まあ」
ミモザは物思いにふけってしまって、裸のままで横たわっていたのを恥じるように、ベッドカバーを胸まで引きあげた。
ミモザの悲しい旅第9話 葉っぱちゃん @bluebird114
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