世にも美味しい餃子
僕は何を成すにも遅いのです。その為、定時で帰れと上司には言われるのですが、いつも残業になったり、家に持ち帰って仕事をしたりすることになってしまうのでありました。今日は持ち帰って仕事をやることにしましたので、久しぶりに定時で帰りました。疲弊した体は上に岩が乗ったように重く、リクルートスーツやワイシャツはよれ、油性マーカーで塗ったような大きくくっきりしたくまができていました。僕は重い体を引きずるように帰路をたどっていました。いつもの赤信号の所で止まると、交差点を越えた向こうの細い路地にある『世にも美味しい餃子店』という看板が目に入りました。誰の目にも止まらないような、いつもは目に止まらないような看板に僕は今すぐこの交差点を渡りたい程に惹かれました。特別、餃子が好きなわけではありません。それだのに、その店の餃子が食いたくてしょうがないのです。
青信号。
僕は吸い込まれるように、その店に向かいました。錆びついてひっかかる引き戸を力いっぱい引き開けると、窓一つない店内に蛍光灯の青白い明りが広がっています。すると奥の厨房から店員が少しかすれた太い声で「お客さん、この店は完全予約制なんです。」と言い放つのです。
「今、今から予約できますか。今、予約したらいつ食べれるのです。」
「まあ、そう慌てなさんな。一度、家に帰ってそれからウチに電話してくださいな。ほら、看板に番号が書かれてあるでしょう。」
言われた通り看板を見てみると、確かに電話番号が書かれています。僕は必至にその番号をメモに書き込みました。間違えのないよう、何回も確認してから、僕は一目散に家に帰りました。靴を脱ぎ捨て、直ぐにメモの通りに電話番号打ち、電話をかけます。
ーープルルルルッ プルルルルッ
早くかからないかという気持ちが募っていきます。
ーープルルルルッ ガチャ
ーーはい、こちら『世にも美味しい餃子店』です。ご予約でよろしいでしょうか。
店に行ったときの声の店員が電話に出た。
「もちろんです。」
「それ以外にないだろう」、「もっと早く出られただろう」、「お前が出るのなら店で予約しても良かっただろう」などという怒りを押し込めて答えました。
ーーでは、予約日時はどういたしましょうか。
「一番早い日時にしてください。僕は、一刻も早くその餃子が食いたいのです。」
ーーわかりました。そうしますと、明日の午前九時になります。よろしいでしょうか。
「九時ですね。わかりました。」
明日は日曜日であったので、時間に心配は無用でありました。そうでなかったとしても、休んでしまえば良いのです。
ーーでは、お嫌いな方はいらっしゃいますでしょうか。
嫌いな人…、仕事が終わらないと言っているのに、彼女とデートだとか言って仕事を押し付ける山田が嫌いだ。「まだ仕事おわらないのか」とあざ笑うだけして帰る田中も嫌いだ。ふと、鏡に映る自分の顔が目にはいった。嗚呼、僕は。
「僕は、自分が嫌いなのです。鈍間で、誰の役に立つこともなく、顔も良くなく、優しくもなく…。そんな自分が嫌いで嫌いで仕方がないのです。」
ーーそうですか。貴方様は貴方様自身がお嫌いでいらっしゃるのですね。承知致しました。では、九時にお待ちしております、吉田様。
ようやく、餃子が食えるのだ。気持ちが高揚して眠りにつけません。あまりに眠りにつけないので、片付いていない仕事や家事をして、朝になるのを待つことにしました。今まで時間が過ぎるのが長いなどと思ったことがありませんでしたが、この度はそう思うのです。まだかまだかと時計やカーテンの隙間から見える空の色はちっとも変っていませんでした。
ーーピピピ ピピピ
アラームの音が聞こえます。どうやら、僕は寝てしまっていたようです。身体を起こそうと机に手を着こうとすると、左手の感覚が全くありません。それで左腕が無いとに気づきました。かゆみはありますが、痛みはありません。
餃子…。そうです、餃子を食べに行くのです。
午前八時。
もうすぐ店に行く時間です。左腕がどうなっていてもどうでもいいのです。ですが、無くなったのが利き手ではないのは幸いです。無くては餃子が食べられません。軽くシャワーを浴び、服を着替え、一杯の水を飲み、一通り身支度はできました。そして、あの店へ向かいました。
午前九時手前。
僕はあの店についておりました。ここまでどうやって来たのか、正直あまり覚えておりません。いつも通勤する時と途中までは同じルートでありますし、何より、僕は餃子を食すことしか考えていませんでした。僕は薄暗い路地に入り、突き当りにある錆びて開けづらい扉を開けました。すると、店員が、「いらっしゃい、予約してた吉田様ですね。」と少しかすれた太い声でこちらに問いかけてきました。僕が食い気味に「はい。」と言いますと、「まあまあ、そう焦らんで下さい。一番奥のカウンターの席で待ってて下さいな。」と店員は言いました。僕が言われた通りの席に着きます。席には、一つのプラスチックのグラスと、氷と水の詰まった透明なピッチャー。僕は餃子がくるのを待ちきれず、怒鳴ってしまいそうになるのを抑えるために、グラスいっぱいに水を注いでは、それを一気に飲み干し、また注いでは飲み干しを繰り返していました。そうしている間、餃子を焼く香ばしい香りが漂い、店内に充満しています。その香りとともにまた水を飲み干しました。何回繰り返したかわからないくらいになったとき店員は、「おまたせしましたね。」と言いながら、カウンターからわかめのスープとレンゲの添えられたチャーハン、そして、焼き餃子を僕の前に置きました。カウンターに置かれた割り箸を取って割り、一目散に焼き餃子を食らいました。箸が綺麗に割れていようがいまいが、関係ありませんでした。口に入れた餃子は今まで食べてきた餃子とは全く違いました。口の中で溢れる肉汁、ほのかに甘味のある肉。ニンニクとニラの香りが後から心地よく鼻を抜ける。この餃子を称賛する言葉がこの世にあるのでしょうか。いや、あるはずがありません。半分くらい餃子を食べたとき、チャーハンが目に入りました。僕はレンゲでチャーハンをすくい、ゆっくりと口に運ぶ。餃子ほどの美味ではありませんでしたが、これも今まで食べたどのチャーハンよりも美味でありました。白い陶器の椀に入っていた黄金色のスープをチャーハンと一緒に流し込みますと、餃子の肉と似たような味がするではありませんか。
気づいた時には、全て空の皿でした。会計をしなければとポケットを探りましたが、財布がありませんでした。そういえば、いつも鞄の中に入れていたではありませんか。身支度は完璧だと思っていましたが、頭の中は餃子のことで埋めて尽くされていたのでしょう。すると店員が「お客さんの食べっぷり、良かったからお代はいいですよ。」と言うのです。こんなにも美味しいものを食べさせてもらったのに、代金を払わない訳にはいきません。
「また今度、来た時に払わせてください。またここ餃子を食べたいですし。」
と僕が言うと、店員は
「___『今度』、ねぇ。まぁ、いいですよ。」
と言いました。
僕は「また絶対来ますんで!」と言いながら店を去りました。
僕はどんな顔をして帰っていたのでしょう。きっと満足感や高揚感の抜けないニヤニヤとした顔だったのでしょう。家に着くまでの間、視線を何度か感じました。その感覚も刻一刻と薄れていき、またあの餃子を食べたいというイライラとした感情に置き換わっていました。予約をもう一度取ろうとかけた電話は「おかけになった電話番号は現在使われておりません。」の一点張りで、全く繋がる様子はありませんでした。仕方なく家の近くのスーパーで買った半額の餃子は、あの餃子の味を知ってしまった僕には反吐が出るほど不味く感じました。夜はチェーン店の餃子を食べてみましたが、ニンニクの臭いしかしない不味い餃子を皿とともに放り捨てて店を去りました。電話をかけては「おかけになった電話番号は_」を聞くくだりも、うんざりするほど繰り返しました。家に帰りテレビをつけると、餃子特集をやっていました。先程のチェーン店の餃子を美味しいと言いながら頬張る芸能人達になんだか苛立ち、テレビを消すより先に画面を叩き割っていました。
真っ黒になったテレビ画面にはあの時食べた餃子が映っているではありませんか。あの時食べた物よりも、大きく、良い香りがしています。僕はそれにかぶりつかずにはいられませんでした。あの時食べたものよりも皮が薄く、肉々しいその餃子は、あの時のおいしさを遥かに超えていました。大きな餃子に食らいついている時に、姿見が視界に入りました。その姿見に映る僕は、体中のいたる所が食いちぎられ、Tシャツは自分の血を浴びて真っ赤に染まっていました。自分自身を喰らっていた事に気づいた途端、電撃が走るような激しい痛みに襲われました。痛みがなかった左腕からは、決壊したダムのように血が流れ出ていました。どれだけ痛いだとか助けてだとかと叫ぼうと誰も来るはずがありません。もう、感覚も無くなり、痛みも感じなくなりました。
嗚呼、私はいつから死んでいたのだろう。
意識が薄れていく中、彼は店員の顔を思い出していた。店員の顔は確かに顔は存在するが、見えなかった。無色透明だとか黒とは全く違う。それはまるで、『死後の世界』という名前だけあって、無であるのと同じようなものであった。
朝からテレビを垂れ流している餃子店には店員と一人の男の姿があった。
ーー昨夜、板橋区のアパートの一室で男性の変死体が見つかりました。男性は都内の会社に勤める会社員の吉田___
「物騒なこともありますね。」と店員が男に声をかけるが、男は一心不乱に餃子を食べ進めていた。そんな男に店員は「そう慌てなさんな、山田さん。」と声をかけるのだった。
世にも美味しい餃子 朝月春樹 @mokumoku_cloud36
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