DR(ドリーム・リアリティー)

朝倉亜空

第1話

 今日も一日の仕事を終え、長井は退社した。花の金曜日。

 街灯の灯がポツポツと灯り始めている街の景色を眺めていると、長井は心の中がじんわりとした幸福感に満たされていくのを感じた。今週も、我ながら、なかなかよく働いたじゃないか。平穏な日々を少しずつ積み上げていく、人生の充実感。

家に帰れば、愛しい妻が待っている。自分で言うのもあれだが、美人で可愛い。妻とは大学で知り合った。友人の秋元と、「あの子は、俺たちのマドンナだ」なんて言ってたんだが、こっちの想いが募るにつれ、どんどんと胸が苦しくなり、えーい、どうせなら告白して振られてやれ、それで、心苦しさもきれいさっぱりしようじゃないかと、高嶺の花にアタックしたところ、なんと、その麗しの花一輪をわが手に摘むことができたのだった。後で妻曰く、「あなたと秋元君で、先に言い寄られた方と付き合おうって、決めてたのよ」なんて言われた。ラッキーだった。秋元、スマン!

 いつもなら、その愛する妻のいる我が家へまっすぐ帰るのだが、今日は少し寄り道をしようと決めていた。金曜の夜だ。妻も少しは許してくれるだろう。

 実は、自身の昇進が内定したのだ。同期に先駆け、来月一日付で主任となる。それで、ほんの一杯、ささやかな祝杯をあげようというのだった。

 長井は駅とは違う、繁華街の方向へと足を向けた。なんとなく侘しげな雰囲気の漂う、小さなバーが目に留まった。長井はそこに決めた。店内に入る。

「いらっしゃいませ」

 長井は声を掛けてきたマスターに軽く会釈を返し、カウンターの一番奥に座った。ハイボールを一杯とミックスナッツを注文する。

「あのー、ちょっとよろしいでしょうか……」

 一人でゆっくりちびちびと楽しんでいた長井に、いつの間にそこにいたのか、隣の席に座る初老の男性が声を掛けてきた。

「はい、なんでしょうか」長井は言った。

「いえ、その、おひとりでおられる様でしたので、少し、この老いぼれのお話し相手になっていただければと、もちろん、ご迷惑でなければですが……」

「そういうことですか」礼儀をわきまえた、見知らぬ者同士の紳士的な会話を楽しむというのも、こういった場所での楽しみのひとつなのだろう。「もちろん、構いませんよ」

「それはよかった」男性はにっこりと微笑んだ。「わたくし、国立K大学の研究室でDRというものを実験開発しておりまして……」

「K大学ですか。K大は私の母校ですよ!」

「おやまあ! どうりで聡明そうなお方だとお見受けしておりました」

「いいえ。私のK大合格はたまたままぐれですよ。実のところ、数学は張ったヤマが的中し、英語のテストの最後の読解問題はちんぷんかんぷんで、四択問題はすべて、鉛筆コロコロで記入したんです。それがズバリ当たったみたいで、それでなんとか合格通知をいただいたという訳です」

「運も実力のうちと言いますから」

「恐縮です」長井は話題を変えようと、さらに言葉を続けた。「それで、DRとはいったいどういうものなんですか。最近、流行りのVR、ヴァーチャル・リアリティーのようなものでしょうか」

「はい、似て非なる物、ですね。VRは仮想体験ですから、もし、自分が鳥だったり、空飛ぶスーパーヒーローだったら、高い空からこんな感じで街並みを見下ろすんだな、ということを体験する。自分自身は普通に意識がある中でその行為を演じている訳なので、それは現実ではないことを知覚しています。ところが、夢の中だと、自分は今、本当に空を飛んでいるんだと錯覚的に認知します。死んだおばあちゃんが出てきて、普通に会話しても、別に変だとは思わない。目が覚めて、ああ、今のは夢だったんだ、となる。夢というものは、見ている本人に、これは現実なのだ、実体験なのだと思わせる力を、相当強く持っているんです。DRとは、その夢の力を応用した、夢想現実、ドリーム・リアリティーのことなんですね」

「なるほど。私も何度かVRは体験したことがありますが、確かにしょせんはもしもの世界、現実じゃないと知っている。しかし、それでもリアル感が伝わり、怖かったですよ、ゾンビが出てくるVRゲームは。ではそれがDRになると、嘘だと気づかない夢の中の現実感の中で、ゾンビから逃げ回らなければいけなくなるのか。いやぁ、ちょっと怖すぎるなー」

「ははは、それは怖いでしょうね。でも、あなたのおっしゃったことや、私の最初の説明は、ただの夢の説明にしか過ぎないんですよ。夢には現実だと思わせる力が相当あるんですが、完全にある訳ではない。ふとした拍子に脳の常識的論理性が表に現れ、あれ、これはおかしい、この世にお化けやゾンビがいるはずはない、だったら、今見ているものは夢の世界の話だって、気づく場合があるんです。その瞬間、リアリティーは完全に消滅してしまいます。DRは、人の脳波を操作するための電気信号を発生させる、ヘルメット状の機械を頭に取り付けて行います。それで、睡眠時の脳波を操り、嘘を嘘だとばれないように、上手く夢をこしらえるのですよ」

「ああ、そういえば、学生時代の友人にもその類のものがいたのを思い出しました。時に「これは夢だー」って叫ぶんだって言ってました」

 男性は長井の言葉に、うんうんと軽くうなずきながら、話を進めていった。

「ではどうするのかというと、対象者にはあまり大きな嘘は夢見せないように注意を払います。恋人を欲しがっている人には、大ファンのアイドル歌手と素晴らしい出会いがあり、深い交際が始まったとか、そんなこと、絶対にある訳ないんですから、そんなリアリティーの無い嘘、途中で絶対ボロが出る。進学や就職なんかでも、トップの成績を収めてなんてやっちゃダメ。こんなラッキーなこと経験しちゃったよ、という、現実世界でもありそうだというワンランク上のリアル感があるところで、いい夢を見させてあげるのがコツです。ワンランク上の進学先、ワンランク上の就職、ワンランク上の恋人。トータルでスリーランク上がったことになる。それでも十分にDRで眠っている人は深い満足と喜びを得ているようです」

「なるほど。非常に興味深い、面白いことをなさっているんですね。でも、どうして私なんかにDRの話をしようと思われたんですか」

「実は、私のDRを利用される方々は、もう、お分かりだと思いますが、現実の世界では本当に不遇な、実力にも運にも見放されたような方ばかりなのです。三浪、四浪したのに、また大学入試に失敗した。それ故、就職もままならない。恋人なんてできたこともない。周りからはバカにされている。もう、生きている意味が見当たらない。そういった方たちが、言ってみればDRのお得意様なのです。ここのようなお酒を提供するお店で、お一人で飲んでおられる方の中には、何かに悩んでいる、思い詰めている方が時におられます。もしやあなたがそうではないかと思い、それならばと、お声を掛けさせていただいたという次第なのですが、どうやら、私の勘違いだったようですね。申し訳ございません」

「いえいえ、謝られることなんてないですよ。私としては楽しくお話をお伺いできて良かったですよ。でも、確かにDRは私には必要ないかな。自画自賛するようですが、運や周りにも恵まれ、人生は順調にいっていますので。でも、DRを使っている人って、自分が今、DRを使って見ている、いい夢の中って知らない訳だから、目覚めたときが残酷だなぁ」長井は自分には無関係で、まるで他人事と言わんばかりの口調で言った。のだが……?

 あ、それと、今、これを読んでいるあなた。何気ない、安らかな日常という幸福感の中で、これを読んでいるあなたも、もしかして、……。

 


 

 

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DR(ドリーム・リアリティー) 朝倉亜空 @detteiu_com

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