弐拾弐 再会
兵站病院に勤めるはずの美冬が野戦病院に配属されたのは、戦況が変わったからだ。野戦と言っても元野戦病院といった方が正しいかもしれない。前線が進んだことにより、野戦病院だったものが兵站病院扱いになったのだ。美冬はその補充として抜擢され、静江と共に火薬の臭いが残る地に進んだ。
軍医も衛生兵も前線に駆り出され、元野戦病院にはすぐに移動できない軽傷者だけ残されている。
着いてそうそう、治療の必要がないと見てとった静江は備品の在庫状況の確認に回る。美冬は投げてあったカルテをめくり、陸軍第三特殊部隊の記述を探した。
百人力、人によっては一騎当千とも吟われる異能者にも限界はある。体力は鍛えねば人並みだし、銃の当たり所が悪ければ死ぬ。秋人達は全知全能の神ではない。食事も休息も必要で、ひどい怪我をおえば動けなくなる人間だ。
山の向こうから聞こえる大砲の音も気にならないぐらいに、美冬は手がかりを探した。数枚めくって、思わぬ名前を見つける。ずっと美冬が追いかけてきた男の名だ。弾が飛び交う中で再会すると思っていたのに、なんたる偶然だろう。
傷を負った場所は左太股。銃創ではあるがかすり傷で済んでいるようだ。書き殴られた文字に美冬は安堵の息をつく。
「死神でも怪我をするのね」
拍子抜けして独り言を呟いてしまった。
『白炎の死神』とは敵がつけた秋人の呼び名だ。名だたる異能者は異名で呼ばれることが多い。秋人の実力は戦況を報道する記事にも取り上げられる程だ。無口な少年しか知らない美冬はそれを読んでひどい顔をしていたらしい。佐久田に死んだ目をしていますよと不本意な言葉をかけられた。
比較的、新しい記憶に半笑いした美冬は左右のテントから探そうと首を振り、なんとなく右に入ろうと決めた。
横に長いテントの中には、二段ベッドが両端に並べられている。移動したのか、所々に赤黒い血が染み込んだ簡易ベッドはいくつか空いていた。まだいる兵士は体力を取り戻そうと疲れた顔で寝入っている。
薄汚れた鉄色や黒い頭のなか、小綺麗な白い頭が美冬に向けられていた。
動揺を悟られまいと美冬はすました顔を装い、目線を合わせないようカルテをめくる。慎重に息をしながら、簡易ベッドの横に立った。
曇天の瞳はこぼれ落ちそうなほど見開かれ、震えるようにゆれている。
美冬はしてやったりと得意気な気持ちになって、揶揄する口をおしみもなく吊り上げた。
「死神さん、具合はいかがかしら」
美冬の問いに秋人はなかなか答えなかった。伏せた目でいくら戸惑いや疑問を示しても伝わるわけがなく、無駄な沈黙が流れる。
「……その呼び方は居心地が悪いです」
聞き取りづらい声は不満を伝えることが精一杯だ
美冬は秋人に顔を向け、嫌みったらしく眉を上げる。
「じゃあ、葛西大尉?」
含みのある言い方はこれまでの恨みつらみに比べたら、かわいいものだ。秋人の無言の返答に美冬はため息まじりに言ってやる。
「秋人、と呼ぶには大人になってしまったのよ」
それだけ別れて時間がたったのだと示唆してやると秋人は狭いベッドで窮屈そうに上半身を起こした。それでも美冬の目線には届かない。
美冬は片方の口端を少しあげた。下から見上げる秋人にはよく見える。
「お前も諦めていないのでしょう?」
美冬のためすような台詞に秋人は小さく頷いた。諦めたと言ってしまえばのされる未来は確実である。
しかし、それだけが理由ではなかった。秋人を奮いたたせるのはいつだって彼女だからだ。
帝都で別れた美冬と異国で出会うとは秋人は思ってもみなかった。使用人にかしずかれるような令嬢が不毛の戦地に降り立つ姿を誰が想像できただろうか。野戦用の鉄色の看護服は擦りきれ、薄汚れた白いエプロンを身に付けている。天の使いにしては、荒々しい出立ちだ。
守るべき存在だった美冬が秋人の隣に立つまでになった。戦場に花は必要ない。しかし、それさえも美冬はくつがえしていく。秋人がどれほど心強く思っていることか、知る由もない美冬は堂々と君臨していた。
「話がしたいのだけど、場所は移せるかしら」
否など許されない言葉が秋人に投げられた。
しばらく瞼を閉じて考え込んだ秋人は松葉杖を支えに立ち上がる。
「俺のテントでいいですか」
「自分のものがあるなんて、さすが大尉ね」
美冬が誉めても、秋人はちっとも嬉しそうな顔をしなかった。無言で天幕の外に出て、進んでいく。
美冬は道すがら、他の看護婦に所用で席を外すと嘘ぶいて、秋人についてテントの中に入った。
折り畳みのできる
秋人は外套を羽織り、毛布を美冬に差し出した。美冬は首を振る。
美冬はテントの中を興味深そうに観察するばかりで、話が始まらない。許可もなく方々を物色している。
大卓を挟んで反対側に立つ秋人は支給品をあさる白い手を眺めていた。日も落ちてきたので、ランプに白炎を灯して大卓の上に置く。美冬が目を丸くするのが目に入り、動きを止めた。
美冬は思ったよりも自分が執着していないことに驚いただけなのだが、秋人はまずいことをしたと目を泳がせている。
白い炎だけを見つめる美冬は瓶を片手にランプに近寄った。
「便利な使い方もできるのね」
そう言って、火の元に瓶を持っていけば、書かれた字がよく見える。
「大尉になると酒まで支給されるの?」
いいご身分ね、と美冬は酒瓶を角度を変えてかざした。琥珀色のガラスの中で波打つ様を一瞥し、美冬は栓に手をかける。
「……口に合わないと思います」
目をすがめた秋人が口をはさんだ。
味見をするだけよ、と返した美冬は近くにあった銅製のカップに酒をそそぎ、瓶を置く。
揺れる琥珀の水面を見下ろす美冬は顔を上げ、目だけで秋人を捕らえた。
「小言が多いのは変わってないのね」
皮肉な笑みと言葉を残して、一気にあおる。細い喉元がごくりと動いた。喉が焼けるような不快感が通り、胃の底に落ちていく。味の良し悪しはわからないが、不快感の理由はぬるさだ。
美冬はしかめっ面で氷を作り上げ、躊躇なく自分の口に放る。
秋人は特に驚かなかった。
父の異能は氷を作り上げることだ。大人になった美冬が使えるなんて予想の範疇なのかもしれない。面白くなくて、美冬は秋人を睨み付けた。灯りに照らされているせいか、鉄仮面が仄かに赤い。ひとつ瞬いて、髪は赤く染まっていないことに気付き、ある考えに至る。
「秋人、熱があるの?」
秋人は答えに困り、消えるような声で多少と返した。
「ほら、使いなさい」
そう言いながら、美冬は秋人の眼前に氷を出した。
秋人は降ってきた小石程度の氷を慌てて受け取り、松葉杖がむき出しの地面に転がった。
からからと両手で作った器の上に氷の山ができる。どれも、丸い形をしたビー玉のようだ。
「それだと濡れるわね」
美冬は支給品から手拭いを取り出して、秋人の胸に投げつけた。
勢いをなくした手拭いは氷の山に落ちる。
秋人は困惑した様子で動かなくなった。氷は秋人の熱を吸い、溶けていく。
「どうやって来たんですか」
滴が落ちると同時に秋人は口走っていた。どうして、とは訊ねられなかった。秋人が理由を知ってもどうしようもできないからだ。
酒気で赤みを帯びた顔を美冬は得意な顔に染める。
「戦地に赴くのに兵士になる必要はない、てね。目的が果たされれば方法なんて何でもいいのよ。伯母様やフィンに協力してもらったの。自分の身を守れる看護婦なんてそういないでしょう」
「……岩蕗少将はご存じですか」
「言うもんですか! もし、姿を見せるとしたら父様が窮地に立った時だけと決めてるの」
秋人に言わせれば、胸を張って言うことではない。
部下なら青ざめる秋人の無言の圧も美冬には立て板に水だ。
数年来の無言の押し問答。どちらもなかなか折れない。
じりじりと過ぎる時間を終わらせたのは、外からの声だ。
「葛西大尉、失礼します。佐久田です。今、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
断ろうとした秋人より先に美冬が応えた。
佐久田は姿を見せない。テント越しではあるが、女の声に戸惑いが見えた。
秋人は嘆息を耐えて、入れと促す。
遠慮がちに開かれた隙間から青年が覗きこんだ。
「お取り込み中なら改めますが――」
「お前が
「え? いや、はい、そうですけど……何か?」
「用件は? 早く用事を済ませなさい」
申し出も戸惑いも美冬の言葉に打ちのめされ、佐久田は閉口してしまった。美冬から視線を外し、秋人をうかがう。頷きかえす秋人に背中を押されて幕内に足を踏み入れた。姿勢を正して敬礼し、腹から声を出す。
「本部から伝令が来ました。早急に北上せよ、とのことです」
「北は混戦中で大掛かりな異能は禁止されているはずよね」
「やむ終えない場合は許可する、と言われております」
美冬の指摘に佐久田は淡々と答えた。
できた部下に心の中で感謝しつつ秋人は早々に切り上げる。
「……了解した。明日、出立する。皆に準備するように伝えてほしい。下がっていいぞ」
は、と短く返事をした佐久田は敬礼をして去る。
「若いわね」
美冬は天幕が下りてすぐに呟いた。
もう見えなくなった細い背中を目で追う美冬に秋人は簡単に返す。
「そう変わりません」
「まだ二十歳にもなってなさそうだけど?」
「来年にはなりますよ」
静かに答えた秋人は体力の限界をだったのか、後ろにあるベッドに腰かけた。乱暴に手拭いで包んだ氷を濡れるのも構わずに、傷よりも体の中心に近い部分を冷やす。
美冬は秋人の足に巻かれた包帯を見た。煮沸して使い回しているのだろう。少し黄ばんでいる。
「いつまで続くのかしら」
誰にもわからない問いが落とされた。
秋人が帝都を立ち、季節は一巡している。自国に帰れば、新緑が見られるだろう。つまり、一年以上同じようなことを繰り返している。秋人の率いる部隊も顔ぶれが変わっていた。
秋人の戦いぶりを紙面でしか知らない美冬はずっと不思議に思っていたことを口にする。
「ねぇ、人を殺すってどんな気持ち?」
秋人が顔を上げた。真っ直ぐな瞳とぶつかる。
殺した数を訊かれることはあっても、気持ちを訊かれることはなかった。答えあぐねている口が開き、一度閉じられる。真剣に悩む双眸は底知れない何かを見つめていた。その双眸が美冬を捕らえ、うすい口から言葉が捻りだされる。
「呆気ないな、と思います」
「敵の死も? 仲間のも?」
「……そう、ですね」
「争いなんてそんなものなのかしら」
腕組みをした美冬は頬に手を当て、考えを巡らせる。後悔や、人の生を止めることに罪悪感を抱くと思っていた。自分は人を手にかけたことがないから、わからない感情だ。人を殺し続ければ誰もが呆気なく思うのだろうか。
肩も頭も落とした秋人が再び口を開く。
「国を守ることのが勤めですから」
「守るためにたくさんの命が消えているのよ。馬鹿らしいったらありゃしない」
「最後の一人まで死ななければ神国は滅びません」
秋人の言葉に美冬は嫌気がさした。
父も秋人も連れていった軍は理論に欠ける風潮を国民に広めていた。玉砕覚悟で戦えと国民を煽るのだ。
美冬は冷めた目で秋人を透かし見る。
「国は一人では成り立たないわ」
「
「そう言うなら、民は『尊い民』になるのではなくって? 『尊い民』が刀を手に銃を背に、命を散らすのよ――呆気なく」
秋人の口からこぼれた、よく聞く言葉に、美冬はくすぶっていた想いをぶつけた。父に迷惑をかけまいと黙っていた分、熱がこもるのは仕方がないことだ。
秋人は押し黙った。
美冬は深く息を吸う。秋人に会っても、酒を飲んでも吐き出せなかった想いをぶつける準備だ。人の命と力を借りることになる。勇気と覚悟が必要だった。
生気の失せた秋人に、美冬は一石を投じる。
「別に殺さなくったって戦には勝てるの」
凍てつく曇天のようだった瞳に篝火が灯った。針の先程だったものが、徐々に広がっていく。
美冬は自分の中にも火が灯るのを感じた。血が騒ぎ始める。
「私に考えがあるわ」
そう言い切った美冬の瞳は戦火よりも熱くたぎっていた。
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