弐拾壱 外地
母国を立つ日、美冬は帝都一の駅にいた。父が乗った同じ行き先の汽車に乗り込み、乗降場で見送る佐久田達のために窓を開けてやる。
「捨てられた犬みたいな顔してるわ」
美冬が意地悪く笑って言ってやると、佐久田は肩をすくめた。
「そりゃ、事実捨てられてますから」
「何を呆けたことを言っているの。軍の用事で残るって言ったのはお前でしょう」
「そんなことも言いましたが、お嬢様にあらそう、と簡単に済まされたんでね。俺はそりゃあ、もうひどく傷つきました」
「あらそう?」
「二度はいいです」
つまらなそうな顔で佐久田は肩をすくめ、視線だけを美冬に向けて唇に弧を描く。
「秋人によろしく伝えておいてください」
「……あれのこと、知っていたの?」
何を言われたのかわからなかった美冬は、一瞬、反応が遅れた。噂に聞くことはあるだろうが、美冬の口からは秋人の話をしたことがないはずだ。
佐久田は素知らぬ顔で他の乗客を眺めたまま、何気ない口調で言う。
「何度か士官学校で世話をしましたからね」
「初耳よ」
「初めて言いますから」
目を見張る美冬に、したり顔の佐久田が映る。美冬は可愛くないと呟いて、話をおしまいにした。
機関室から響く規則正しい重低音の速度が上がっていく。出発までの時間はわずかだ。
茶番に口を挟まないでくれた執事に、美冬は頼むわねと声をかける。涙ぐむ執事に美冬は嬉しそうに呆れた。
美冬の向かいに梅辻夫妻が乗り込み、いよいよという時に言葉が落ちる。
「弟を連れて帰ってください」
眉を寄せる美冬は、佐久田が我に返る姿を見逃さなかった。
野良猫のように勝手気ままに生きる男とは思えない口振りで慌てて先の発言をもみ消す。
「すみません、聞かなかったことにしてください」
「恨んでくる弟、だったかしら。覚えていたら連れて帰ってきてあげる」
美冬のからかう調子に、いつもの軽口は返ってこない。異様な雰囲気に誰もが押し黙った。
沈黙を破るように、うつむいた佐久田が苦しげな声を漏らす。
「……それは、死にました。もう一人の弟を連れて帰ってほしいんです」
考えを巡らせ、美冬は確かめるようにするどく問う。
「その弟は何処にいるかわかるの?」
「葛西大尉の部下です」
「陸軍第三特殊部隊ね。名前は?」
「
切り裂くような汽笛が鳴る。
俯いていた佐久田が顔を上げると晴れやかな顔が出迎えた。新天地に向かうような明るさで、本当に戦地に向かうのかと訊ねたくなるような表情だ。
機関車の進む音に軽やかな声が混じる。
「仕様がないから、かわいい下僕の願いを聞いてあげるわ」
進む汽車に逆らうように身を乗り出した美冬は一年前の父と同じように声を張り上げる。
「帰ったら、たあんと感謝しなさいよ」
そう言い残した美冬は異国の地へ旅立った。
⊹ ❅ ⊹
美冬は戦場の一番後方に位置する陸軍病院で土を掘っていた。農作業をするわけではない、兵士の骨を埋めるためだ。看護帽子エプロンも脱ぎ捨てた鉄色の看護服で、体が回復してきた兵士に混ざり鍬を振り下ろした。赤い十字の描かれた腕章がそれと共に揺れる。
吐息は白く、指先は赤く染まっていった。体を動かすことをやめれば、震えることは間違いない。
極冬を終えた陸軍病院でも毎日のように死者が出た。前線に放置された亡骸のことを考えると内地の家族はさぞ無念だろう。
重くのしかかる考えを振り払いたくて、美冬は無心で鍬を動かした。
小さな石が擦れあう音がして、美冬の背に声がかけられる。
「岩蕗さん、それは他に任せてあなたのやるべきことをやりなさい」
鍬を振る手を休め、美冬は億劫そうに振り替える。
岩蕗という名前に反応した兵士達は目を見開き、距離を取った。さっきまで話していた婦女が鬼人の一族の者だと知ったからだ。
目の端でその様子を眺めた美冬は看護婦長に抗議する。
「休憩中です」
「休憩中と言いながら、働く阿呆がいるなんて思いもしませんでした」
丁寧な口調でけなしてきたのは看護婦長の静江だ。梅辻家が管理する看護婦教育所から来た一同は陸軍病院に配属され、伯母と姪は立場にあった呼び名と口調で話をするようになっていた。
「あなた、ここに何しに来たの。野菜の種を持ってきたり、支給される米を近所の農家に頼んで小豆に代えたり。見ず知らずの異国の人に感謝されるなんて初めてよ」
静江は呆れ混じりに、咎めているとも誉めているとも取れることを言った。
美冬は納得していない様子で近くにいた者に鍬を頼み、帽子とエプロンを腕に抱え手をはたく。流れるように足首まであるスカートをはたき、つま先を叩いて靴底についた土を落とした。手慣れた様子でエプロンを身につけ腰の紐を結びながら、歩きだした静江についていった。
船や汽車を乗り継いでたどり着いた陸軍病院はコンクリート造りの簡素な建物だ。到着した当初は身も凍るような季節ということもあり、匂いは気にさわる程度のものでひどくはない。だが、新任の看護婦達が躊躇うほどに、部屋や廊下にはノミやウジ虫が這っていた。
慣れた様子の現地の看護婦長は彼女らを無視して案内を進める。
その後ろについていったのは美冬ただ一人だけだった。野山育ちの令嬢は、顔をひきつらせた同胞達を脇目にも入れず、掃除をした方がいいですね、と呟きながら、それらを踏みつぶす。朽ちた動物の遺骸を見慣れていただけなのだが、皆一様に
傷病者の世話に追われ、それ所ではなくなり、虫に怯むのも数日で終わりを告げる。
来る日も来る日も、包帯を巻き、薬や水を飲ませ、食事や排泄の世話をする。替えの布団や服もほとんどない状態で、顔を洗う水さえも限られていた。風呂に入る贅沢などできるはずもなく、体は強ばるばかりだ。
コンクリート造りの病院は底冷えがひどく、夜半はすすり泣くような呻き声が絶え間なく響く。朝起きたら、体が冷たくなっている兵士は多くいた。美冬達がどれだけ尽力しても、傷や病で苦しむ者は全く減らない。
その中で、美冬は黙々と働いていた。弾が飛び交う戦場に飛び出していくと思っていた静江が感心する働きぶりだ。延々と包帯を変え、部屋と廊下に散らかった虫達を集めて落ち葉と共に燃やし、野菜を植えた土に撒いた。看護婦長が支給されるのが米ばかりでは栄養が偏ると頭を悩ませていると、米と引き替えに小豆を持って帰ってくる。静江が病院の外は危険だと目くじらを立てても、荷物を運び入れる現地の人に頼んだだけだと言った。兵士の目もあるだろうに肝が座っていた。
外地に降りたって一月が立ち、異国の地に咲く梅の花に誰もが故郷を懐かしむ。海を越えて場所でも不屈の花は気高かった。
一つにまとめた頭にのせた看護帽を調え、静江と肩を並べて歩く美冬はおもむろに訊ねる。
「父様や秋人の情報は入ってきませんか?」
「……私のところには来ていないわ」
獣が遠くを見つめるような顔を一瞥して、静江は答えた。
戦況は日々変わる、功績をあげた兵も次の日には亡き者になっていることは珍しくない。一小隊の情報が入らないことも仕方がないことだ。
静江は目線を先に向けたまま、美冬を探していた理由を彼女に告げる。
「
戦場から後方にかけて、野戦、兵站、陸軍と呼ばれる病院が存在する。戦場に設けられた野戦病院は応急措置のみを行い、中間地点の兵站病院では手術が専門に行われ、陸軍は治癒の経過で必要な手術や療養機関として機能していた。陸軍病院には戦火が及ぶことはないが、前線の野戦病院、中間地の兵站病院はそうも言っていられない。占拠した建物を使ってあればいいが、仮設のテントであることも多い。こことは比にならない仕事量と寒さだろう。
それでも躊躇わずに、美冬は口を開く。
「私を推してください。梅辻婦長はどうされますか?」
歩幅を大きくした美冬に合わせて、静江も歩調を早めた。決まりきっているとばかりに無機質な声を響かせる。
「嫌でも連れていかれるわよ。将校が危篤の時は、私の力が必要になるもの」
「倒れないでくださいね」
「善処するわ、と言いたいところだけど、状況しだいね。最後の切り札として使わせていただくわ」
何とも言えない難しい表情の二人は無言で足を動かした。
美冬は担当の病室の前で立ち止まり、静江を振りかえる。
「日程が決まったら教えてください」
「気が早いわよ」
「もう、十分待ちましたから」
生意気な笑顔は颯爽と病室に消えていこうとする。
美冬、とあえて名前でを呼び止められた本人は不思議そうに小首を傾げた。
美冬の前に、肌着からはずされたブローチが差し出される。
珊瑚色のそれに、美冬は見覚えがあった。母の形見分けの時に静江が持ち帰ったものだ。
ブローチから顔を上げる美冬に対して、静江の腕は微動だにしない。落ち着いた声で、促す。
「これを持ってなさい」
「伯母様の分でしょう」
言外に固辞する美冬に静江は冷笑を浮かべる。
「あげるなんて一言も言ってないでしょう」
「……戦争が終わってから返せ、というやつですか」
察しのいい姪に、そういうことと静江は鷹揚に頷く。
美冬はしばらく迷っていたが、意を決したようだ。きつく拳を握った後、ブローチを手に取った。手に転がる珊瑚色のブローチを眺め、目だけを動かして静江を見返す。
「こういうことって普通、恋仲の人達がしません?」
美冬の発想に、首元をとめていた静江は思わずといった様子で吹き出し、子供にすると同じように人差し指で白い額をつく。
「あなたは真面目な顔してやっている時の方が一番あぶなっかしいのよ。それを、壊すような無茶はしないこと。ちゃあんと自分の手で私に返しなさい」
約束よ、と腰に手を当てた静江は美冬に言いつけた。
渋面の眉間にいくつもしわをよせ、口を尖らしていた美冬は考え直したようで、表情を和らげる。
「失くさないよう、肌着につけておくわ。ありがとう、伯母様」
応えるように笑った静江は踵を返す。
「仕事に戻りましょう」
看護婦長の顔に戻り、口調はきびきびとしたものに改められる。
美冬は、わかりましたと答えて病室の扉を開けた。
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