朝の風景

@nkft-21527

第1話

     朝の風景

「もういいよ」

 思わず心の中で、そう囁(ささや)いてしまっていた。でも、その囁きはあくまでも優しく、労わるように。

休日の朝、日課にしている早朝ランニングに出た。いつもの時刻の いつもの練習コースでの出来事だった。

 時刻は午前五時。暗幕を下ろしたような暗さの中を、街灯の光だけを頼りに走っていた真冬が過ぎ、やっと太陽の明るさの中を走れるようになって来た。

 最低気温の上昇と共に、朝の散歩の顔ぶれも、春の芽吹きのように賑やかになって来た。

 ご夫婦で睦ましく歩く人、賑やかにお喋りをしながらウォーキングをするおばさんたちと、早朝に繰り出す顔ぶれは様々だが、最も多いのは、犬を連れての散歩の人たちだろうか。

 柴犬や秋田犬などの和犬を連れた人も多いが、圧倒的に多いのは、トイプードル、チワワ、ミニチュアダックスフンドといった小型犬を連れた人たちだ。

 この小型犬を連れて散歩している人たちの中で、初老の男の人たちが多いのは意外だった。無事に会社を勤め上げ、定年を迎えたくらいの年齢の方々なのだろう、朝の犬の散歩は、健康維持を兼ねた一石二鳥の日課になっているようだ。

 そんな中、その朝出会った犬の散歩の様子は、少し違っていた。

高校生らしい男の子が連れた犬は、かなりの老犬で、その歩みは、まるで一歩ずつ大地を踏みしめているかのように、のろくて弱々しい。

 前足を一歩出すたびに体がよろけてしまい、ガクンといった感じになる。脚で体を支えることが難しいほど老いている。

 毛並みは艶を失い、顔にも精悍さがない。それでも、老犬は必死に歩き続けようとしていた。高校生くらいの年恰好の主人は、右手にリードを持ち、左手でベビーカーを押している。このベビーカーは老犬のためのものだろう。

 老犬は、雑種で、リードを引っ張る主人が幼い頃から一緒に過ごしてきたことが、老犬を見守る優しい眼差しから容易に感じ取れた。

 一歩、一歩、歩くことが、まるで苦行を行っているかのように感じられて、私は心の中で思わず、「もういいよ、そんなにしてまで歩かなくても」と、囁いてしまったのだ。

 私の心の声が聞こえたわけではないだろう。でも、そのすぐ後に、主人が老犬を抱えて、ベビーカーに乗せようとした。

「さあ、もう散歩は終わりだよ。車に乗って帰ろうね」

 そんな言葉が聞こえてきそうな、主人の動作だった。

 けれど、老犬は、脚を激しくバタつかせて、ベビーカーに乗ることを拒み続けた。

 その抵抗は、どこにこんな力が残っているのだろうかと思えるほどの、力強さと激しさで、もうこれ以上強引にベビーカーに乗せるのは無理だろうと、主人に感じさせるほどの切実さを持っていた。

「わかったよ」

 そう言うと、主人は老犬を再び地面の上に降ろした。

「クーン」

 老犬は小さな鳴き声を上げた。

 その鳴き声は、「ありがとう」と嬉しさを伝えているのか、「情けないな」と哀しさと寂しさを伝えているのか、通りがかりの私には分からなかったが、老犬には、主人に伝えたい思いがあったのだろう。

「うん、うん」

 と主人は、何度も頷きながら、老犬の頭を優しい目をして撫でていた。

「ワンちゃんは、今何歳なの?」

 様子を見ているだけでは収まらず、私は思わず声をかけてしまった。

「十七歳です。犬の年齢からいうと平均寿命はとうに過ぎています」

「十七歳はすごいね。君の歳と大きく違わないんじゃないの?」

「チロ、あっ、犬の名前です。チロは僕が生まれる二日前に父親が保護犬センターから引き取ってきたので、僕より年上なんですよ。お兄さんわんこです」

 彼はチロをちらっと見たあと視線を私に戻すと、自慢と愛おしさが混じった優しい笑顔を浮かべた。

「チロはがんばり屋さんだね。一生懸命歩こうとしていた。君がベビーカーに乗せようとしたのに、それを嫌がって歩き続けようとしていたね」

「えっ?」

 どうしてそんなことを知っているのか? そんな顔をしている。

「ごめん、さっき偶然にその光景を見てしまったんだよ」

「そうでしたか。チロが頑張るのは、好物をもらえるからなのです」

「好物。エサではなくて?」

「チロは、緑のたぬきという天ぷらそばのカップ麺に入っている天ぷらが小さい頃から大好物なんです」

「緑のたぬきは私も大好きだけど、天ぷらが大好物の犬なんて珍しいね」

「父親が気まぐれで少し食べさせてみたら、どうやら味が気に入ったみたいで、それからは家族が食べていると、カップを見つけてはおねだりをするようになったみたいです」

 チロの大好物が緑のたぬきの天ぷらだということは判ったが、チロがおぼつかない足どりで歩き続ける理由との関連が想像できなかった。だから、正直に訊いてみた。

「欲しがるたびにあげるわけにはいかないので、頑張って長く散歩をした時にだけ、ご褒美として天ぷらを少しだけあげているのです。ですから、ご褒美が欲しくてベビーカーに乗りたがらないのです。歳をとっても食いしん坊なのは変わらないみたいです」

「なるほど、そういうことか」

 私は納得して、「今朝は頑張ったから、天ぷらをもらえるね」とチロに言った。

「それと……」

 彼はそう言いかけて止めた。

「それで、何?」

 私は言いかけた先を促した。

「僕と一緒だから、チロは頑張って歩いているのだと思います。チロにとってはいつまでたっても僕は弟で、弟の前では弱いところを見せたくないのだと思います。父や母と散歩する時にはすぐにベビーカーに乗ってしまうみたいですから」

「兄貴としての威厳を示しているわけだ」

「見栄っ張りなんですよ、兄さんは」

 彼は身内を自慢するような顔をした。

「どうして、時間の流れは誰に対しても平等なんですかね」

 私にそう問いかけているわけでもなく、彼はぽつりと独り言を吐くように言った。

 彼の言った通り、どんな時でも、誰に対しても時間の流れる速さはすべての者に平等だ。でも、人と犬とでは成長のスピードが格段に違う。

 彼がもの心ついた時には、チロは大人の犬に成長していた。それから今日まで、二人は本当の兄弟のように育ってきたのだろう。二人の歴史を刻んできたのだ。

「ごめん、散歩中に話しかけてしまって足を止めてしまったね。チロ、またね、バイバイ」

 そう言って、私は再び走りだした。

 そっと振り返ると、チロはまだ歩き続けていた。その横でチロの歩みに合わせてゆっくり歩く高校生の姿が逆光で影絵に変わっていた。この影絵の形でも彼がチロを見守っていることがはっきりと読み取れる。

 叶わぬこととは知りながら、私は祈らざるを得なかった。

「チロにだけは、時間がゆっくり流れますように」と。

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