縹渺

川谷パルテノン

忘れ物

"自分で、いつも自分の眼鏡が厭だと思っているゆえか、目の美しいことが、一ばんいいと思われる。鼻が無くても、口が隠されていても、目が、その目を見ていると、もっと自分が美しく生きなければと思わせるような目であれば、いいと思っている。" -太宰治「女生徒」-



 目を窄めて遠くを見つめる。どうにも老眼が進んで、ましてや眼鏡を忘れたまま出かけるとは耄碌も。長年勤めてきた職場を退職する頃、妻は先立ち子は自立して、随分と広い部屋に私を窘める人はいない。唯一、それは言葉を持たないが私と同じように老いた犬だけはそばで見張ってくれていた。かしこい犬で、なればこそこうしてひとり街に出たりもできるのだけれど当の飼い主がこの始末では呆れて吠えてもくれまい。私はなんだか疲れてしまって近くの公園で長椅子を見つけて腰掛けた。若い頃からずっとここにあった公園。目的地ではなかったし、こんなところまでしか歩けないのなら犬も連れてこればよかったとため息をついた。

「おじいさん?」

 俯いた私が突然の声かけに見上げてみると学生服の女の子。平日の午前。こんなところで何をしているのか。

「顔色悪いよ。大丈夫?」

「ああ、気にせんでください。それよりキミ、学校は?」

「えー、説教? せっかく心配してあげたのに最初にそれ?」

「いや、それはありがとうですけれど。申し訳ないね。歳をとるとどうにもカタブツで」

「歳の所為? まあいいや。おじいさんこそ散歩?」

「いや、駅まで行こうと。でも疲れちゃってね」

「それは歳の所為だね。一緒に行こっか?」

「ありがとうね。でもここでいいかなと思ってます」

「用事があったんじゃないの?」

「まあそうなんだけどね。こうして公園にいるといろいろ思い出しちゃって。なんだか満足してしまった」

「いろいろって?」

「いろいろはいろいろだよ」

「ふーん。おじいさんさお金持ってる?」

「え、キミそういう」

「違うよ。あそこでねホラ。飲み物買ってきたげようかなって。あたし今サイフ持ってなくて」

「ああ、ごめんね。じゃあ頼もうかな。キミも何か好きなのがあれば」


 私はお茶を、彼女はリンゴジュースを飲みながら、特に会話もなく平日の静かな公園を過ごした。若い頃、妻とこの公園に来た。お互い家は遠かったけれど、わざわざ電車を乗り継いで降りた駅前から何故か目についたここで今みたいに座って過ごしていた。出会ったばかりの私たちはまだ結婚がどうとか切り出さないでいたけれど、気まずい沈黙をどうにかしようと私がついつい言葉にしたのが「この近くで二人で暮らしませんか?」だった。一年待って私たちは今の家を建てた。


「ごちそうさまでした」

「いやいや、こちらこそ付き合ってもらって悪かったね。そろそろ帰るとするよ」

「えー、そうなの? 近くまで送るよ」

「結構結構。少し元気になったから。それより学校に戻りなさい」

「また説教?」

「私も昔そこに通ってたんだ」

「え、そうなの。大先輩じゃん」

「教師としてね」

「先生だったんだ」

「これでも厳しかったんだ。まあ今はもうそういうのも疲れちゃったけどね」

「そっか。これも何かの縁ってことで先生の言うこと聞いたげる」

「もう先生じゃないよ。だけどそうしてくれるなら私も嬉しい」

「ねえ先生。最後にいっこだけ」

「なんだい?」

「次は眼鏡忘れちゃダメだよ」

 ふっと目の前が鮮明になった。彼女の顔がはっきりと見える。誰かに似ていた。私は立ち止まって、次に気づいてみるともう彼女はいなかった。視界はまたぼやけていて、なんだか狐につままれたような不思議な気分になる。家に戻ると犬がゆっくり近づいてきてワンと一回吠えた。机の上には老眼鏡。こんなところに置いたかなと首を傾げる。私は眼鏡をかけて犬の背中を撫でてみた。

「なんだか元気なんだ。散歩でもいくか」

 犬は私の言葉がわかるのかもう一度吠えて返事をする。

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