第6話 侍女について

 その日の早朝。王女宮付き新米女中メイドのアンナが屋根裏部屋の寝床から起き出したのは、まだ日が昇る前のことだった。


「うー、眠い眠い」


 目をショボショボさせながらお仕着せ姿に着替え、階段を下りる。まだ侍女や女官たちは寝静まっているため、足音を忍ばせて静かに。1階で先輩女中メイドと合流し、欠伸まじりに挨拶する。


「おふぁょうごじゃいましゅ……」


「いい加減、しっかりしなさい!」


 さっそく怒られた。


「いいからさっさと顔を洗って! 今朝の水汲み当番、あんたなんだからね!」


「うへぇ、そうでした」


「思い出した? だったらとっとと始める!」


「はーい」


 ようやく頭がはっきりしてきた。アンナは急いで厨房に向かい、水汲み用の天秤棒を担ぐ。長さ6フィート(約182cm)ほどの頑丈な木の棒で、両端には水桶が括り付けられていた。


 朝から晩まで働きずくめの女中メイドだが、仕事の中でも特にきついのが朝夕2回の水汲みだと、アンナは思っている。


 城内の井戸で水桶に水を汲み、天秤棒で王女宮の厨房まで運んで、水瓶に注ぐ。言葉にすれば簡単だが、王女宮と井戸がかなり離れている上に水瓶も大きく、満杯にするには何度も往復する必要があるのだ。


「うんしょ、こらしょ、どっこいしょ」


 たった3回の往復、それだけでもう息が上がってきた。なのに水瓶の水は、まだほとんど溜っていない。まだ14歳のアンナにとっては体も辛いが、精神的にも苦行である。


 4度目の水を汲む。疲れが溜ってきたので、桶の水量を4分の3くらいにまで減らした。その分、往復の回数は増えてしまうが、背に腹は変えられない。


「それじゃ駄目だよ」


「ひゃう!?」


 突然の声に、アンナは飛び上がりそうになった。


 慌てて振り向くと、アンナより1つか2つ年上に見える黒髪の少女が、こちらに歩いて来ていた。お仕着せ姿だが、生地も仕立ても上質で、レースやフリルで華やかに飾り立てられている。


 アンナのような平民の女中メイドではない。貴族身分の侍女だ。初めて見る顔だが、今日からの新人だろうか? なぜか予備の天秤棒を持っていた。


(ヤバい! ひょっとしてあたし、水を減らしてサボってると思われてるの!?)


 青くなったアンナは、慌てて見知らぬ侍女に弁明する。


「あ、あのですね侍女様、これは違うんですよ。あたしには水がいっぱいいっぱいだと重すぎるんで、仕方なくなんです、はい。その分、ちゃんと何度も往復しますから――」


「うん、それは見れば分かるよ。でも、このやり方じゃ駄目。水を減らすにしても、桶の水量は両方とも同じにしなきゃ。左右で重さが違うと、かえって辛いから」


 そう言いながら侍女は、右の桶に水を注ぎ足す。続いて自分の天秤棒の水桶に、こちらは満杯の水を汲んだ。


「あとさっきから見てたけど、天秤棒の扱い方も良くないよ。ちゃんと真ん中のところで担いで、左右のバランスを取らないと。それと無理に腕の力で持ち上げるんじゃなく、こうやって腰で支えるの」


「は、はあ……」


 さらには天秤棒の担ぎ方の実演まで始めた。アンナは目を白黒させながら、侍女の指導を受ける。


「さあ、やってみて――違う違う、そこでグッと腰を入れるの、腰を――そうそう、上手上手――具合はどうかな?」


「ええっと……何だかいつもより、ずっと楽です」


「そうでしょう、そうでしょう」


 アンナが正直にそう答えると、侍女は心底から嬉しそうに笑った。


「後はそう、歩き方も気をつけてね。こうやって腰を支点に、振り子の要領で足を動かすの。上体はできるだけ揺らさないように。それだけで、ずいぶん楽になるから」


「や、やってみます。うんしょ、こらしょ、うんしょ、こらしょ――」


 侍女の後についていきながら、その動きをできる限り真似してみる。まだぎこちなくたどたどしいが、それでも4回目の水運びはずいぶんと楽だった。


 すでに厨房には台所女中メイドが入っており、かまどで火が焚かれている。


「遅いよ、アンナ。もっと水汲み急いで――って、なんで侍女様がそんなことなさってるんです?」


 水汲みする侍女という珍妙な存在に、台所女中メイドたちも唖然となった。2人並んで水瓶に水を注ぎながら、アンナはふと湧いた疑問を尋ねる。


「あのー、侍女様って貴族の方ですよね。それなのに何でこんなに、水汲みが上手なんですか」


「わたしとしてはむしろ、水汲みがまともにできない平民の子がいたことに驚いてるんだけど」


「あははははは……あたしの実家って、割りと繁盛してる仕立屋なんで。水汲みとかは全部、丁稚の子たちがやってくれてましたから」


 そう笑ってごまかすアンナだが、そこで今さらながら大切なことに気づく。


「あの、侍女様、あたしアンナって言います。侍女様のお名前は、何と仰るのでしょうか?」


「そういえば、うっかり名前を言ってなかったね。わたしは――」


「――イレーネ・ウィンクルム!」


 鋭い叱責が、朝の空気を引き裂いた。


  ○  ●  ○  ●  ○


 叱責を浴びたイレーネは、反射的にすくみそうになった背筋を、逆にビシャリと伸ばした。そんな彼女の姿に、イザベラ女官長は鋭く目を細める。


「今朝はクラウディア殿下へのお目通りがあるので、支度をしておくように言ったはずです。それがこのようなところで、何をしているのです?」


「も、申し訳ありません、イザベラ様。その、この子――アンナに、水汲みのやり方を教えて……」


「言い訳は結構です、ついてきなさい。他の者は、自分の仕事に戻るように」


 女官長はそう命じると、イレーネを連れて厨房を後にする。台所女中メイドたちは慌てて厨房の仕事に取りかかり、アンナもイレーネを心配しながら再び井戸に向かった。


「言ったはずですよ。侍女の務めとはまず何よりも、クラウディア殿下の身の回りのお世話が第一。下働きは女中メイドに任せるように、と」


 昨日、イレーネに仕事の説明をした部屋――侍女のための控え室で、女官長は淡々とそう言った。


「水を汲み上げ、湯を沸かすまでが女中メイドの役目。その湯を殿下の元まで運び、身を清めるのを介添えするのが侍女の役目。共に欠かせぬ役目ですが、同時に明確な違いがある。戦場における、騎士と兵のように」


「…………あ」


 ようやくイレーネは、女官長の言いたいことを理解する。


「あなたに悪意があったとは思いません。ですが、侍女の務めを蔑ろにしたことは変わらない。そのような心得違いをした者に、クラウディア殿下へのお目通りを許すわけにはいきません」


「申し訳、ありません」


「殿下には、私から申し伝えておきましょう。ドロテア、後は任せますよ」


「かしこまりました」


 奥に向かうイザベラ女官長と入れ替わるように、今まで影のように控えていた侍女が前に出てきた。年の頃は20過ぎ。亜麻色の髪をひっつめに結び、端正な顔に銀縁の眼鏡をかけている。


「イレーネ・ウィンクルムでしたね、ついてきなさい」


「承知しました、ドロテア様」


 ドロテアという侍女に従い、イレーネは再び歩き出した。勝手口から外に出て、王女宮の裏手に回る。ようやく日が昇りきっていて、本格的に一日が始ろうとしていた。


 もっともイレーネの心中は、朝の明るさや暖かさの対極にあったが。


(後は任せた――ってわたしへの罰のことだよね。一体、何をされるんだろう?)


「必要以上に怯えなくても結構です。クラウディア殿下の御意により、この王女宮では体罰が禁じられていますから」


 まるでイレーネの心を読んだように、ドロテアはそう言った。王女宮裏手の小さな納屋に入る。


「務めをしくじった侍女には、反省を促すため女中メイドの仕事を課すことが、処罰として定められています」


 そう言いながらドロテアが用意したのは、刃の付け根の部分が捻れた草取り用の鎌に、圧手の手袋、日除け用の笠といった品々だった。イレーネにとっては、よく見慣れた農具である。


「あなたに対しては本末転倒のような気もしますが、規則は規則ですので。今日1日の間、小庭園の草取りをしていなさい。決して芝生を傷つけないように」


「承知しました」


 畑仕事に慣れ親しんでいるイレーネは、草取りの重要さも辛さもよく知っている。『小』庭園という名でも実際の広さはかなりのもの。1人で一日中草取りとなれば、かなりの重労働だ。


 処罰としては、妥当なところだろう。


(反省、しないとね)


 神妙な面持ちでドロテアから農具を受け取りながら、ふとイレーネは疑問を口にした。


「庭園の手入れって、女中メイドじゃなくて庭師の仕事じゃないでしょうか?」


「…………」


 別に揚げ足取りのつもりはない。純粋な疑問による質問だった。

 

(母様、『王女宮はいつも男手が足りない』とか言ってたよね。ひょっとして庭仕事も女中メイドの役目なのかな?)


 待つことしばし、ようやくドロテアが平静そのものの声で答える。


「確かに、あなたの言う通りかもしれませんね」


 表情も小揺るぎ1つしないまま、今まで通りの無表情を保っていた。ほんの少しだけ赤く染まった頬を除いて。


(あ、やっぱりドロテア様の勘違いだったんだ)


 照れてるのちょっと可愛いかも――口にしたらそれこそ怒られるだろうことを、イレーネは思った。


  ○  ●  ○  ●  ○


 トントン、と扉を叩く音。


「殿下、洗面の手水をお持ちいたしました」


「もう起きてる。入っていいよ、イザベラ」


 開く扉。イザベラ女官長以下、2名の侍女が入室する。寝台の上で起き上がり、伸びをする人影。


「あれ、今日から新しい侍女が来るんじゃなかったっけ? どうしたんだい」


「少しばかり問題がありまして。本日のお目通りは、見合わせました」


 人影の介添えをする侍女。静かに顔を洗う音。先ほどの一件を報告するイザベラ女官長。


「――以上です。気立ては良く、働き者なのですが、どうにも侍女の気構えができてないようです。もう少し様子を見るつもりですが」


「あまりキツく叱らないようにね。何だか面白そうな子だし」


 衣擦れの音。立ち上がる人影。薄い夜着1枚という姿のまま、窓際に向かう。


「殿下、そのようなはしたない真似はお止めくださいませ。万一、不埒者に覗かれでもしたらいかがなさいます」


「別に見られて減るものじゃないさ。……ふーん、あの子か」


 部屋の窓から、人影は王女宮の小庭園を見下ろす。正確にはその片隅で草むしりに勤しむ、風変わりな新米侍女の姿を――

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