第5話 王都ゼノン

 イレーネとアンセルの兄妹が王都ゼノンに到着したのは、ウィンクルムを旅立って9日目の昼過ぎのことだった。すでに暦は、6月に入っている。


 王都の周囲を巡る大城壁の北門をくぐり抜けると、人口20万人を超えるゼノンの街並みが広がっている。イレーネは大通りを馬で進みながら、大都市の喧噪に目を見はっていた。


 行き交う人々の流れ。賑わしい呼び売りの声。軒を並べた商店の店先には、東方の胡椒や南海の真珠といった、遠い異国の品々まで並んでいる。


「ゼノンは久しぶりだけど、やっぱりすごいよねえ」


 お上りさん丸出しなイレーネの姿に、ついついアンセルは苦笑した。


「言っておくけど、道草を食ってる暇はないぞ。リグニッツ侯がお待ちになってるのだからな」


「わ、分かってるよ兄様」


 ゼノンの広大な市街は、ルテティア川の流れによって南北に2分されている。国王ヘルマン2世の御座おわす王宮は、北岸に面して築かれていた。さらにその周辺一帯は、貴族の邸宅が建ち並ぶ屋敷町となっている。


 イレーネの祖父であるリグニッツ侯爵の豪壮な邸宅も、その一画にあった。


「おお、よく来たなイレーネ」


「ご無沙汰しております、お祖父様」


 リグニッツ邸の客間。礼儀正しくお辞儀する孫娘の姿を見て、リグニッツ侯のふくよかな丸顔は笑みで溶け崩れる。大臣・大法官として国政を担う宮廷の重鎮なのだが、今は単に孫馬鹿で恰幅の良いだけの好々爺にしか見えない。


「アンセル殿にも、苦労をかけたな。よくぞイレーネを、無事に連れてきてくれた」


「いえ、自分は兄として当然のことをしただけですので」


 やや堅苦しく答えたアンセルが、イレーネの頭を気安くポンと叩く。


「それじゃあ、俺もこれでお役御免だな。騎士団の本営に顔を出しておきたいんで、これで失礼する」


「え? もう行っちゃうんだ、兄様」


「どうせなら晩飯くらい、一緒に食っていかぬか? そのつもりで用意をさせているのだが」


「御厚意はありがたいのですが、思いがけず随分と長い休暇になってしまいましたので。色々と雑用も溜っていることでしょうし」


 そうまで言われては、イレーネにしろリグニッツ侯にしろこれ以上、引き留める訳にはいかない。一礼したアンセルが立ち去る前に、イレーネを見やった。


「達者でな。もし王宮で何か困ったことになったら、いつでも近衛騎士団の本営に来い。俺が何とかしてやるから」


「ありがとう、頼りにしてるよ」



  ○  ●  ○  ●  ○


 その後はアンセルと入れ違いで、教会詣でをしていた祖母のリグニッツ侯爵夫人が戻ってきた。初孫のイレーネを溺愛している祖母は、旅の無事を祈るため1日も欠かさず教会へと参拝し続けていたらしい。


 夕刻には他家へと嫁いでいた叔母2人が、それぞれの家族と共にリグニッツ邸を訪れて、やや砕けた身内のみの晩餐会となる。残念なことに、侯爵家の跡継ぎである叔父は、法務官の仕事で出張中だったが。


 王宮奉公の経験がある叔母たちから侍女の心構えをあらためて説かれる一方で、年少の従弟従妹たちを存分に可愛がる。弟も妹もいないイレーネにとって、『お姉ちゃんぶる』のは極めて新鮮な経験で、とても楽しかった。


 主賓であるイレーネの旅の疲れを慮り、晩餐会は早めにお開きとなる。娘時代に母が使っていたという部屋に通されたイレーネは、豪奢な天蓋付きの寝台で、泥のようにぐっすり眠った。そしてその翌朝、ついにイレーネは王宮に出仕する日を迎える。


  ○  ●  ○  ●  ○


 王宮までは、登城する祖父の馬車に同乗させてもらった。護衛を引き連れた馬車がゆっくり動き出すと、イレーネの対面に腰掛けていたリグニッツ侯が、重々しく咳払いする。


「今日からお前は、人から仕えられる者ではなく、人に仕える者となる。そうやって忍耐の美徳を養い、宮廷での立ち居振る舞いや貴族としての礼儀作法を実地で学ぶのだ」


「はい、お祖父様」


 今さらながらの説諭だが、イレーネは神妙にうなずいた。


 ちなみに貴族の男子も小姓として王宮に出仕し、同じような経験を積むことになる。祖父のリグニッツ侯も、父のウィンクルム伯も、兄のアンセルも、皆そうしてきた。王宮とは貴族の子弟にとって、学びの場でもあるのだ。


 むしろ比率としては、男子の方が多い。貴族でも女子への教育は家庭内か、せいぜい修道院の学校で済まされ、そのまま他家に嫁ぐ場合の方が多数派である。だからこそ『王宮の侍女』という経歴が、箔付けとなるのだが。


 そうこうしているうちに、馬車は王宮の正門前へと到着した。イレーネはここで馬車から下りる。


「ではな、イレーネ。しっかりと励むのだぞ」


「承知いたしました。お祖父様も、お元気で」


 法務院へ出仕するリグニッツ侯と別れて、イレーネは係の者の案内で王女宮に向かった。


 ブレーデル王国の王宮――正式名称ヴィエンヌ宮殿は、大陸でも屈指の規模を持つ巨大な城だ。城壁の外周は5マイル(約8km)にも及び、壮麗な本宮を中心に大小様々な離宮や施設、庭園などが設けられている。


 色鮮やかなレンガ敷きの小道を辿ると、本宮殿の脇に建つこぢんまりとした瀟洒な離宮が見えてきた。あれが王女宮らしい。


「あなたが、イレーネ・ウィンクルムですね」


 王女宮の一室でイレーネを出迎えたのは、いかにも口やかましそうな老婦人だった。


「は、はい! 今日からこの王女宮で、クラウディア殿下にお仕えすることになりました! 力の限りお働きしますので、何でもお命じください!!」


「余計な口上は無用です。聞かれたことのみ答えるように。あと、不必要な大声も関心できません」


「…………はい」


 勢いこんでいたイレーネだが、冷ややかな一言を浴びせられ、たちまち縮こまる。


「わたくしはイザベラ・クラナッハ。クラウディア殿下付きの女官長を務めている者です」


「よろしくお願いします、クラナッハ夫人――」


「イザベラで結構。王女宮に仕える者は皆、姓でなく名で呼び合う習わしになっておりますので」


「失礼いたしました、イザベラ様」


「それでよろしい」


 立ち上がったイザベラ女官長は、部屋の片隅に設置されたクローゼットに向かう。


「本日、クラウディア殿下はアルハイムの教会に参拝なさっておられ、お帰りも少々遅くなられる予定です。あなたのお目通りは明朝となりますので、そのつもりで」


 そう言いながら女官長が取り出したのは、黒い丈長の衣服と白いエプロン、さらに髪を覆うキャップのような小物の一揃い――ようするに侍女のお仕着せだった。


「今日のうちに、王女宮とその周囲を案内しておきましょう。それに着替えなさい」


「は、はい」


「まさかと思いますが、自分1人だけでは着替えられない、などということはありませんね?」


「いえ、大丈夫です。そもそもいくら貴族の令嬢でも、そんな人がいるのですか?」


 イレーネがそう尋ね返すと、イザベラ女官長の眼差しがふと遠くなる。


「ごく稀にですが、そういう者もいるのですよ。例えばおよそ20年ほど前に侍女奉公をしていた、マリア・リグニッツという侯爵家の娘とか」


「…………げふ」


 唐突に出てきた母の名が言葉の刃と化し、容赦なくイレーネの肺腑を抉った。


(この人って絶対、分かって言ってる!! そしてどれだけ駄目駄目だったのですか、昔の母様!?)


  ○  ●  ○  ●  ○


 イザベラ女官長に先導されて、イレーネは王宮の一画を見て回る。


 王女宮の間取り、付属する小庭園の造り、本宮殿への順路、周辺に点在する施設の配置と役割、さらにはクラウディア王女が好んで足を運ぶという庭園などなど。


 途中で短めの昼食を挟み、王女宮に戻ってきた頃合には、そろそろ日が西の空に傾きかけていた。


「当面は、これだけ頭に入れておけば問題ないでしょう。後は仕事に合わせて、おいおい覚えていきなさい」


「はい」


 そう頷きながらイレーネは、脳内で案内された範囲の地図を広げ、確認する。大丈夫、問題ない。きちんと覚えている。


「侍女の仕事ですが、まず何よりもクラウディア殿下の身の回りのお世話が第一となります。お召し物の用意と片付け、洗面や湯浴みの支度、外出時の付き添い、手紙などの代筆。時には殿下の御用を承り、王宮の内外に遣わされることもあります」


「承知しました」


「洗濯、掃除に水仕事などの下働きは平民の女中メイドの仕事ですので、彼女たちに任せておけばよろしい」


(別にそっちの仕事でもいいんだけどなあ)


 そんな内心の声は、取りあえず口にせず黙っておいた。


「後は――そうですね、芸事で殿下の無聊をお慰めすることもあります。歌舞音曲や詩文、何かできるものはありますか?」


「笛なら、少しばかり心得があります」


「吹いてみなさい」


 女官長に促され、イレーネは持参した手荷物の中から愛用の横笛を取り出す。


(耳が肥えた王宮の人に、私の笛なんか聞かせても、大丈夫かなあ。下手くそって怒られるかも)


 今さらながら不安がこみ上げてきたが、ここで「やはり止めます」という訳にもいかない。半ば覚悟して、イレーネは桜色の唇を笛に寄せた。


 緩やかな旋律が流れ出す。


 意外なことにイザベラ女官長は、黙ったまま演奏に聴き入っていた。イレーネが得意の1曲を吹き終えると、しばらくして小さく頷く。


「悪くはありません」


 それが褒め言葉だと気づくまで、少し時間がかかった。


「いずれ、クラウディア殿下に披露する機会を設けましょう。その心積もりで、備えておくように」


「わ、分かりました!」


 思わず声を上ずらせたイレーネが、ついつい左手で握り拳をつくってしまう。どうやら内心の意気込みが、行動に出てしまったらしい。


 それを見ていた女官長の、固く一文字に引き結ばれている口元が、少しだけ――ほんの少しだけ緩む。


「そういえばマリアも、笛だけは見事な腕前でした」


「ありがとうございます、イザベラ様」


 笑顔とはとても呼べない、微かな表情の揺らぎ。だがそれだけでイレーネは、これからも頑張れる気がした。

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